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谷川俊太郎『写真』(晶文社)

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『写真』(晶文社)
谷川俊太郎/著 解説:飯沢耕太郎

本書も、前回紹介した『つなひき』同様、2013年2月20日初版のピカピカの新書
ほんとうに多方面に渡って、精力的に活動していらっしゃるんだなあ!
味わい深い1枚1枚の写真に添えられた、これまた新鮮な言葉の数々を静かに堪能する前に
飯沢耕太郎さんによる解説を先に読むことにした。

私が谷川さんの詩集を一生懸命読んでいたのは10代の頃で、初期の詩集ばかりだったから
(『二十億光年の孤独』『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』『コカコーラ・レッスン』等々)
解説を読んで、その他にもまだまだステキな本が山ほどあることに気づいて、またいろいろ手をつけたくなってきた。


【飯沢耕太郎さんによる解説の抜粋メモ】
きっかけは『絵本(復刻普及版)』(1956年刊行)。
谷川さんはこの頃から写真を撮影していたのだと改めて気づいた。
谷川さんを詩の世界に引っ張り込んだのは、高校時代からの友人、北川幸比古さん。

『SOLO』(ダゲレオ出版)でも既にとても面白い写真集がある。
この頃、谷川さんは人生において「シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の時期にあった。
(この単語、純ちゃんの歌詞にあるね!
仕事場を新宿のワンルームマンションの一室に移したのもそのためだった。

『日本語のカタログ』

世界を認識する手段として写真を有効に使おうとすればするほど、それは「いつも私を裏切る」
その後融和をもたらしたのは、この前後から始まっていたビデオの仕事ではないだろうか。
『Mozart, Mozart!』杉並の家の庭、河北病院のベッドに寝ている母親などのシーンが流れる。
そこで必要なのは目の前の対象をとりあえず受容し、記録していくことをポジティブに認める姿勢だ。
『メランコリーの川下り』

「いま」を過去へと送り込んでいく。ビデオカメラを回すのは
「無言のうちに世界を追想したいがため」であると、谷川さんは書く。
「ビデオテープに記録されたそれらは、すでにひとつのおぼろげな思い出なのだ」(なんか記録魔としては分かる気がする

映像が本来持つはかなさ。だが一瞬目をよぎって消え去ってしまうような存在だからこそ、
それらは「愛惜」すべき、大事なものとなる。

“数えあげればきりのない目にうつり耳に響くもろもろは、
 私に撮られることでなんの栄光も与えられはしないのだが、それらをつなぎ合わせ加算することによって、
 私は世界を愛惜する。”

『トロムソコラージュ』の写真を見た時に感じたのは、1990年半ばに登場した若い女性写真家たち、
長島有里枝や蛭川実花とどこか気分や感触が似通っているということだった。

写真は自意識という厄介な病いを振り落とすには最適の装置だ。
それは平等かつ公平に、自己も他者もそれらを取りまく環境もすべて等価で写しとってくれるからだ。

谷川さんが間近な死を予感しているとか、それを恐れているとか言いたいわけではない。
これらの写真が示しているのは、むしろ「この世」と「あの世」の境界線が
揺らぎつつ消えかかっているようなあり方だろう。
「死」が日常の中に当たり前に入り込み、さりげなく居坐っている様を、谷川さんはしっかりと写しとっているのだ。


『やさしさは愛じゃない』(幻冬舎)ほか、写真絵本もたくさん作っている。
いっそ撮り下ろしの新作写真集はできないかと提案したら、谷川さんから「やりましょう」と即答が来た。
打ち合わせは2012年6月。

生まれた時からカメラがあって、自分で撮り始めたのは、
戦後になって二眼レフカメラ「リコーフレックス」を買ってもらってから。
『ONCE 1950〜1959』(出帆新社)


【写真への谷村さんのコメント抜粋メモ】
コメントの中に、別の場所に生まれていても詩人になっていただろうか、と自問していたけど、
今の谷川さんがあるのは、生まれた場所や、環境も選んだ上でだと思うなあ。
でも、誰でも(たとえヒトでなくても)生まれた時からみんな詩人で、画家で、歌手で、踊り手なんだ。
ただ意識するか、しないかの違いだけで。


これらの屋内写真は自宅だろうか?
緑に囲まれた家屋、木造りの机、床、扉、何気なく置かれた道具や、置き物などから精神的に豊かな生活がうかがいしれる。
代々積み重ねられてきた歴史と、現代とが絶妙に同居している風景も面白い(机の上にキシリトールガムがあったりw


p32
好みの雲の佇まいというものが確かにある。
初めての土地へ行っても、珍しいところへ行っても、
そこに好みの雲があると心が安らぐ。
青空が背景ならどんな雲でも嫌いではないけれども。


p36
チャーリー・ブラウンと顔なじみになってから、もう半世紀。
吉本隆明の「重層的非決定」という言葉を読んだとき、
反射的にwishy-washyなチャーリー・ブラウンの顔を思い浮かべた。


p56
曇った午後、差し迫った締切りもなくて、夜まで暇なとき、
魔がさしたように気弱になることがある。
賑やかなこの世がなんだか嘘のようで、人工が急に薄味になる。
ワビサビの侘びのひととき。


p58
定着されたこの一寸に、過去も未来もひそんでいるのが見える。
この写真、ここに写っている人々、撮った私、
それぞれの時間は現実のうちにあるが、
同時に想像力のうちにしかないとも言えるのではないか?


p78
観るともなしにこんなところに視線が向いているとき、
何を考えているのかと問われれば、
何も考えていないと答えるのが正直だろうが、
考えていないというのもひとつの考えだ。


p88
三十年前にも新宿のマンションのワンルームで、こうして独りで写真を撮っていた。
人生のほとんどは繰り返しで成り立っているのだと気づく。
撮ろうとする対象も、その切り取り方も、ともするとリフレインしそう。


p92
いま見たもの、いま見えたもの、あっと言う間もなく失われてしまう瞬間、
なんでもない、どうでもいい瞬間、すぐ忘れる瞬間、瞬間の奔流に漂って生きているのに、
歴史という時間に取り込まれる。


p102(USBの写真)
産業革命以前には人間はここまでキカイに頼っていなかった。
頼るキカイもどんどん小さくなってゆく。
キカイは初めのうちはヒトの手足を拡張したが、
いまや頭脳まで拡張するようになっている。


p106
昔、LSDの実験台にされたとき
白紙に白い紋様が夢幻に連なっているのが見えた。
文様というのは一種の曼荼羅だろうか。
混沌に秩序を与えたいというヒトの欲求が美を生む。


p108
自分を他人の間に置く、自分を自然の間に置く、
自分を抽象的な空間に置く、自分を時間の流れの中に置く。
自分をどこにも置くまいとする。
他との関係によって変わる自分と、一貫して変わらない自分。


p110
フェルメールは画の中で時を静止させた。
フリーズした時間は現在ではなく、限りなく重層した過去と未来だ。
<いまここ>を静謐な魂の深みで感じられれば、
現実は動かすことのできぬ真実をあらわにする。



【気になった言葉メモ】
メメントモーリ(memento mori)
ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。
「死を記憶せよ」などと訳される。芸術作品のモチーフとして広く使われ、
「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われ、
日本語直訳では「死を思え」、意訳では「死生観」と言える。

「大好きな良寛の書」



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