■届かぬ訴え〜空襲被害者たちの戦後〜@NHK・ETV特集
太平洋戦争における空襲被害者の補償の訴えが今年5月最高裁で棄却された。
理由は「一般国民は、国との雇用関係がない」ため、「国民たるものは等しく戦争の犠牲を受忍すべきである」。
つまり、一般国民まで補償したら、財政負担が大きすぎるということ
空襲で亡くなったのは約30万人。
一般市民は軍人と違って補償もなく、これまで詳しい調査をされることもなかった。
「戦中より地獄の戦後」
名古屋空襲で左目を失った杉山千佐子さん(97歳)は、1人で調査を開始、
これまで公開する機会もなかった貴重な映像も今回放送された。
当時メディアでも取り上げられることはなく、新人記者だった岩崎さんは、
杉山さんの活動を知って二人三脚で協力してきた。
2人が20年かかって撮影してきた取材をまとめた「傷痕」の中には、
両脚を失っても逞しく自立する女性、
顔に大きくケロイドを負って、「偏見」と戦い、傷病手当もなく、
「美容整形」と扱われて保険も降りず、ローンをいくつも組んだ上、
何度も皮膚移植しても元に戻らず絶望し、自殺した女性、
闇市場の運搬という職しかなく一家心中をはかった家族などの記録が残されている。
25歳で太平洋戦争を経験した杉山さん。
「日本人は声をあげないから、いつまでたっても政府は動かないよ」と会社の上司に励まされ、
57歳の時、第1回集会を開催。100人が集まった。
赤ん坊の頃、防空壕で焼夷弾を受けて火傷を負って重度障害者となった会員最年少の女性は、
母から事情を聞いたのはだいぶ後になってから一度きりだったという。
14回、国会で審議され、いずれもうやむやの返事のまま記憶から消えていった。
会員も800人から50人に減少した。
浜松では7割が被害を受けた。その理由は、アメリカに戻る際、機体を軽くするため
爆弾を「始末」するのに都合がよかったから。「ゴミ溜め」と呼ばれていた。
●防空壕ではなく「待避所」を作るよう要請された国民
昭和18年発行の「時局防空必携」では、「命令に服従」し、避難より消火活動を優先させることが奨励された。
また、焼夷弾も「精神力で叩き潰せ」「案外消しやすい」などと書かれた記事が多かった。
昭和17年の時点では「戦時災害保護法」があり、空襲で損害を受けた住宅・家財、
療養、障害などにも給付金が出ると定められていた。
「総戦力であることを踏まえた国家補償だった」
その後、昭和21年。GHQの法改正により保護法は廃止される。
「全国戦没者遺族大会」が開かれ、昭和27年「戦傷病者戦没者遺族等援護法」、
昭和32年には「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」ができる。
「放射能障害」という特別な事情が背景にあったため。
だが、その他の被害者は保障は受けられなかった。
●ドイツでは
同じ敗戦国のドイツはすべての被害者に1人あたり年間1万円支給し、補償していることを知り、ショックを受けた杉山さん。
とくに「顔の火傷は重傷」とみなされ、全額国民支援を受けることができる。
「戦争被害者の社会復帰が、西ドイツの復興につながる」という明確な方針があった。
●大阪大空襲の被害者は4500人
大火傷を負った女性もまた「汚い」「伝染するのでは?」という偏見に耐え、国を相手に裁判を起こした。
「法の下ではみな平等」という憲法14条に反すると訴えるも、平成23年「不当判決」となり、
今年5月東京最高裁判所が棄却した。
その返答は「国会の立法に解決をのぞむ」というもの。
超党派
去年12月の政権交替で議員が大幅に交替し、「援護法」も消えかけていたが、
最近ふたたび活動が再開しつつあるとのこと。
杉山さんは医師の反対を押しきって、立教大学での講演依頼を受け、話をした。
太平洋戦争における空襲被害者の補償の訴えが今年5月最高裁で棄却された。
理由は「一般国民は、国との雇用関係がない」ため、「国民たるものは等しく戦争の犠牲を受忍すべきである」。
つまり、一般国民まで補償したら、財政負担が大きすぎるということ
空襲で亡くなったのは約30万人。
一般市民は軍人と違って補償もなく、これまで詳しい調査をされることもなかった。
「戦中より地獄の戦後」
名古屋空襲で左目を失った杉山千佐子さん(97歳)は、1人で調査を開始、
これまで公開する機会もなかった貴重な映像も今回放送された。
当時メディアでも取り上げられることはなく、新人記者だった岩崎さんは、
杉山さんの活動を知って二人三脚で協力してきた。
2人が20年かかって撮影してきた取材をまとめた「傷痕」の中には、
両脚を失っても逞しく自立する女性、
顔に大きくケロイドを負って、「偏見」と戦い、傷病手当もなく、
「美容整形」と扱われて保険も降りず、ローンをいくつも組んだ上、
何度も皮膚移植しても元に戻らず絶望し、自殺した女性、
闇市場の運搬という職しかなく一家心中をはかった家族などの記録が残されている。
25歳で太平洋戦争を経験した杉山さん。
「日本人は声をあげないから、いつまでたっても政府は動かないよ」と会社の上司に励まされ、
57歳の時、第1回集会を開催。100人が集まった。
赤ん坊の頃、防空壕で焼夷弾を受けて火傷を負って重度障害者となった会員最年少の女性は、
母から事情を聞いたのはだいぶ後になってから一度きりだったという。
14回、国会で審議され、いずれもうやむやの返事のまま記憶から消えていった。
会員も800人から50人に減少した。
浜松では7割が被害を受けた。その理由は、アメリカに戻る際、機体を軽くするため
爆弾を「始末」するのに都合がよかったから。「ゴミ溜め」と呼ばれていた。
●防空壕ではなく「待避所」を作るよう要請された国民
昭和18年発行の「時局防空必携」では、「命令に服従」し、避難より消火活動を優先させることが奨励された。
また、焼夷弾も「精神力で叩き潰せ」「案外消しやすい」などと書かれた記事が多かった。
昭和17年の時点では「戦時災害保護法」があり、空襲で損害を受けた住宅・家財、
療養、障害などにも給付金が出ると定められていた。
「総戦力であることを踏まえた国家補償だった」
その後、昭和21年。GHQの法改正により保護法は廃止される。
「全国戦没者遺族大会」が開かれ、昭和27年「戦傷病者戦没者遺族等援護法」、
昭和32年には「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」ができる。
「放射能障害」という特別な事情が背景にあったため。
だが、その他の被害者は保障は受けられなかった。
●ドイツでは
同じ敗戦国のドイツはすべての被害者に1人あたり年間1万円支給し、補償していることを知り、ショックを受けた杉山さん。
とくに「顔の火傷は重傷」とみなされ、全額国民支援を受けることができる。
「戦争被害者の社会復帰が、西ドイツの復興につながる」という明確な方針があった。
●大阪大空襲の被害者は4500人
大火傷を負った女性もまた「汚い」「伝染するのでは?」という偏見に耐え、国を相手に裁判を起こした。
「法の下ではみな平等」という憲法14条に反すると訴えるも、平成23年「不当判決」となり、
今年5月東京最高裁判所が棄却した。
その返答は「国会の立法に解決をのぞむ」というもの。
超党派
去年12月の政権交替で議員が大幅に交替し、「援護法」も消えかけていたが、
最近ふたたび活動が再開しつつあるとのこと。
杉山さんは医師の反対を押しきって、立教大学での講演依頼を受け、話をした。