■J・D・サリンジャー著『フラニーとゾーイ』
以前ブログにアップした記事は、mixiの転記だった→『フラニーとゾーイ』J・D・サリンジャー著
たぶん、ノートに書かれているものをmixiのレビューサイズに要約したんだな。
ノートを探っていたら、全文が見つかったから改めて転記しようと思います(まあ、大体同じなんだけど
************************
『ライ麦畑でつかまえて』と同じく「永遠に年をとらない青少年」と呼ばれる主人公たちの語り口調で、
前半の『フラニー』では、恋人レーンとの珍妙なやりとりで終始しているところからもう面白い。
いかにも完璧なルックスの女の子が、ギリギリの感情でボーイフレンドと一緒にいるところ。
続く『ゾーイ』の章では、はじめバディからの、いわば弟と妹への宗教教育に対する謝罪と、
ゾーイが俳優業を選んだことへの批評と励ましの長々とした手紙
それを読み終えたゾーイのバスルームに入ってきて、今はすっかり実家でへばっている娘を心配している
母ベスとの親子とは思えないおかしな会話。
要点をついたと思えばすかさずそらしてしまうゾーイも、この母親もなかなかの演説家。
終始一貫してチキンスープをひと口でも飲ませようとするあたりは滑稽でもあり、感じるものもある。
次に、ついにゾーイはフラニーを説得しはじめる。
自分たちはともに2人の兄に宗教観念をわんさと詰め込まれた畸形児であること。
ベスや父レスをあんなに心配させてはあまりに酷いということ。
祈るには、その祈りの相手Christを少なくとも好きでなくてはならないことなど。
ワイシャツを汗びっしょりにして、妹になんとか聞いて欲しいと話し続けるゾーイだが、結果は芳しくない。
本書のクライマックスは、ゾーイが2階のシーモアとバディの部屋から「役立たずの電話」で
なんとバディのふりをしてフラニーに電話をかけるところ
結局、声の主はバレてしまうが、シーモアの言っていた「太っちょのオバサンのために一生懸命やるんだ」という
この「太っちょのオバサン」は、皆であり、神であることにまで到達する。
そして、フラニーのエゴやその他もろもろへの強い不信感、怒り、恐怖、疑惑などはいったん鎮まり、
疲れきった心と身体を休ませるに至るまでのストーリー。
この芸能夫婦の間に生まれた7人の天才少年少女は、すべてサリンジャーの頭の中で
生み出されたキャラクターであって、読者に彼らがどのように他の人間と違っているかを
詳細に書きつらねるのは、実は作者自身の才能を表している訳であって、その辺も面白い。
『これぞ神童』というテレビ番組出演も含めて、この7人のきょうだいがどう育ってきたか興味深いが、
特にこの作品中ではすでに他界している、家族から最も愛される人格の持ち主、長兄シーモアが
どうして自殺するに至ったのかも、今は謎のままだから、ぜひこのシリーズのつづきを読んでみたくなった。
最初のバディの手紙で「飛行機の中で5時間もの間、まったくのぶっ通しでバカみたいに泣いていた」という件があるが、
ここだけ読んでも、彼らがどれほど人並み外れた愛情で、この長兄を愛して慕っていたかが伝わってくる。
その後も、その事実は誰の心にも受け入れがたく、ここ何年間もずっと引きずっていることも
会話の中に頻繁、かつ重要なポイントとして、その名が語られることから分かる。
ところでバイトのデリバリー中の電車の中や、食事の合間、家の中での雑事の合間に
ほとんど2週間近くかけてブツブツ途切れながらの読書も、2月28日の夜をもっていったん区切りを迎えた。
でも、サリンジャーの作品(といってもまだ2冊しか読んでないけど)には、
また時間をかけてじっくり読み直してみたい気分が残る。
また新たな意味や、発見、感動、知識が次々と出て来るアルバムのように、
その1場面ごとに、読むたび新しい情景が加わって、より立体的に理解したい気持ちにさせる本はそれほど多くはない。
大抵、「もう一度読みたい」と思うだけか、実際読んでも、最初の感動の記憶が薄れるだけの場合が多いから。
この一風変わった大家族を教えてくれたジョディ・フォスターに感謝して礼!
(ジョディが好きな作家だったんだ!驚×5000
以前ブログにアップした記事は、mixiの転記だった→『フラニーとゾーイ』J・D・サリンジャー著
たぶん、ノートに書かれているものをmixiのレビューサイズに要約したんだな。
ノートを探っていたら、全文が見つかったから改めて転記しようと思います(まあ、大体同じなんだけど
************************
『ライ麦畑でつかまえて』と同じく「永遠に年をとらない青少年」と呼ばれる主人公たちの語り口調で、
前半の『フラニー』では、恋人レーンとの珍妙なやりとりで終始しているところからもう面白い。
いかにも完璧なルックスの女の子が、ギリギリの感情でボーイフレンドと一緒にいるところ。
続く『ゾーイ』の章では、はじめバディからの、いわば弟と妹への宗教教育に対する謝罪と、
ゾーイが俳優業を選んだことへの批評と励ましの長々とした手紙
それを読み終えたゾーイのバスルームに入ってきて、今はすっかり実家でへばっている娘を心配している
母ベスとの親子とは思えないおかしな会話。
要点をついたと思えばすかさずそらしてしまうゾーイも、この母親もなかなかの演説家。
終始一貫してチキンスープをひと口でも飲ませようとするあたりは滑稽でもあり、感じるものもある。
次に、ついにゾーイはフラニーを説得しはじめる。
自分たちはともに2人の兄に宗教観念をわんさと詰め込まれた畸形児であること。
ベスや父レスをあんなに心配させてはあまりに酷いということ。
祈るには、その祈りの相手Christを少なくとも好きでなくてはならないことなど。
ワイシャツを汗びっしょりにして、妹になんとか聞いて欲しいと話し続けるゾーイだが、結果は芳しくない。
本書のクライマックスは、ゾーイが2階のシーモアとバディの部屋から「役立たずの電話」で
なんとバディのふりをしてフラニーに電話をかけるところ
結局、声の主はバレてしまうが、シーモアの言っていた「太っちょのオバサンのために一生懸命やるんだ」という
この「太っちょのオバサン」は、皆であり、神であることにまで到達する。
そして、フラニーのエゴやその他もろもろへの強い不信感、怒り、恐怖、疑惑などはいったん鎮まり、
疲れきった心と身体を休ませるに至るまでのストーリー。
この芸能夫婦の間に生まれた7人の天才少年少女は、すべてサリンジャーの頭の中で
生み出されたキャラクターであって、読者に彼らがどのように他の人間と違っているかを
詳細に書きつらねるのは、実は作者自身の才能を表している訳であって、その辺も面白い。
『これぞ神童』というテレビ番組出演も含めて、この7人のきょうだいがどう育ってきたか興味深いが、
特にこの作品中ではすでに他界している、家族から最も愛される人格の持ち主、長兄シーモアが
どうして自殺するに至ったのかも、今は謎のままだから、ぜひこのシリーズのつづきを読んでみたくなった。
最初のバディの手紙で「飛行機の中で5時間もの間、まったくのぶっ通しでバカみたいに泣いていた」という件があるが、
ここだけ読んでも、彼らがどれほど人並み外れた愛情で、この長兄を愛して慕っていたかが伝わってくる。
その後も、その事実は誰の心にも受け入れがたく、ここ何年間もずっと引きずっていることも
会話の中に頻繁、かつ重要なポイントとして、その名が語られることから分かる。
ところでバイトのデリバリー中の電車の中や、食事の合間、家の中での雑事の合間に
ほとんど2週間近くかけてブツブツ途切れながらの読書も、2月28日の夜をもっていったん区切りを迎えた。
でも、サリンジャーの作品(といってもまだ2冊しか読んでないけど)には、
また時間をかけてじっくり読み直してみたい気分が残る。
また新たな意味や、発見、感動、知識が次々と出て来るアルバムのように、
その1場面ごとに、読むたび新しい情景が加わって、より立体的に理解したい気持ちにさせる本はそれほど多くはない。
大抵、「もう一度読みたい」と思うだけか、実際読んでも、最初の感動の記憶が薄れるだけの場合が多いから。
この一風変わった大家族を教えてくれたジョディ・フォスターに感謝して礼!
(ジョディが好きな作家だったんだ!驚×5000