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『子どものためのコルチャック先生』(ポプラ社)

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『子どものためのコルチャック先生』(ポプラ社)
井上文勝/著

When I approach a child,
I have two emotions.
Affection for what he is today.
And respect for what he can become of.

わたしは子どもに接するとき、
ふたつの感情を持つのです。
今日のその子への愛情と、
未来のその子への敬意とを。


【内容抜粋メモ】

 
「孤児たちの家」の院長だったコルチャック先生が生徒にあげたメッセージカード



裕福なユダヤ系ポーランド人の家で育ったヘインリック・ゴールドシュミット少年。
塀の向こう側の貧しい子どもたちと遊びたくても、両親は許してくれなかった。

「ぼくが大きくなったら、あの子たちとぼくのような子が、いっしょになって遊べる天国をつくるんだ」

可愛がっていたカナリアが死んだ時、十字架をたててお墓をつくると、使用人のおばさんに怒られた。
「それはただの小鳥ですよ。それにあなたはユダヤ人。私たちキリスト教徒の真似をしてはいけないんです!」

この2つの出来事は、少年の胸に深く刻まれた。


「子どもの悲しみを尊重しなさい。たとえそれが失ったオハジキひとつであっても、また死んだ小鳥のことであっても」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)


ヘインリック18歳の時に、父が亡くなる。
彼は家計を助けるために家庭教師をしながら、貧しい子どもたちを救いたいと医学部に入学。

父の書いた戯曲「いかなる道を」が特別賞を受賞。
ヘインリックは、「ヤヌシュ・コルチャック」というペンネームで発表(ポーランドではユダヤ人差別があったため
こののち、彼は「ヤヌシュ・コルチャック」として知られるようになる。


25歳。日露戦争。ロシア領のポーランドで、コルチャック先生は軍医として召集され、
中国人の戦争孤児を見て、人生をこうした子どもたちに捧げようと決意した。

戦後、貧しい子どもたちのためのサマーキャンプのカウンセラーを頼まれる。


33歳。カウンセラーの功績が認められ、ユダヤ人孤児のための施設「孤児たちの家」(ドム・シュロット)の院長となる。


ドム・シュロット


「子どもをひとりの人間として尊重しなさい。子どもは“所有物”ではない」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)


40歳。ポーランド人孤児院「ぼくたちの家(ナシュ・ドム)」を受け持つ。


ナシュ・ドム


「子どもには、自分の教育を選ぶ権利がある。よく話を聞こう」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)


コルチャック先生は、子どもの頃に夢見た「子どもたちの天国」を実現しようとして、
2つの孤児院の子どもたちの交流を深めた。当時では異例だった。
そして、自分の考えを童話として次々と発表。


「子どもは未来ではなく、今現在を生きている人間である。じゅうぶんに遊ばせなさい」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)




コルチャック先生は、毎日の洗濯、食事づくりなどに、子どもたちをどんどん参加させた。
ポストカードにはそれを励ます言葉が書かれていた。


「子どもは愛される権利を持っている。
 自分の子だけでなく、他人の子どもも愛しなさい。“愛”はかならずや返ってくる」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)



ほかにも、こんな点を改良した。

いじめ問題
新しく入った子には、かならず世話役の子どもがつき、
見守りながら、生活に慣れるまで助けてあげることで、いじめはなくなった。

子ども議会
どうやったら自分たちの家がもっと良くなるか、先生になにを要求するか、子ども同士で話し合い、提出する。

子ども法廷
ものを盗んだりした子は、子どもたち自身がひらく法廷で裁かれた。たとえ先生であっても。
コルチャック先生も、怒ってつい生徒の頭をぶってしまい、裁かれた

「子どもが自分たちの裁判所を持ち、お互いに裁き裁かれるべきである。大人もここで裁かれよう」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)

健康チェック
定期的に健康チェックを行った。たくさんの資料が今でも残っている。



54歳。ドイツで反ユダヤ主義のナチスが政権を握る。
コルチャック先生は、2度パレスチナを訪問し、そこに「孤児たちの家」を移そうと考えた。
パレスチナの貧しいアラブ人の子どもも救おうと決心した。

ポーランド国立放送から、児童向け教育番組「老博士のお話」を頼まれ、15分の番組を聞くため、人々は家に急いで帰ったという。
しかし、翌年、「老博士」がユダヤ人だと分かり中断された。

まもなく「ぼくたちの家」も解任される。


1939年9月1日。ポーランドは、ドイツ軍によって南部を、17日北部を占領された。
ドイツ軍は、ユダヤ人の財産を没収し、すべての権利を奪い、
翌年、「ゲットー」(ユダヤ人を隔離する地区)建設にとりかかる。


「子どもは宝くじではない。ひとりひとりが彼自身であればよい」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)



孤児院のアルバム(中央にいるのがコルチャック先生


11月。全ユダヤ人は「ゲットー」への移住が命令された。
飢えが襲い、道路には物乞いがあふれた。

コルチャック先生も、金持ちのユダヤ人の家を周り、子どもたちへの寄付を頼んだ。
同時に、教育にいっそう力を注ぎ、音楽会、講演、詩の朗読会をひらき、人々の心のよりどころとなった。



「子どもも過ちをおかす。それは、子どもが大人より愚かだからではなく、人間だからだ。完全な子どもなどいない」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)



「ゲットー」の路上で、妹に食事を与える少年


翌年12月。ユダヤの「ハヌカ(自由と光のお祭り)」とクリスマスが重なった。
そこに、厳しい監視の目をくぐって「ぼくたちの家」の卒業生たちがプレゼントを届けてくれた


「子どもにも秘密を持つ権利がある。大切な、自分だけの世界を」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)


ゲットーに入って1年半ほど、ナチスがユダヤ人を大勢殺しているというニュースが流れた。
トレブリンカに新しい収容所が建てられるという噂も。

7月18日。コルチャック先生は、インドの詩人タゴールによる「郵便局」という劇を上演した。
これは、死を通して自由になる、病気の王子さまの物語だった。
「なぜこの劇を?」を観客から尋ねられ、「この子どもたちにも、いずれくる死を安らかに迎えることができるように」と答えた。


「子どもの持ち物や、お金を大切に。大人にとってつまらぬものでも、持ち主にとっては大切な宝」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)


劇が上演された4日後、1942年7月22日。コルチャック先生64歳の誕生日。
ドイツ軍は、ゲットーの全ユダヤ人50万人を貨車で移住させた。そこにはガス室が待っていた。

8月6日。孤児院にも警察隊らがやってきた。
コルチャック先生は、子どもたちにいちばんの晴れ着を着せ、
鉄道駅に向かって校歌「同胞」を歌って行進した。


「子どもは幸福になる権利を持っている。子どもの幸福なしに、大人の幸福はありえない」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)


1人のドイツ将校が、教育者、物語作家として有名だったコルチャック先生に助命を伝えたが、
先生は首を振り、貨車に乗り込み、これが彼を見た最期の光景だった。


「子どもは不正に抗議する権利を持っている。圧制で苦しみ、戦争で苦しむのは子どもたちだから」
(コルチャック先生の「子どもの権利の尊重」)





29年後。1971年9月16日。
ウクライナのクリミア天体物理天文台で、1つの小惑星を発見し「2163コルチャック」と名付けた。
コルチャック先生の愛の輝きがいつまでも届くようにとの願いをこめて





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