■シリーズ戦争遺跡2『戦場になった島 沖縄・本土戦』(汐文社)
平井美津子/編
【ブログ内関連記事】
シリーズ戦争遺跡5『歩いてみよう身近な戦争遺跡』(汐文社)
沖縄と言えば、なんとなく観光地のイメージで、先の戦争で激戦地だったことは知っていても、ここまで悲惨だとは想像出来なかった。
その理由も、本土決戦に備えて、大本営を作るための「時間稼ぎ」だったとか、
戦後も米軍に支配され、軍用機墜落などで死者が出ていることなど、
その都度、ニュースで見ていたとしても、聞き流してしまっていることが、
実際、そこに住んでいる人たちにとっては、まだまだ戦争が終わっていないことが分かった。
なにより「集団自決」が「強制集団死」、つまり、沖縄で亡くなられた大勢の市民が、
日本兵によって殺されたようなものだということが一番ショックだった。狂った時代だったな・・・
沖縄復帰43年「基地があるかぎり悲劇が」出身者の思い
15日に沖縄の本土復帰から43年を迎える。
「軍事力に頼れば、いずれ本当の戦争がやってくる。隣国と対話を重ねて平和を守っていくのが政治家の仕事だ」
【内容抜粋メモ】
糸満市の轟壕
見取り図
沖縄戦が激しくなる1945年6月はじめ頃、避難した地元住民でひしめく壕に、
島田知事ら県庁職員、敗走兵が来て、住民を湿地帯に追いたて、自分たちは居心地のよい場所を占拠した。
米軍はガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けて投げ込み、壕内の住民に死傷者が出た。
餓死者が続出し、米軍捕虜となった人の説得で、「餓死か爆死か」と諦めた600人がようやく脱出した。
証言:子どもの黒砂糖を奪った日本兵
孫が泣くたび「今度泣かしたら撃つぞ!」と脅し、兵隊が老婆からむりやり黒砂糖を取り上げた時、取り返そうとした孫を撃ち殺した。
この時から敵愾心は、米英ではなく日本軍に持つようになってしまいました。
ひめゆりの塔、荒崎海岸
「伊原第三外科壕」
「ひめゆり学徒散華の跡」
戦争が長期化し、中学校以上では「軍事教練(男子)」「看護訓練(女子)」が行われ、
「死ねる人間を育てる」という沖縄県の教育方針が発表された。
戦場へ向かったのはわずか15~19歳の少女たち。
負傷兵の看護、排泄物処理、食事の世話、切断した手足の始末、死体の埋葬、、、
食べ物はピンポン球くらいのおにぎりがやっとの毎日。
「鉄の暴風」
沖縄陸軍病院にも撤退命令が出され、住民はガマ(壕)から追い出され、米軍の艦砲射撃の雨の中で犠牲になった。
荒崎海岸では、引率した教師のもとで手榴弾で自決し即死した学徒もいる。
解散命令を受けるまでの犠牲者は90日間で19名だが、
解散命令後のわずか数日で約100名が死んでいった。
文化財指定第1号~沖縄陸軍病院 南風原壕群
「青酸カリをまぜたミルク」
軍司令部から南部への撤退命令が出された。重傷患者には青酸カリが配られた。
「これでも人間か、お前たちのやることは」両足切断の患者がわめいていた。
「重傷患者二千余命自決之地」は、本当に自決と言えるだろうか?
南風原町は、この壕を「沖縄戦の生き証人」として文化財に指定。
それ以前は、近代戦争遺跡は文化財に指定されていなかったが、
これをきっかけに、原爆ドームが国の文化財に指定され、各地でも広まった。
集団自決の島「渡嘉敷島・座間味島」
米軍上陸前、日本軍は住民に手榴弾を渡した。「捕虜にならずに、これで死ね」という命令だった。
パニック状態になった住民は、家族ごとに殺し合いを始めたが、不発が多く、
鎌や鍬、縄で首を絞めたり、石や棒で叩き殺したりする凄惨な場面と化した。
「集団自決」した島民は329人と言われ、その多くは子ども。
・渡嘉敷島 集団自決跡地
碑から下った一帯を地元の人は「玉砕場」と呼ぶ
米軍が来るまで、座間味や慶良間の住民は日本軍と一緒に行動していた。
住居は食糧を提供し、海上特攻艇の秘密基地作りに狩り出された。
座間味島の住民にはスパイでないことを証明する布をつけさせ、島外への移動も禁じた。
「鬼畜米英に捕まると、男は戦車で轢き殺され、女は辱めを受けた上で殺される」と言われ恐怖心を植えつけられた。
軍の命令がなかったり、軍隊がいなかった地域では「集団自決」が起こらなかったという研究結果がある。
手榴弾のような武器を軍の許可なしに配られることはない。
住民の主な「集団自決」の場所と死者数
証言:
「こんなに大きくなったのに。育ててきたのに。自分の手で子どもを亡くすということは・・・」
死のためのおにぎりは、大人は食べずに、何も知らない子どもたちだけが無心にほおばった
スパイ視された住民たち~久米島「痛恨の碑」
この碑の正式名は「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民、久米島在朝鮮人、痛恨の碑」
久米島には海軍通信隊が駐屯していた。日本軍は住民に「下山する者は、米軍に通じるものとして銃殺する」と命じた。
命令した隊長は「私の部下は30人ほどしかいない。島民は1万人もいて、米軍側についてはひとたまりもないため、見せしめのためにやった」と言う。
朝鮮人という理由でスパイと疑われた谷川さん一家7人も、1歳の幼児も含め虐殺された。
このようなことは沖縄各地で起きた。陣地作り等で機密を知る住民を、軍は密告するかもしれないと考えていた。
沖縄戦の縮図といわれた伊江島「ユナッパチク壕」
島民を使って建設した「伊江島飛行場」は、当時、東洋一(東洋一が多いな)と言われた。
米軍が上陸すると、住民を巻き込み激しい戦闘となった。
中には赤ん坊をおぶって突撃した女性もいたと記録がある。
「ユナッパチク壕」の入り口は現在、住宅の一角にひっそり残っている。
生き残った島民約1700名は、渡嘉敷島に強制移住させられた。
その後、米軍は伊江島の基地を拡大。戦後、島民が戻っても、突然畑を潰して演習場にし、爆弾を落とす訓練などを続けた。
これに対し「伊江島土地を守る会」は土地の返還を求め「団結道場」をつくった。
「御真影奉護壕」
「御真影」:天皇・皇后の写真。戦前の教育のシンボル。「教育勅語」とともに神聖なものとされた。
1944年10月10日、沖縄は米軍の激しい空襲を受け、那覇市の9割が焼失したと言われる
「御真影」が火災や空襲で焼失してしまい、校長がクビになったり、自殺する者もいた。
「御真影奉護隊」結成。学生たちによって御真影を隠すための壕が掘られた。
奉護隊は食糧もない中、ジャングルの中を、ゲリラのような避難生活を余儀なくされた。
そこまで守り抜いた奉護影は、1945/6/30、奉護隊自らの手によって焼かれた。
土地を取り戻した読谷村
住民の土地を取り上げてつくった「北飛行場」。村民は沖縄本島北部に追い出された。
その間、米軍は多くの基地をつくり、村の95%が基地となった。
戦後「読谷補助飛行場」となり、米軍のパラシュート降下訓練に使用。
兵士が民家に落ちて家の一部が壊れる被害が出た。
トレーラーの落下で小学4年生の棚原隆子ちゃんが死亡。
読谷村は、米大統領に「読谷補助飛行場を返してほしい」と要求。
飛行場内に野球場や公園、村役場までつくり、2006/12/31、飛行場は村に返された。
読谷村役場
「戦争マラリア」~西表島「忘勿石(わするないし)の碑」
碑には「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が刻まれている。
波照間島の当時の人口約1500人のうち、マラリアにかかった人は99%、30%が亡くなった。
1945/3、波照間住民に西表島への強制疎開命令が出された。
当時、波照間島には離島での作戦を特殊任務とする軍人が教師のフリをして赴任していて、
突然、日本刀を抜き「反対する者は容赦なく叩き斬る」と脅した。
子どもたちに衛生上の理由で蝿とりをさせた軍人が、決められた数の蝿を集められなかった子どもに
容赦ない暴行を加えて殺す事件も起こった。
7月半ば、マラリアの死亡者が数十名になり、校長が日本軍にかけあい、疎開解除許可を得た。
八重山諸島でも3600人もの死亡者を出し、一般と区別して「戦争マラリア」と呼ぶ。
米軍が上陸しなかったにも関わらず、大勢の死者が出た。
「波照間島の学童慰霊碑」
「慰安婦」にされた女性たち~「アリランの碑」宮古島
琉球諸島の慰安所の分布
日本が侵略戦争を開始した1931年から、日本軍の占領地のほぼ全域に軍慰安所が設置された。
当時、植民地だった朝鮮から警察・軍に選定された業者らが、
売春婦ではない少女らを拉致・人身売買・真実を知らせないまま慰安所に集めた。
「慰安婦」たちは「朝鮮ピー」(ピーは朝鮮人女性に対する最大の侮辱の言葉)と呼ばれ、石を投げつけられた。
「アリランの碑」
「慰安婦」にされた女性たちの母国の11の言語と、
ベトナム戦争時に韓国軍によって被害を受けたベトナム女性たちのベトナム語を加えた12の言語で彫られている。
【ブログ内関連記事】
女たちの戦争と平和資料館(7/3~11/30)@wamアクティブ・ミュージアム
女たちの戦争と平和資料館(館内内容メモ)
「魂魄の塔」
戦後初めて建てられた住民による慰霊塔@糸満市
「慰霊塔」:沖縄すべての市町村にあり、とくに南部に集中している。
「黎明の塔」(軍人が建てた慰霊塔)
第32軍の牛島司令官らが自決した。軍人を称えている
「京都の塔」
「南北の塔」
塔の側面には、北に向けて「キムンウタリ(アイヌ語で山の仲間の意)、南に向けて「真栄平区民」と刻まれている。
真栄平は、アイヌ出身兵が含まれた「山部隊」と米軍の激戦地。
戦後、散乱していた遺骨を集めて納めた納骨堂の上に住民有志が建てた。
近代社会において差別されてきた北のアイヌと、南の琉球民族の平和への願いが込められている。
信楽焼の手榴弾
本土戦に備えて、不足した金属を補うため、各地の窯元で陶器の手榴弾、地雷の弾体が作られた。
使われることなく戦後を迎えた陶器の手榴弾は、信楽焼の窯元の裏山や、
川越市の火薬工場近くの川などに埋められたり、捨てられた。
川越市・ビン沼川に捨てられていた手榴弾
海の特攻・空の特攻
「特攻」
特別攻撃の略称。最初の特攻が海軍の「神風特別攻撃隊」だったことから、
米軍は「カミカゼ」「スーサイド・アタック(自殺攻撃)」と呼んだ。
命とひきかえに体当たりして爆弾を命中させる「人命軽視の攻撃法」。
敗戦色が濃くなり、米軍との航空力の差を埋めるため、軍の指示で行われた。
とくに鹿児島県には、フィリピンや沖縄に出撃する特攻基地が多い。
特攻につかわれた戦闘機「隼」(知覧)
さまざまな特攻兵器
「回天」(人間魚雷)
「震洋」(爆装モーターボート)
「桜花」(人間操縦爆弾)
「特殊潜航艇」
アジア太平洋戦争時、九州にあった飛行場
特攻による日本側の戦死者は約5000人。
「震洋」による死者の多くは、戦場に運ばれる途中、輸送船が攻撃されたことによる。
日本の「特攻」が行われた戦場(緑色)
※「リンガニン湾」→「リンガエン湾」に訂正
証言:
学校の先生が「国のために命を捧げることは美しいことだぞ」と言いました。
各地の「トーチカ」群
「トーチカ」
ロシア語で「地点」の意。軍事的な重要地点を守るために分厚い鉄筋コンクリートで造った防衛陣地。
アジア太平洋戦争末期の主なトーチカ
1942/6、ミッドウェー海戦敗北後、戦局が不利になり、太平洋の島々で日本軍撤退。「玉砕」
1944/7、米軍がサイパン島を占領し、本土空襲が開始。
「大本営」(戦争指導本部)は、米軍の本土上陸に備えて、
北海道~九州・沖縄にいたる太平洋に面した多くの地域に防衛陣地を建設した。
根室半島には最も多く(15基)のトーチカが残っている。
志摩半島のトーチカ
南国(高知)のトーチカ
嘉数(沖縄)のトーチカ
戦争末期、多くの部隊が地下に潜り、沖縄全島が「地下要塞」となった。
小笠原諸島の軍事基地
小笠原諸島に軍事基地を本格的に築いたのは1937年、父島に飛行場を建設してからで、1944/7には大本営直轄となった。
日本軍は、父島、母島、硫黄島に軍を配備したが、主な戦場は硫黄島で、1945/3に陥落。
その後、マリアナ諸島からB29による本土空襲が本格化。
戦後、1968年までアメリカの占領下にあり、日本軍陣地はタイムカプセルのように残された。
父島の住民はすべて本土に移住させられたため、当時の様子を知る島民はほとんどいない。
「海軍通信隊送信所」
「夜明山地下壕群」
「一二糎野戦高射砲」
「輸送船 濱江丸」
境浦海岸 米軍機の残骸
※小笠原の戦跡は、近年、「軍事マニア」による盗難があとを絶たない。
本土戦に備えた「首都移転計画」~松代大本営
「象山地下壕」
東京の本格的な空襲が始まった1944/11下旬頃から、長野の善行寺平にハッパ(石や岩を火薬で爆破すること)の音が鳴り響き、
その都度、近く民家の棚のものが落ちる状態だった。
工事名は「松代倉庫工事(マ工事)」と呼ばれたが、戦争を続けるための重要機関を移すための地下壕造りだった。
地下壕は3つの山腹に掘られ、
「象山地下壕」には、政府機関、日本放送協会、中央電話局
「舞鶴山地下壕」には、大本営、天皇皇后・宮内省
「皆上山地下壕」には、食糧貯蔵庫
が入る予定だったが、途中で敗戦し、移転はなかった。
沖縄の見学者は「この壕造りのために沖縄は時間稼ぎの捨石とされたのか」と号泣した。
沖縄で県民の4人に1人が犠牲となる中、「国体護持」が「松代大本営」の最終目標だった。
「舞鶴山地下壕」の「御座所」への階段
戦後、気象庁の施設に転用、地震観測機を設置。通常は公開されていない
今でも造られる戦争遺跡
米軍は、沖縄を戦後も占領し、広大な基地を作り、アジアに睨みをきかせている。
1959/6/30、うるま市の宮森小学校に米軍戦闘機が突っ込み、民家を巻き込み、
児童11名を含む17名が死亡、210名が負傷する大惨事が起きた。
「黒焦げのアカギ」@宜野湾市の沖縄国際大学にある公園
2004/8/13、アメリカ海兵隊の輸送ヘリが墜落、爆発炎上した
[あとがき抜粋メモ]
「戦争はどこか遠いところで行われている」
戦争が始まった頃、日本人の多くがそう思っていた。
しかし、1944年に本土への空襲が始まり、サイパン島などを占領したアメリカは、戦後のアジア戦略までを見通して沖縄に乗り込んだ。
沖縄では、本島のみならず隅々まで、飛行場、トーチカ、陣地壕、特攻艇基地などがつくられ、まさに島全体が要塞となった。
「国体護持」の準備のために時間稼ぎを考えた政府は、沖縄を「捨て石」として守備軍に「持久戦」を命令した。
「集団自決」という用語は、実態にそぐわないという指摘もあり、「強制集団死」という表現も使われるが、
本書では、一般的に使われている集団自決を「」付きで使っている。
[参考文献]
『戦争遺跡から学ぶ』戦争遺跡保存全国ネットワーク/編(岩波書店)
『沖縄の戦争遺跡』沖縄県平和祈念資料館/編(沖縄時事出版)
平井美津子/編
【ブログ内関連記事】
シリーズ戦争遺跡5『歩いてみよう身近な戦争遺跡』(汐文社)
沖縄と言えば、なんとなく観光地のイメージで、先の戦争で激戦地だったことは知っていても、ここまで悲惨だとは想像出来なかった。
その理由も、本土決戦に備えて、大本営を作るための「時間稼ぎ」だったとか、
戦後も米軍に支配され、軍用機墜落などで死者が出ていることなど、
その都度、ニュースで見ていたとしても、聞き流してしまっていることが、
実際、そこに住んでいる人たちにとっては、まだまだ戦争が終わっていないことが分かった。
なにより「集団自決」が「強制集団死」、つまり、沖縄で亡くなられた大勢の市民が、
日本兵によって殺されたようなものだということが一番ショックだった。狂った時代だったな・・・
沖縄復帰43年「基地があるかぎり悲劇が」出身者の思い
15日に沖縄の本土復帰から43年を迎える。
「軍事力に頼れば、いずれ本当の戦争がやってくる。隣国と対話を重ねて平和を守っていくのが政治家の仕事だ」
【内容抜粋メモ】
糸満市の轟壕
見取り図
沖縄戦が激しくなる1945年6月はじめ頃、避難した地元住民でひしめく壕に、
島田知事ら県庁職員、敗走兵が来て、住民を湿地帯に追いたて、自分たちは居心地のよい場所を占拠した。
米軍はガソリンの入ったドラム缶に爆薬を仕掛けて投げ込み、壕内の住民に死傷者が出た。
餓死者が続出し、米軍捕虜となった人の説得で、「餓死か爆死か」と諦めた600人がようやく脱出した。
証言:子どもの黒砂糖を奪った日本兵
孫が泣くたび「今度泣かしたら撃つぞ!」と脅し、兵隊が老婆からむりやり黒砂糖を取り上げた時、取り返そうとした孫を撃ち殺した。
この時から敵愾心は、米英ではなく日本軍に持つようになってしまいました。
ひめゆりの塔、荒崎海岸
「伊原第三外科壕」
「ひめゆり学徒散華の跡」
戦争が長期化し、中学校以上では「軍事教練(男子)」「看護訓練(女子)」が行われ、
「死ねる人間を育てる」という沖縄県の教育方針が発表された。
戦場へ向かったのはわずか15~19歳の少女たち。
負傷兵の看護、排泄物処理、食事の世話、切断した手足の始末、死体の埋葬、、、
食べ物はピンポン球くらいのおにぎりがやっとの毎日。
「鉄の暴風」
沖縄陸軍病院にも撤退命令が出され、住民はガマ(壕)から追い出され、米軍の艦砲射撃の雨の中で犠牲になった。
荒崎海岸では、引率した教師のもとで手榴弾で自決し即死した学徒もいる。
解散命令を受けるまでの犠牲者は90日間で19名だが、
解散命令後のわずか数日で約100名が死んでいった。
文化財指定第1号~沖縄陸軍病院 南風原壕群
「青酸カリをまぜたミルク」
軍司令部から南部への撤退命令が出された。重傷患者には青酸カリが配られた。
「これでも人間か、お前たちのやることは」両足切断の患者がわめいていた。
「重傷患者二千余命自決之地」は、本当に自決と言えるだろうか?
南風原町は、この壕を「沖縄戦の生き証人」として文化財に指定。
それ以前は、近代戦争遺跡は文化財に指定されていなかったが、
これをきっかけに、原爆ドームが国の文化財に指定され、各地でも広まった。
集団自決の島「渡嘉敷島・座間味島」
米軍上陸前、日本軍は住民に手榴弾を渡した。「捕虜にならずに、これで死ね」という命令だった。
パニック状態になった住民は、家族ごとに殺し合いを始めたが、不発が多く、
鎌や鍬、縄で首を絞めたり、石や棒で叩き殺したりする凄惨な場面と化した。
「集団自決」した島民は329人と言われ、その多くは子ども。
・渡嘉敷島 集団自決跡地
碑から下った一帯を地元の人は「玉砕場」と呼ぶ
米軍が来るまで、座間味や慶良間の住民は日本軍と一緒に行動していた。
住居は食糧を提供し、海上特攻艇の秘密基地作りに狩り出された。
座間味島の住民にはスパイでないことを証明する布をつけさせ、島外への移動も禁じた。
「鬼畜米英に捕まると、男は戦車で轢き殺され、女は辱めを受けた上で殺される」と言われ恐怖心を植えつけられた。
軍の命令がなかったり、軍隊がいなかった地域では「集団自決」が起こらなかったという研究結果がある。
手榴弾のような武器を軍の許可なしに配られることはない。
住民の主な「集団自決」の場所と死者数
証言:
「こんなに大きくなったのに。育ててきたのに。自分の手で子どもを亡くすということは・・・」
死のためのおにぎりは、大人は食べずに、何も知らない子どもたちだけが無心にほおばった
スパイ視された住民たち~久米島「痛恨の碑」
この碑の正式名は「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民、久米島在朝鮮人、痛恨の碑」
久米島には海軍通信隊が駐屯していた。日本軍は住民に「下山する者は、米軍に通じるものとして銃殺する」と命じた。
命令した隊長は「私の部下は30人ほどしかいない。島民は1万人もいて、米軍側についてはひとたまりもないため、見せしめのためにやった」と言う。
朝鮮人という理由でスパイと疑われた谷川さん一家7人も、1歳の幼児も含め虐殺された。
このようなことは沖縄各地で起きた。陣地作り等で機密を知る住民を、軍は密告するかもしれないと考えていた。
沖縄戦の縮図といわれた伊江島「ユナッパチク壕」
島民を使って建設した「伊江島飛行場」は、当時、東洋一(東洋一が多いな)と言われた。
米軍が上陸すると、住民を巻き込み激しい戦闘となった。
中には赤ん坊をおぶって突撃した女性もいたと記録がある。
「ユナッパチク壕」の入り口は現在、住宅の一角にひっそり残っている。
生き残った島民約1700名は、渡嘉敷島に強制移住させられた。
その後、米軍は伊江島の基地を拡大。戦後、島民が戻っても、突然畑を潰して演習場にし、爆弾を落とす訓練などを続けた。
これに対し「伊江島土地を守る会」は土地の返還を求め「団結道場」をつくった。
「御真影奉護壕」
「御真影」:天皇・皇后の写真。戦前の教育のシンボル。「教育勅語」とともに神聖なものとされた。
1944年10月10日、沖縄は米軍の激しい空襲を受け、那覇市の9割が焼失したと言われる
「御真影」が火災や空襲で焼失してしまい、校長がクビになったり、自殺する者もいた。
「御真影奉護隊」結成。学生たちによって御真影を隠すための壕が掘られた。
奉護隊は食糧もない中、ジャングルの中を、ゲリラのような避難生活を余儀なくされた。
そこまで守り抜いた奉護影は、1945/6/30、奉護隊自らの手によって焼かれた。
土地を取り戻した読谷村
住民の土地を取り上げてつくった「北飛行場」。村民は沖縄本島北部に追い出された。
その間、米軍は多くの基地をつくり、村の95%が基地となった。
戦後「読谷補助飛行場」となり、米軍のパラシュート降下訓練に使用。
兵士が民家に落ちて家の一部が壊れる被害が出た。
トレーラーの落下で小学4年生の棚原隆子ちゃんが死亡。
読谷村は、米大統領に「読谷補助飛行場を返してほしい」と要求。
飛行場内に野球場や公園、村役場までつくり、2006/12/31、飛行場は村に返された。
読谷村役場
「戦争マラリア」~西表島「忘勿石(わするないし)の碑」
碑には「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が刻まれている。
波照間島の当時の人口約1500人のうち、マラリアにかかった人は99%、30%が亡くなった。
1945/3、波照間住民に西表島への強制疎開命令が出された。
当時、波照間島には離島での作戦を特殊任務とする軍人が教師のフリをして赴任していて、
突然、日本刀を抜き「反対する者は容赦なく叩き斬る」と脅した。
子どもたちに衛生上の理由で蝿とりをさせた軍人が、決められた数の蝿を集められなかった子どもに
容赦ない暴行を加えて殺す事件も起こった。
7月半ば、マラリアの死亡者が数十名になり、校長が日本軍にかけあい、疎開解除許可を得た。
八重山諸島でも3600人もの死亡者を出し、一般と区別して「戦争マラリア」と呼ぶ。
米軍が上陸しなかったにも関わらず、大勢の死者が出た。
「波照間島の学童慰霊碑」
「慰安婦」にされた女性たち~「アリランの碑」宮古島
琉球諸島の慰安所の分布
日本が侵略戦争を開始した1931年から、日本軍の占領地のほぼ全域に軍慰安所が設置された。
当時、植民地だった朝鮮から警察・軍に選定された業者らが、
売春婦ではない少女らを拉致・人身売買・真実を知らせないまま慰安所に集めた。
「慰安婦」たちは「朝鮮ピー」(ピーは朝鮮人女性に対する最大の侮辱の言葉)と呼ばれ、石を投げつけられた。
「アリランの碑」
「慰安婦」にされた女性たちの母国の11の言語と、
ベトナム戦争時に韓国軍によって被害を受けたベトナム女性たちのベトナム語を加えた12の言語で彫られている。
【ブログ内関連記事】
女たちの戦争と平和資料館(7/3~11/30)@wamアクティブ・ミュージアム
女たちの戦争と平和資料館(館内内容メモ)
「魂魄の塔」
戦後初めて建てられた住民による慰霊塔@糸満市
「慰霊塔」:沖縄すべての市町村にあり、とくに南部に集中している。
「黎明の塔」(軍人が建てた慰霊塔)
第32軍の牛島司令官らが自決した。軍人を称えている
「京都の塔」
「南北の塔」
塔の側面には、北に向けて「キムンウタリ(アイヌ語で山の仲間の意)、南に向けて「真栄平区民」と刻まれている。
真栄平は、アイヌ出身兵が含まれた「山部隊」と米軍の激戦地。
戦後、散乱していた遺骨を集めて納めた納骨堂の上に住民有志が建てた。
近代社会において差別されてきた北のアイヌと、南の琉球民族の平和への願いが込められている。
信楽焼の手榴弾
本土戦に備えて、不足した金属を補うため、各地の窯元で陶器の手榴弾、地雷の弾体が作られた。
使われることなく戦後を迎えた陶器の手榴弾は、信楽焼の窯元の裏山や、
川越市の火薬工場近くの川などに埋められたり、捨てられた。
川越市・ビン沼川に捨てられていた手榴弾
海の特攻・空の特攻
「特攻」
特別攻撃の略称。最初の特攻が海軍の「神風特別攻撃隊」だったことから、
米軍は「カミカゼ」「スーサイド・アタック(自殺攻撃)」と呼んだ。
命とひきかえに体当たりして爆弾を命中させる「人命軽視の攻撃法」。
敗戦色が濃くなり、米軍との航空力の差を埋めるため、軍の指示で行われた。
とくに鹿児島県には、フィリピンや沖縄に出撃する特攻基地が多い。
特攻につかわれた戦闘機「隼」(知覧)
さまざまな特攻兵器
「回天」(人間魚雷)
「震洋」(爆装モーターボート)
「桜花」(人間操縦爆弾)
「特殊潜航艇」
アジア太平洋戦争時、九州にあった飛行場
特攻による日本側の戦死者は約5000人。
「震洋」による死者の多くは、戦場に運ばれる途中、輸送船が攻撃されたことによる。
日本の「特攻」が行われた戦場(緑色)
※「リンガニン湾」→「リンガエン湾」に訂正
証言:
学校の先生が「国のために命を捧げることは美しいことだぞ」と言いました。
各地の「トーチカ」群
「トーチカ」
ロシア語で「地点」の意。軍事的な重要地点を守るために分厚い鉄筋コンクリートで造った防衛陣地。
アジア太平洋戦争末期の主なトーチカ
1942/6、ミッドウェー海戦敗北後、戦局が不利になり、太平洋の島々で日本軍撤退。「玉砕」
1944/7、米軍がサイパン島を占領し、本土空襲が開始。
「大本営」(戦争指導本部)は、米軍の本土上陸に備えて、
北海道~九州・沖縄にいたる太平洋に面した多くの地域に防衛陣地を建設した。
根室半島には最も多く(15基)のトーチカが残っている。
志摩半島のトーチカ
南国(高知)のトーチカ
嘉数(沖縄)のトーチカ
戦争末期、多くの部隊が地下に潜り、沖縄全島が「地下要塞」となった。
小笠原諸島の軍事基地
小笠原諸島に軍事基地を本格的に築いたのは1937年、父島に飛行場を建設してからで、1944/7には大本営直轄となった。
日本軍は、父島、母島、硫黄島に軍を配備したが、主な戦場は硫黄島で、1945/3に陥落。
その後、マリアナ諸島からB29による本土空襲が本格化。
戦後、1968年までアメリカの占領下にあり、日本軍陣地はタイムカプセルのように残された。
父島の住民はすべて本土に移住させられたため、当時の様子を知る島民はほとんどいない。
「海軍通信隊送信所」
「夜明山地下壕群」
「一二糎野戦高射砲」
「輸送船 濱江丸」
境浦海岸 米軍機の残骸
※小笠原の戦跡は、近年、「軍事マニア」による盗難があとを絶たない。
本土戦に備えた「首都移転計画」~松代大本営
「象山地下壕」
東京の本格的な空襲が始まった1944/11下旬頃から、長野の善行寺平にハッパ(石や岩を火薬で爆破すること)の音が鳴り響き、
その都度、近く民家の棚のものが落ちる状態だった。
工事名は「松代倉庫工事(マ工事)」と呼ばれたが、戦争を続けるための重要機関を移すための地下壕造りだった。
地下壕は3つの山腹に掘られ、
「象山地下壕」には、政府機関、日本放送協会、中央電話局
「舞鶴山地下壕」には、大本営、天皇皇后・宮内省
「皆上山地下壕」には、食糧貯蔵庫
が入る予定だったが、途中で敗戦し、移転はなかった。
沖縄の見学者は「この壕造りのために沖縄は時間稼ぎの捨石とされたのか」と号泣した。
沖縄で県民の4人に1人が犠牲となる中、「国体護持」が「松代大本営」の最終目標だった。
「舞鶴山地下壕」の「御座所」への階段
戦後、気象庁の施設に転用、地震観測機を設置。通常は公開されていない
今でも造られる戦争遺跡
米軍は、沖縄を戦後も占領し、広大な基地を作り、アジアに睨みをきかせている。
1959/6/30、うるま市の宮森小学校に米軍戦闘機が突っ込み、民家を巻き込み、
児童11名を含む17名が死亡、210名が負傷する大惨事が起きた。
「黒焦げのアカギ」@宜野湾市の沖縄国際大学にある公園
2004/8/13、アメリカ海兵隊の輸送ヘリが墜落、爆発炎上した
[あとがき抜粋メモ]
「戦争はどこか遠いところで行われている」
戦争が始まった頃、日本人の多くがそう思っていた。
しかし、1944年に本土への空襲が始まり、サイパン島などを占領したアメリカは、戦後のアジア戦略までを見通して沖縄に乗り込んだ。
沖縄では、本島のみならず隅々まで、飛行場、トーチカ、陣地壕、特攻艇基地などがつくられ、まさに島全体が要塞となった。
「国体護持」の準備のために時間稼ぎを考えた政府は、沖縄を「捨て石」として守備軍に「持久戦」を命令した。
「集団自決」という用語は、実態にそぐわないという指摘もあり、「強制集団死」という表現も使われるが、
本書では、一般的に使われている集団自決を「」付きで使っている。
[参考文献]
『戦争遺跡から学ぶ』戦争遺跡保存全国ネットワーク/編(岩波書店)
『沖縄の戦争遺跡』沖縄県平和祈念資料館/編(沖縄時事出版)