■『遥かなる紅い夕陽 満州からの引揚げ』
森田拳次/作画 平和祈念特別基金/企画・監修
図書館の「平和図書」コーナーで見つけた1冊。
以前見た満島ひかり主演のドラマ『開拓者たち』の話だと読み始めてから気づいた/驚
海外からの「引揚者」
大戦の終戦後、海外の居住地から生活のすべてを捨て、祖国日本に引き揚げてきた約320万人の方々のこと。
本書は、実体験者の労苦を掲載した冊子『平和の礎』を題材に創作された。
博多、佐世保が一番多いんだな。
【内容抜粋メモ】
●昭和4年 「世界恐慌」の余波で日本でも失業者があふれた。
「世界恐慌」=アメリカにはじまり世界経済を脅かした。
ぜいたく品の絹製品が買い控えられ、養蚕農家は大打撃を被った。
養蚕農家が80%を締めていた長野県の疲弊はとくに深刻だった/驚
●昭和7年 清朝最後の皇帝・溥儀を執政に迎え、満州国が建国される。日本はその後「国際連盟」脱退する。
「国際連盟」=第1次大戦後、アメリカの提唱により、国際平和維持のために1920年に発足。第2次大戦を阻止できず、昭和21年解散。
「五族協和」「王道楽土」の旗の下、大陸への入植を進める。
玲子のもとに県庁から職員が来て、長野から開拓団に応募して満州に渡った青年たちの花嫁を探していると言ってきた。
相手の木沢も養蚕農家の次男で昭和8年に入植した「千振開拓団」の一員だった。
●昭和10年 総勢125名。うち長野県民15名が「大陸の花嫁」として日本を発った。
お世話になる佐藤さん夫婦から「匪賊に団が襲われて死者も出た。屯墾病(とんこんびょう。ホームシック)による退団者も多い」と聞かされる。
木沢も佐藤も「在郷軍人」の資格があった。佐藤には長男・岳史が生まれた。
満州の真冬は平均気温が零下20〜30度。大地は凍土となり、吐く息は瞬時に氷となる。
「黄砂」がひと息つくと、やっと春がくる。
現地の張(チャン)さん一家にも手伝ってもらって、肥料をやらずともたくさんの野菜がとれた。
開拓団員には1人あたり約20haの既耕地が分配された。
木沢は「未耕地」を希望し、周りの反対を押しきって米をつくる決心をする。現地の黄(ファン)さんも協力。
3年目にわずかながら収穫。2人の間には3人の子どもも産まれた。
やがて米英の戦争勃発。逆に入植者は増え、最盛期は約1600人以上となる。
佐藤さんは徴兵され、戦死公報(死亡告知書)が届く。
木沢にも赤紙が届く。
そんな中、ソ連軍が攻めてくるため、千振飛行場に参集せよと知らせが届く。
簡単な荷物だけを持って、一家はその他の仲間と一泊野宿し、千振駅に向かい避難列車に乗った。
列車は全車両「無蓋車」(屋根のない貨車)だった。
雨が降れば全員濡れ放題で風邪をひく者も出る。トイレで外に出てうっかり乗り遅れればそのまま置いていかれた。
●昭和20年 緩化(すいか)という場所で敗戦を知る。
全員、収容所に入れられた。陸軍が使っていた飛行機の格納庫で生活設備も整っていなかった。
次女・聡子が発疹チフスにかかる。風邪をひき、不衛生、栄養不足が原因と分かっていても何も施せないまま亡くなった。
その他大勢が死んだ。
ソ連軍の「囚人部隊」は、避難民のなけなしの荷物を強奪し、女たちは慰み物にされ、妊婦の腹を軍靴で蹴られることもあった。
連れ去られ、ボロボロになって帰ってきて、その日に首を吊って死んだ女性もいた。
女性はみな女に見えないよう丸坊主にして、男装した。
9月半ば、南下の指示が出る。一方、終戦を迎え、家族を探して緩化に着く兵士も目立ちはじめた。
再び乗った列車は、こんどは周りに板もない「まないた」車両で、振り落とされる人が続出。
敗戦後の機関士は中国人で、金品と引き換えに運転する。途中匪賊に襲われることもあった。死人はますます増えた。
遺体を埋葬することも叶わず、河にかかる鉄橋を渡る時、断腸の思いで投げ捨てなければならなかった
なにより生死を分けたのは生きようとする強い意志だった。
食糧は乾パンが数個渡されたのみで、玲子らは1個を噛まずに口の中でゆっくり溶かしながら食べた。
佐藤さんの奥さんは、長男・岳史くんを置いて、列車を飛び降りてしまう。
新京に着く。新しい収容所は、満鉄の寮で「千早寮」という。
わずかな配給食だけで、簡単に人が死んだ。
家族で生きながらえるため、玲子はソ連軍司令部でミシンを使ってほころびを直す仕事を見つける
岳史くんは、「母が死んだとは思えない。わたしの故郷は満州です」と言って、収容所から消えた。
●昭和21年 引揚げの途につく。
船内では「めし上げ」といって、すいとんや乾パンが支給された。
安心したのか、それを口にして死んでいった人もいた。
嘔吐を繰り返し、食が細くなった長女・早苗も祖国を目の前にして船内で亡くなった。
佐世保港に上陸。DDT消毒などの手続きで2日かかり、下伊那の実家に帰る
内地の食糧事情も厳しく、引揚組は「穀潰し」として扱われかねない世情だったが、
木沢の両親はあたたかく迎えてくれた。
●昭和24年 木沢が帰る。
夫はシベリアに抑留されていた。
「シベリア抑留」=終戦で武装放棄した日本軍を騙して、ソ連軍がシベリアなどに移送し、強制労働に従事させた。
約60万人。劣悪な環境下で多数の死者が出た。日本への帰還が完了したのは昭和31年。
職を探そうにも「ソ連かぶれの赤」と白い眼で見られた。
「栃木の那須に開拓が入っていて、千振の仲間も大勢入植しているという話だ」
家族は新天地でやり直すことを誓う。
●平成18年 玲子が亡くなり、長男・大助は、父の眠るヒマラヤ杉の根元に埋めることにする。
大助は、東京で就職、結婚。那須には死者の怨念が蠢いているような気がして嫌いだった。
父が墓を拒んだのも、異国の原野や海原に空しく散った無数の死者に対する申し訳なさからと知り、
母の半生の手記を読み、あらためて自分も死んだらヒマラヤ杉に葬られたいと願うのだった。
いまは栃木の那須は観光地になって壮大な高原地帯だけど、開拓民の家や暮らしはどこに行ったんだろう???
同じ境遇で戦った日本人同士ですら助け合えないくらい心身ともに貧しい時代だったんだな。
▼平和祈念展示資料館
ここに本書が置いてあったのを思い出した。
森田拳次/作画 平和祈念特別基金/企画・監修
図書館の「平和図書」コーナーで見つけた1冊。
以前見た満島ひかり主演のドラマ『開拓者たち』の話だと読み始めてから気づいた/驚
海外からの「引揚者」
大戦の終戦後、海外の居住地から生活のすべてを捨て、祖国日本に引き揚げてきた約320万人の方々のこと。
本書は、実体験者の労苦を掲載した冊子『平和の礎』を題材に創作された。
博多、佐世保が一番多いんだな。
【内容抜粋メモ】
●昭和4年 「世界恐慌」の余波で日本でも失業者があふれた。
「世界恐慌」=アメリカにはじまり世界経済を脅かした。
ぜいたく品の絹製品が買い控えられ、養蚕農家は大打撃を被った。
養蚕農家が80%を締めていた長野県の疲弊はとくに深刻だった/驚
●昭和7年 清朝最後の皇帝・溥儀を執政に迎え、満州国が建国される。日本はその後「国際連盟」脱退する。
「国際連盟」=第1次大戦後、アメリカの提唱により、国際平和維持のために1920年に発足。第2次大戦を阻止できず、昭和21年解散。
「五族協和」「王道楽土」の旗の下、大陸への入植を進める。
玲子のもとに県庁から職員が来て、長野から開拓団に応募して満州に渡った青年たちの花嫁を探していると言ってきた。
相手の木沢も養蚕農家の次男で昭和8年に入植した「千振開拓団」の一員だった。
●昭和10年 総勢125名。うち長野県民15名が「大陸の花嫁」として日本を発った。
お世話になる佐藤さん夫婦から「匪賊に団が襲われて死者も出た。屯墾病(とんこんびょう。ホームシック)による退団者も多い」と聞かされる。
木沢も佐藤も「在郷軍人」の資格があった。佐藤には長男・岳史が生まれた。
満州の真冬は平均気温が零下20〜30度。大地は凍土となり、吐く息は瞬時に氷となる。
「黄砂」がひと息つくと、やっと春がくる。
現地の張(チャン)さん一家にも手伝ってもらって、肥料をやらずともたくさんの野菜がとれた。
開拓団員には1人あたり約20haの既耕地が分配された。
木沢は「未耕地」を希望し、周りの反対を押しきって米をつくる決心をする。現地の黄(ファン)さんも協力。
3年目にわずかながら収穫。2人の間には3人の子どもも産まれた。
やがて米英の戦争勃発。逆に入植者は増え、最盛期は約1600人以上となる。
佐藤さんは徴兵され、戦死公報(死亡告知書)が届く。
木沢にも赤紙が届く。
そんな中、ソ連軍が攻めてくるため、千振飛行場に参集せよと知らせが届く。
簡単な荷物だけを持って、一家はその他の仲間と一泊野宿し、千振駅に向かい避難列車に乗った。
列車は全車両「無蓋車」(屋根のない貨車)だった。
雨が降れば全員濡れ放題で風邪をひく者も出る。トイレで外に出てうっかり乗り遅れればそのまま置いていかれた。
●昭和20年 緩化(すいか)という場所で敗戦を知る。
全員、収容所に入れられた。陸軍が使っていた飛行機の格納庫で生活設備も整っていなかった。
次女・聡子が発疹チフスにかかる。風邪をひき、不衛生、栄養不足が原因と分かっていても何も施せないまま亡くなった。
その他大勢が死んだ。
ソ連軍の「囚人部隊」は、避難民のなけなしの荷物を強奪し、女たちは慰み物にされ、妊婦の腹を軍靴で蹴られることもあった。
連れ去られ、ボロボロになって帰ってきて、その日に首を吊って死んだ女性もいた。
女性はみな女に見えないよう丸坊主にして、男装した。
9月半ば、南下の指示が出る。一方、終戦を迎え、家族を探して緩化に着く兵士も目立ちはじめた。
再び乗った列車は、こんどは周りに板もない「まないた」車両で、振り落とされる人が続出。
敗戦後の機関士は中国人で、金品と引き換えに運転する。途中匪賊に襲われることもあった。死人はますます増えた。
遺体を埋葬することも叶わず、河にかかる鉄橋を渡る時、断腸の思いで投げ捨てなければならなかった
なにより生死を分けたのは生きようとする強い意志だった。
食糧は乾パンが数個渡されたのみで、玲子らは1個を噛まずに口の中でゆっくり溶かしながら食べた。
佐藤さんの奥さんは、長男・岳史くんを置いて、列車を飛び降りてしまう。
新京に着く。新しい収容所は、満鉄の寮で「千早寮」という。
わずかな配給食だけで、簡単に人が死んだ。
家族で生きながらえるため、玲子はソ連軍司令部でミシンを使ってほころびを直す仕事を見つける
岳史くんは、「母が死んだとは思えない。わたしの故郷は満州です」と言って、収容所から消えた。
●昭和21年 引揚げの途につく。
船内では「めし上げ」といって、すいとんや乾パンが支給された。
安心したのか、それを口にして死んでいった人もいた。
嘔吐を繰り返し、食が細くなった長女・早苗も祖国を目の前にして船内で亡くなった。
佐世保港に上陸。DDT消毒などの手続きで2日かかり、下伊那の実家に帰る
内地の食糧事情も厳しく、引揚組は「穀潰し」として扱われかねない世情だったが、
木沢の両親はあたたかく迎えてくれた。
●昭和24年 木沢が帰る。
夫はシベリアに抑留されていた。
「シベリア抑留」=終戦で武装放棄した日本軍を騙して、ソ連軍がシベリアなどに移送し、強制労働に従事させた。
約60万人。劣悪な環境下で多数の死者が出た。日本への帰還が完了したのは昭和31年。
職を探そうにも「ソ連かぶれの赤」と白い眼で見られた。
「栃木の那須に開拓が入っていて、千振の仲間も大勢入植しているという話だ」
家族は新天地でやり直すことを誓う。
●平成18年 玲子が亡くなり、長男・大助は、父の眠るヒマラヤ杉の根元に埋めることにする。
大助は、東京で就職、結婚。那須には死者の怨念が蠢いているような気がして嫌いだった。
父が墓を拒んだのも、異国の原野や海原に空しく散った無数の死者に対する申し訳なさからと知り、
母の半生の手記を読み、あらためて自分も死んだらヒマラヤ杉に葬られたいと願うのだった。
いまは栃木の那須は観光地になって壮大な高原地帯だけど、開拓民の家や暮らしはどこに行ったんだろう???
同じ境遇で戦った日本人同士ですら助け合えないくらい心身ともに貧しい時代だったんだな。
▼平和祈念展示資料館
ここに本書が置いてあったのを思い出した。