■『学習漫画 世界の伝記27 アインシュタイン』(集英社)
監修/竹内均
【内容抜粋メモ】
1879年 ドイツのウルムでアルベルト・アインシュタイン誕生。
父は電気工事店を営むユダヤ人で小さい頃、数学者になりたかった夢を息子にたくす。
アルベルトは、3歳になっても言葉がうまく話せなかった。妹マヤが産まれる。
磁気コンパスの針がなぜいつも北をさすのかという疑問がきっかけで自然科学に興味を持つ。
自然科学=物理学、化学、生物学、地学など自然のさまざまなことを研究する学問。
小学校では、とくに歴史や語学など暗記が苦手だった
家族や、父方の叔父にいろんな質問をして困らせるが、叔父のおかげで才能をのばしてゆく。
ギムナジウムに入学。叔父がくれたユークリッドの『幾何学言論』を読み、幾何学にのめりこむ。
ユダヤ人家庭では週に2度、貧しい学生らを夕食に招く習慣があり、その学生の一人マックス・タルメイからも教わって
プトレマイオス、コペルニクス、ニュートンなどを学ぶ。
天文学=太陽などの天体、宇宙について研究する学問。
物理学=音、光、電気、熱などの性質、作用、物体の運動、力について研究する学問。
父の工場がたちゆかなくなり、1894年一家はアルベルトを残してイタリアのミラノに引っ越す。
1895年、孤独で神経が参ってしまったアルベルトは、学校をやめてミラノに行き、
スイス連邦工科大学の試験を受けて落ちるが、物理と数学が最高点だったため、スイスのアーラウのギムナジウムに入る。
ある日の昼休み、学校裏の丘で眠り込み、光の速さで光を追いかける夢を見る
早速「思考実験」を試み、のちの相対性理論のもとになった。
思考実験=仮にある実験が行われたと想像して、結果や、理由について考え出す。オーストリアの哲学者マッハが名付けた。
1896年。ギムナジウムを卒業し、スイス連邦工科大学に入学。ここでのちの妻ミレーバ、友人マルセルと会う。
マクスウェル、ボルツマン、ヘルムホルツなどの本を読みふける。
1900年に卒業するもユダヤ人のために就職先が決まらない。
マルセルの父のつてで、スイスのベルンの特許局技官の職につく。
給料も悪くなく、なにより時間がたくさんあって、研究に没頭できた。
父が急死。
アルベルト(24歳)とミレーバは結婚する。1904年長男ハンス誕生。
1905年。「光の発生と変換に関する発見的な見方について」という論文を発表。
これは量子力学のさきがけとなり、のちにノーベル賞を受ける。
量子力学=物質を構成している原子、原子核、素粒子などについて研究する物理学。
花粉の動きから「ブラウン運動」に関する論文を書いて博士号をとる。
「同時刻の相対性」=光の速さはつねに一定だが、時間は相対的だと考えた。
「特殊相対性理論」空間も相対的であると考えた。
「E=mc2」質量とエネルギーは等価だと考えた。
26歳で物理学の歴史を塗り替える論文を次々と発表し、のちに「アインシュタインの奇跡の年」と呼ばれた。
チューリッヒ大学から学位を得た論文
「光電効果」(光電管、光電池に使われている)
「ブラウン運動」、「相対性理論」に関するもの。
これらの理論をすべて自分の頭の中だけで編み出していった。一般の常識をはるかに超えていたため、
理解できた人は世界に数人だけだったと言われる。
ガリレイ=地動説を支持し、相対性原理、慣性の法則を発見。
1907年。「一般相対性理論」のきっかけをつかむ。
ポアンカレ博士、キュリー夫人が論文を高く評価する。
1908年。30歳でチューリッヒ大学助教授にまねかれる。
1911年。プラハ大学物理学教授にまねかれる。キュリー夫人、ポアンカレ、ネルンストなどと会う。
「光の伝わり方に対する重力の影響」という論文を発表。光は重力で曲げられる説をたてる。
一方、チェコ人は独立を勝ち取ろうとドイツ人と対立。
戦争を嫌ったアルベルトは、スイス連邦工科大学の正教授にまねかれ一家で帰る。
友人マルセル・グロスマンの助けを借りて、「一般相対性理論」は完成に近づく。「等価原理」
1913年。プランク、ネルンストからプロシア科学アカデミー会員にまねかれ、一家でベルリンに越す。
ドイツがオーストリア、イタリアと組んで軍隊を強化するのを見て、科学を戦争に利用されるのでは?と危惧するアルベルト。
ドイツになじめないミレーバは子どもを連れてチューリッヒに帰っていった。
1914年。第一次世界大戦はじまる
アルベルトは、「ヨーロッパ人への宣言」に署名し、戦争反対を訴えた。
1915年。ロマン・ロランと会い、平和運動について話し合う。
1916年ごろ「一般相対性理論」が完成する。実験には1919年の皆既日食がいいと決める。
1917年。胃潰瘍で入院。看病してくれた従妹のエルザとのちに結婚することになる。
1918年。終戦。
1919年。日食観測隊によって太陽の影で隠れて見えない星の光を写真に撮り、理論は証明され、世界の科学者から認められた。
エルザと結婚する。世界中から注目され、アルベルトと赤ちゃんに名付ける親が増えたw
日本の出版社「改造社」は、長岡半太郎、石原純、桑木?雄(くわきあやお)ら物理学者らの協力を得て、日本にまねく計画をたてる。
1922年。アルベルトとエルザは来日。船上で1921年度のノーベル物理学賞の受賞を知る。賞金の全額をミレーバに渡した。
日本各地を講演して回り、どこでも大歓迎を受け「アインシュタイン・ブーム」が起こる。
日本を去る時、アルベルトの目に涙が浮かんでいたと伝えられている(のちの運命を感じとったのかも?
帰り道、ユダヤ人の祖国パレスチナとスペインを訪問して、1923年ベルリンに戻る。
第一次大戦に負けたドイツは国民経済がいきづまり、ヒトラー率いるナチス党が「ベルサイユ条約」を破り捨てようと宣伝する。
1928年。心臓肥大症と診断され休養する間も研究を続けた。
1929年。ポツダム市近くに別荘を建てて過ごした
1930年。アメリカのカリフォルニア工科大学の客員教授に3年間の約束でまねかれる。
「平和のための科学は辛い労働から人間を解放します。科学が兵器に使われれば人間を傷つけ、殺したりします」と平和を訴えた。
1933年。ナチス党員は100万人を超え、ヒトラーは首相に任命される。
アルベルトの別荘に大量の武器が隠されているという疑いでナチスの兵が踏み込み、銀行預金など財産のほとんどを没収された
身の危険を感じてベルギーに滞在する。ナチスに味方するプロシア科学アカデミーを去る。
ベルリンではユダヤ人の書いた本が焼き捨てられ、アルベルトの本も焼かれた。
ドイツ国内の大学では相対性理論を教えることを禁じられた。アルベルトの暗殺計画まで囁かれ、
アルベルトはイギリスからアメリカに旅立ち、二度とヨーロッパに戻らなかった。
ニュージャージー州のプリンストンにある高級科学研究所(「知的ホテル」と呼ばれた)に終身会員としてむかえられる。
1934年。エルザの連れ子イルゼが亡くなる。アルベルトはドイツ国籍を奪われた。
1935年。ムッソリーニがエチオピアに攻め込む。
1936年。エルザが病死。
1939年。ドイツがウラン原子を核分裂させる実験に成功する。わずか1gで地球上の都市をほぼ吹き飛ばす爆弾が作れる
物理学者のシラード、テラーから「アメリカに原子爆弾を作ってほしい」と大統領に手紙を書いてくれと頼まれ、
世界をナチスから守るためにサインした。
第二次世界大戦がはじまる。ルーズベルト大統領にアルベルトの手紙が届き、開発計画を進めることになる。
1940年。アルベルトはアメリカの市民権を与えられる。
ウラン利用のための委員会から誘われても断ったため、「マンハッタン計画」(原子爆弾開発計画)から外された。
1945年。ニューメキシコ州のアラモゴード砂漠でアメリカは原子爆弾実験に成功
しかし、イタリアもドイツも無条件降伏した後で、敵国は日本しかなかった。
広島と長崎に原爆が落とされ、十数万人が亡くなり、放射能による後遺症でいまだに苦しむ人がいる。
アルベルトは生涯責任を感じ、原爆が二度と使われないよう残りの生涯を捧げようと誓う。
1949年。アルベルト(70歳)は大動脈瘤の手術を受ける。体力が次第に衰える。
イスラエルの大統領になって欲しいという要請を断り、死後の著作権をヘブライ大学におくった。
1955年。入院中のベッドで「ラッセル・アインシュタイン宣言」にサインした。
「いろいろな政治的な対立はあるが、人類という生物の種が絶えるような事態をまねく核兵器を持っているということ、
このことはすべてに優先して止めなければならない」
それから1週間後、アルベルトは76歳で生涯を閉じる。亡骸は遺書に従いデラウェア川に遺灰が撒かれた。
光の秒速は30万km。地球の赤道部分を一回りした長さは4万km。
相対性理論は、現在の原子炉や、原爆の基礎原理となった。
日常的な速度の世界では、これまでの「ニュートン力学」が役立つ。
監修/竹内均
【内容抜粋メモ】
1879年 ドイツのウルムでアルベルト・アインシュタイン誕生。
父は電気工事店を営むユダヤ人で小さい頃、数学者になりたかった夢を息子にたくす。
アルベルトは、3歳になっても言葉がうまく話せなかった。妹マヤが産まれる。
磁気コンパスの針がなぜいつも北をさすのかという疑問がきっかけで自然科学に興味を持つ。
自然科学=物理学、化学、生物学、地学など自然のさまざまなことを研究する学問。
小学校では、とくに歴史や語学など暗記が苦手だった
家族や、父方の叔父にいろんな質問をして困らせるが、叔父のおかげで才能をのばしてゆく。
ギムナジウムに入学。叔父がくれたユークリッドの『幾何学言論』を読み、幾何学にのめりこむ。
ユダヤ人家庭では週に2度、貧しい学生らを夕食に招く習慣があり、その学生の一人マックス・タルメイからも教わって
プトレマイオス、コペルニクス、ニュートンなどを学ぶ。
天文学=太陽などの天体、宇宙について研究する学問。
物理学=音、光、電気、熱などの性質、作用、物体の運動、力について研究する学問。
父の工場がたちゆかなくなり、1894年一家はアルベルトを残してイタリアのミラノに引っ越す。
1895年、孤独で神経が参ってしまったアルベルトは、学校をやめてミラノに行き、
スイス連邦工科大学の試験を受けて落ちるが、物理と数学が最高点だったため、スイスのアーラウのギムナジウムに入る。
ある日の昼休み、学校裏の丘で眠り込み、光の速さで光を追いかける夢を見る
早速「思考実験」を試み、のちの相対性理論のもとになった。
思考実験=仮にある実験が行われたと想像して、結果や、理由について考え出す。オーストリアの哲学者マッハが名付けた。
1896年。ギムナジウムを卒業し、スイス連邦工科大学に入学。ここでのちの妻ミレーバ、友人マルセルと会う。
マクスウェル、ボルツマン、ヘルムホルツなどの本を読みふける。
1900年に卒業するもユダヤ人のために就職先が決まらない。
マルセルの父のつてで、スイスのベルンの特許局技官の職につく。
給料も悪くなく、なにより時間がたくさんあって、研究に没頭できた。
父が急死。
アルベルト(24歳)とミレーバは結婚する。1904年長男ハンス誕生。
1905年。「光の発生と変換に関する発見的な見方について」という論文を発表。
これは量子力学のさきがけとなり、のちにノーベル賞を受ける。
量子力学=物質を構成している原子、原子核、素粒子などについて研究する物理学。
花粉の動きから「ブラウン運動」に関する論文を書いて博士号をとる。
「同時刻の相対性」=光の速さはつねに一定だが、時間は相対的だと考えた。
「特殊相対性理論」空間も相対的であると考えた。
「E=mc2」質量とエネルギーは等価だと考えた。
26歳で物理学の歴史を塗り替える論文を次々と発表し、のちに「アインシュタインの奇跡の年」と呼ばれた。
チューリッヒ大学から学位を得た論文
「光電効果」(光電管、光電池に使われている)
「ブラウン運動」、「相対性理論」に関するもの。
これらの理論をすべて自分の頭の中だけで編み出していった。一般の常識をはるかに超えていたため、
理解できた人は世界に数人だけだったと言われる。
ガリレイ=地動説を支持し、相対性原理、慣性の法則を発見。
1907年。「一般相対性理論」のきっかけをつかむ。
ポアンカレ博士、キュリー夫人が論文を高く評価する。
1908年。30歳でチューリッヒ大学助教授にまねかれる。
1911年。プラハ大学物理学教授にまねかれる。キュリー夫人、ポアンカレ、ネルンストなどと会う。
「光の伝わり方に対する重力の影響」という論文を発表。光は重力で曲げられる説をたてる。
一方、チェコ人は独立を勝ち取ろうとドイツ人と対立。
戦争を嫌ったアルベルトは、スイス連邦工科大学の正教授にまねかれ一家で帰る。
友人マルセル・グロスマンの助けを借りて、「一般相対性理論」は完成に近づく。「等価原理」
1913年。プランク、ネルンストからプロシア科学アカデミー会員にまねかれ、一家でベルリンに越す。
ドイツがオーストリア、イタリアと組んで軍隊を強化するのを見て、科学を戦争に利用されるのでは?と危惧するアルベルト。
ドイツになじめないミレーバは子どもを連れてチューリッヒに帰っていった。
1914年。第一次世界大戦はじまる
アルベルトは、「ヨーロッパ人への宣言」に署名し、戦争反対を訴えた。
1915年。ロマン・ロランと会い、平和運動について話し合う。
1916年ごろ「一般相対性理論」が完成する。実験には1919年の皆既日食がいいと決める。
1917年。胃潰瘍で入院。看病してくれた従妹のエルザとのちに結婚することになる。
1918年。終戦。
1919年。日食観測隊によって太陽の影で隠れて見えない星の光を写真に撮り、理論は証明され、世界の科学者から認められた。
エルザと結婚する。世界中から注目され、アルベルトと赤ちゃんに名付ける親が増えたw
日本の出版社「改造社」は、長岡半太郎、石原純、桑木?雄(くわきあやお)ら物理学者らの協力を得て、日本にまねく計画をたてる。
1922年。アルベルトとエルザは来日。船上で1921年度のノーベル物理学賞の受賞を知る。賞金の全額をミレーバに渡した。
日本各地を講演して回り、どこでも大歓迎を受け「アインシュタイン・ブーム」が起こる。
日本を去る時、アルベルトの目に涙が浮かんでいたと伝えられている(のちの運命を感じとったのかも?
帰り道、ユダヤ人の祖国パレスチナとスペインを訪問して、1923年ベルリンに戻る。
第一次大戦に負けたドイツは国民経済がいきづまり、ヒトラー率いるナチス党が「ベルサイユ条約」を破り捨てようと宣伝する。
1928年。心臓肥大症と診断され休養する間も研究を続けた。
1929年。ポツダム市近くに別荘を建てて過ごした
1930年。アメリカのカリフォルニア工科大学の客員教授に3年間の約束でまねかれる。
「平和のための科学は辛い労働から人間を解放します。科学が兵器に使われれば人間を傷つけ、殺したりします」と平和を訴えた。
1933年。ナチス党員は100万人を超え、ヒトラーは首相に任命される。
アルベルトの別荘に大量の武器が隠されているという疑いでナチスの兵が踏み込み、銀行預金など財産のほとんどを没収された
身の危険を感じてベルギーに滞在する。ナチスに味方するプロシア科学アカデミーを去る。
ベルリンではユダヤ人の書いた本が焼き捨てられ、アルベルトの本も焼かれた。
ドイツ国内の大学では相対性理論を教えることを禁じられた。アルベルトの暗殺計画まで囁かれ、
アルベルトはイギリスからアメリカに旅立ち、二度とヨーロッパに戻らなかった。
ニュージャージー州のプリンストンにある高級科学研究所(「知的ホテル」と呼ばれた)に終身会員としてむかえられる。
1934年。エルザの連れ子イルゼが亡くなる。アルベルトはドイツ国籍を奪われた。
1935年。ムッソリーニがエチオピアに攻め込む。
1936年。エルザが病死。
1939年。ドイツがウラン原子を核分裂させる実験に成功する。わずか1gで地球上の都市をほぼ吹き飛ばす爆弾が作れる
物理学者のシラード、テラーから「アメリカに原子爆弾を作ってほしい」と大統領に手紙を書いてくれと頼まれ、
世界をナチスから守るためにサインした。
第二次世界大戦がはじまる。ルーズベルト大統領にアルベルトの手紙が届き、開発計画を進めることになる。
1940年。アルベルトはアメリカの市民権を与えられる。
ウラン利用のための委員会から誘われても断ったため、「マンハッタン計画」(原子爆弾開発計画)から外された。
1945年。ニューメキシコ州のアラモゴード砂漠でアメリカは原子爆弾実験に成功
しかし、イタリアもドイツも無条件降伏した後で、敵国は日本しかなかった。
広島と長崎に原爆が落とされ、十数万人が亡くなり、放射能による後遺症でいまだに苦しむ人がいる。
アルベルトは生涯責任を感じ、原爆が二度と使われないよう残りの生涯を捧げようと誓う。
1949年。アルベルト(70歳)は大動脈瘤の手術を受ける。体力が次第に衰える。
イスラエルの大統領になって欲しいという要請を断り、死後の著作権をヘブライ大学におくった。
1955年。入院中のベッドで「ラッセル・アインシュタイン宣言」にサインした。
「いろいろな政治的な対立はあるが、人類という生物の種が絶えるような事態をまねく核兵器を持っているということ、
このことはすべてに優先して止めなければならない」
それから1週間後、アルベルトは76歳で生涯を閉じる。亡骸は遺書に従いデラウェア川に遺灰が撒かれた。
光の秒速は30万km。地球の赤道部分を一回りした長さは4万km。
相対性理論は、現在の原子炉や、原爆の基礎原理となった。
日常的な速度の世界では、これまでの「ニュートン力学」が役立つ。