■NHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」
山崎豊子(享年89歳)(ウィキ参照
名作の数々
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【ブログ内関連記事】
ドラマ『大地の子』(1995 全11話)
映画『沈まぬ太陽』(2009)
映画『華麗なる一族』(1974)
膨大な資料
死後から2年。関係者も立入り禁止の書庫から大量の資料が見つかり、検証が始まった(誰かの許可を得たんだろうか?
600本以上の取材テープ
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戦争責任
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「個人にとって国家とは何か、戦争とは何かを問いかける小説を書こうと」
仲代達矢さんが自宅の仏壇にお参りした
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生涯をかけて描いたのは戦争、戦後の日本人の生き様
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書斎は生前のまま残している。この部屋にベッドを持ち込んで書き続けた。
仲代「山崎さんがずっと元気でいらっしゃったら、今の日本と中国の関係は、相当鋭い切り口で言われたと思う」
デビュー
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“取材の鬼”と呼ばれた
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東京裁判
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元大本営・作戦参謀 瀬島龍三さんは『不毛地帯』のモデルと言われる。
取材したテープは100時間分! 自らの戦争責任についてはついに語らなかった。
山崎「15万人の兵力を動かす。もう一度、神様が“何でも好きなものに生まれ変わってこい”と言ったら、
やっぱりもう一度、元大本営・作戦参謀におなりになるのでしょうか?」
瀬島「勝つ戦のね」
シベリア抑留
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瀬島「僕ね、割合過ぎたことはね、深刻には覚えてないんだな。シベリアあたりはね、そっとしておきたいという気持ち」
山崎「そこは自分が忘れたいと思っているから」
瀬島「日本経済がこれだけ伸びたのは、やはり商社でしょう」
取材ノートには『不毛地帯』にいたるまでいくつかのタイトルを考えていたことが分かる。
仲代さんによる、それぞれの大作の朗読も胸に迫るものがあった。
「確かに物質的には豊かになったが、精神的には全く頽廃してしまった。
日本全体が不毛地帯と云っても過言ではない」
秘書・野上さんは50年間秘書としてすべての取材等に同行した。
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山崎さんがもっとも心酔していた人物。シベリア抑留は11年間続いた。「生き抜け!」と周囲を励まし続けた
山崎「“生きているのがきつい”というのは、どういう状態なんですか?」
竹原「一番酷い仕事はスコップで鉱石を機械の中に放り込む仕事を12時間、飲まず食わずでね。
帰れるなんてことは望んでも得られないことだと。どうせシベリアで白樺の肥やしになるんだと」
竹原さんが描いた極北で亡くなった仲間たちの棺。竹原さん自身が作ったという。
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戦後、竹原さんは妻子を京都に残して、1人、会社のプレハブ小屋で暮らした。
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瀬島さんは、戦後、中曽根元総理のブレーンとして政界にも影響力を持った。
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次女「山崎さんから贈られた本を持って帰ってきて、“好きにすればいいけど、読まなくてもいいよ”と言って、そのまま今も置いてあります」
山崎さんは日記も多く残していた
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学生時代、軍需工場に動員され、新聞社で働いた
日記:
1月20日、敵機来襲で、線路側の防空壕へ飛び込む。
何とも云えぬ敵愾心がむらむらと湧き上がる。畜生、勝つまでは頑張るぞ。
心境の変化は片思いの恋
日記:
私は凪よりも嵐を呼ぶ女だ。真正面から偽りなく彼とぶっつかりたい。
これほど迄に彼を愛しているのに、それを信じて貰えないほど恐ろしい苦しい事はない。
想い人は召集され、戦地に赴き、二度と会えなかった。山崎さんは生涯このことを忘れなかった。
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「この無残、惨状、戦争は絶対いけないものだ。人類の不幸は戦争から始まるものだ」
中国を舞台に小説を描いて欲しいと依頼を受ける
中国共産党 胡耀邦 総書記と会見
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山崎「私は中国を愛しています。もし中国の悪いことを書いても、愛すればこその愛の鞭だと思ってください」
胡耀邦「うん、いいですね。賛成です。間違いを克服しながら、後から前進する、これが中国です」
胡耀邦氏の全面協力を得て、外国人立入り禁止区域も訪問、約300人以上に取材を重ねて『大地の子』を書き上げた。
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『引揚孤児と残留孤児~海峡を越えた子・越えられなかった子』(汐文社)
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山崎「非常に残酷なことを伺いますが、妹さんはソ連侵攻時どんな状態に?」
紅谷「“泣き声を出すから連れて行けない。紐で殺せ”と言われ、絞め殺しました。今まで誰にも言えなかった。
7歳で“私も殺してください”て日本兵に頼んだよ。
それで自分で鉄砲を持って、頭のほうをバーンってやった。“天皇陛下万歳”3回」
山崎「中国大陸のそここで、自分が日本人であることも分からず、小学校さえ行かせてもらえず、
牛馬のごとく酷使されているのが本当の戦争孤児ですよと。
私たち世代の大人の侵略の罪業を、幼い子どもたちに背負わせたことに他ならない。
私は、これまで、いろいろな取材を致しましたが、泣きながら取材したのは初めてです」
政府は、残留孤児問題に着手
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中国の養父母にも取材
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山崎「子どもに“日本に帰りたい”と言われた時、ご両親はどんな気持ち?」
養父「3、4年間はいつも泣いていました。目の前がぼやけるほどに。
何と言っても息子の体には、私たちとは違う血が流れている。
やはり日中友好のため、実際の両親のために決断しました」
山崎「私がお母さんの立場だったら、そんな国家の政治なんかどうでもいいです。
もう可愛くて絶対に離しません。“恩知らず”てわめく」
養父「その一点張りの思考ではダメでしょう。自分のことばかり考えては」
山崎さんは、彼らに真の日中友好の姿を見たという。
取材と執筆には8年かかった。
80歳を越え、歩行が困難になっても自ら取材することにこだわり続けた。
2001年、沖縄に取材で通う
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「日本と、日本人にとって沖縄は何だったかというところに突き当たる。
自分たちの本土の人間の恥と悔いの問題なんだ」
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山崎「沖縄戦終結の日さえ知らなくて平気な人もいるんです。私は許されないことだと思う」
シリーズ戦争遺跡2『戦場になった島 沖縄・本土戦』(汐文社)
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「死ぬ前にみんな水を欲しがるんです」
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「これはもう泥棒でしょ。これが延々と続く」
山崎さんは同時期に九州でも取材した
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ある事件をきっかけに仕事を追われた西山さん。
沖縄返還をめぐる秘密文書を入手し、そこには基地返還の費用負担をめぐる日米の密約が記されていた。
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ところが、外務審議官が女性だったことで西山さんは、国家公務員をそそのかしたという罪で逮捕される。
それ以降、西山さんは沖縄には一度も行っていない(いろいろ出来るんだなあ、政治屋って
密約を認めないまま、1972.5.15「沖縄返還」
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西山「戦争責任と、本土と、沖縄との差別ね。これがずっと一貫して底流にあった」
山崎さんが西山と会ったのは、逮捕から30年後。100時間の取材を重ねた。
この大きな問題を自分に書けるのかと悩んでいたが、西山さんを通して『運命の人』を書くことを決意した。
スキャンダルに抗議した
しかし、本の中に情事の場面があり、西山さんは抗議の電話をした。
「あんなもの書きやがって、三流小説以下やないか!」
西山「山崎さんが“これは伝記を書いてんじゃないんだから”って言ったが、
モデルがガチっとおるんだから、みんな事実だと思い込むでしょう」
山崎「大上段に国家権力と闘ったとか、そういうストレートなスローガンでは、読者は感動しません。
いかに彼が惨めな屈辱を味合わせられたか。
夫を守り、子どもを守る妻の姿があってこそ、国家権力の浅ましさが出るんですよ」
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山崎さんは「読者がついてくる自信があります。長年の経験で」と啓子さんを説得した。
西山「権力、社会、人間の相関関係をえぐり出そうとする作家の真骨頂。相当、崇高な問題提起です。
それを大衆にあれだけ浸透させる。“至芸”ですね」
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山崎「書いて知らせるという、私なりの方法で、その役割の一端を担っていこうと思う」
西山さんは、本と同調するように再びペンをとった
2015.7 西山さんの講演にて
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「沖縄施設返還の時に重大な密約があって、同時に安保条約が変わった。
日本の国が国際的に一番、欠陥を指摘されているのは、歴史の検証力が極めて弱い」
太平洋戦争戦没者慰霊協会 秋上眞一代表理事がロシアのハバロフスクへ
瀬島さんと晩年、行動を共にしてきた秋上さんは、ロシアを訪問した。
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この施設を建てたのは瀬島さん。戦後、自分だけが生き残ったというトゲがずっと刺さっていたという
『大地の子』の取材を受けた1人で、残留孤児の紅谷寅夫さん(77)と長女
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美子「私は中国と日本の両方の血が入ってるから、永遠に戦争がなくて、平和であればいい。
そういう時がくればいいのにと、それだけ願っています」
残留孤児を支援しつづけた山崎さん
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『大地の子』を書いた後、22年前から私財を投げ打って、
今も厳しい状況にある残留孤児の子どもたちに学費支援を続け、ずっと引き継がれている。
今年も三世、四世が今年も奨学金を受けた。
山崎さんの想いは、子どもたちにも受け継がれている。
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『遥かなる紅い夕陽 満州からの引揚げ』

名作の数々







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死後から2年。関係者も立入り禁止の書庫から大量の資料が見つかり、検証が始まった(誰かの許可を得たんだろうか?
600本以上の取材テープ





「個人にとって国家とは何か、戦争とは何かを問いかける小説を書こうと」
仲代達矢さんが自宅の仏壇にお参りした

生涯をかけて描いたのは戦争、戦後の日本人の生き様

書斎は生前のまま残している。この部屋にベッドを持ち込んで書き続けた。
仲代「山崎さんがずっと元気でいらっしゃったら、今の日本と中国の関係は、相当鋭い切り口で言われたと思う」


“取材の鬼”と呼ばれた





元大本営・作戦参謀 瀬島龍三さんは『不毛地帯』のモデルと言われる。
取材したテープは100時間分! 自らの戦争責任についてはついに語らなかった。
山崎「15万人の兵力を動かす。もう一度、神様が“何でも好きなものに生まれ変わってこい”と言ったら、
やっぱりもう一度、元大本営・作戦参謀におなりになるのでしょうか?」
瀬島「勝つ戦のね」




瀬島「僕ね、割合過ぎたことはね、深刻には覚えてないんだな。シベリアあたりはね、そっとしておきたいという気持ち」
山崎「そこは自分が忘れたいと思っているから」
瀬島「日本経済がこれだけ伸びたのは、やはり商社でしょう」
取材ノートには『不毛地帯』にいたるまでいくつかのタイトルを考えていたことが分かる。
仲代さんによる、それぞれの大作の朗読も胸に迫るものがあった。
「確かに物質的には豊かになったが、精神的には全く頽廃してしまった。
日本全体が不毛地帯と云っても過言ではない」
秘書・野上さんは50年間秘書としてすべての取材等に同行した。




山崎さんがもっとも心酔していた人物。シベリア抑留は11年間続いた。「生き抜け!」と周囲を励まし続けた
山崎「“生きているのがきつい”というのは、どういう状態なんですか?」
竹原「一番酷い仕事はスコップで鉱石を機械の中に放り込む仕事を12時間、飲まず食わずでね。
帰れるなんてことは望んでも得られないことだと。どうせシベリアで白樺の肥やしになるんだと」
竹原さんが描いた極北で亡くなった仲間たちの棺。竹原さん自身が作ったという。


戦後、竹原さんは妻子を京都に残して、1人、会社のプレハブ小屋で暮らした。


瀬島さんは、戦後、中曽根元総理のブレーンとして政界にも影響力を持った。


次女「山崎さんから贈られた本を持って帰ってきて、“好きにすればいいけど、読まなくてもいいよ”と言って、そのまま今も置いてあります」


学生時代、軍需工場に動員され、新聞社で働いた
日記:
1月20日、敵機来襲で、線路側の防空壕へ飛び込む。
何とも云えぬ敵愾心がむらむらと湧き上がる。畜生、勝つまでは頑張るぞ。

日記:
私は凪よりも嵐を呼ぶ女だ。真正面から偽りなく彼とぶっつかりたい。
これほど迄に彼を愛しているのに、それを信じて貰えないほど恐ろしい苦しい事はない。
想い人は召集され、戦地に赴き、二度と会えなかった。山崎さんは生涯このことを忘れなかった。

「この無残、惨状、戦争は絶対いけないものだ。人類の不幸は戦争から始まるものだ」

中国共産党 胡耀邦 総書記と会見

山崎「私は中国を愛しています。もし中国の悪いことを書いても、愛すればこその愛の鞭だと思ってください」
胡耀邦「うん、いいですね。賛成です。間違いを克服しながら、後から前進する、これが中国です」
胡耀邦氏の全面協力を得て、外国人立入り禁止区域も訪問、約300人以上に取材を重ねて『大地の子』を書き上げた。






山崎「非常に残酷なことを伺いますが、妹さんはソ連侵攻時どんな状態に?」
紅谷「“泣き声を出すから連れて行けない。紐で殺せ”と言われ、絞め殺しました。今まで誰にも言えなかった。
7歳で“私も殺してください”て日本兵に頼んだよ。
それで自分で鉄砲を持って、頭のほうをバーンってやった。“天皇陛下万歳”3回」
山崎「中国大陸のそここで、自分が日本人であることも分からず、小学校さえ行かせてもらえず、
牛馬のごとく酷使されているのが本当の戦争孤児ですよと。
私たち世代の大人の侵略の罪業を、幼い子どもたちに背負わせたことに他ならない。
私は、これまで、いろいろな取材を致しましたが、泣きながら取材したのは初めてです」








山崎「子どもに“日本に帰りたい”と言われた時、ご両親はどんな気持ち?」
養父「3、4年間はいつも泣いていました。目の前がぼやけるほどに。
何と言っても息子の体には、私たちとは違う血が流れている。
やはり日中友好のため、実際の両親のために決断しました」
山崎「私がお母さんの立場だったら、そんな国家の政治なんかどうでもいいです。
もう可愛くて絶対に離しません。“恩知らず”てわめく」
養父「その一点張りの思考ではダメでしょう。自分のことばかり考えては」
山崎さんは、彼らに真の日中友好の姿を見たという。
取材と執筆には8年かかった。
80歳を越え、歩行が困難になっても自ら取材することにこだわり続けた。


「日本と、日本人にとって沖縄は何だったかというところに突き当たる。
自分たちの本土の人間の恥と悔いの問題なんだ」


山崎「沖縄戦終結の日さえ知らなくて平気な人もいるんです。私は許されないことだと思う」


「死ぬ前にみんな水を欲しがるんです」


「これはもう泥棒でしょ。これが延々と続く」



ある事件をきっかけに仕事を追われた西山さん。
沖縄返還をめぐる秘密文書を入手し、そこには基地返還の費用負担をめぐる日米の密約が記されていた。


ところが、外務審議官が女性だったことで西山さんは、国家公務員をそそのかしたという罪で逮捕される。
それ以降、西山さんは沖縄には一度も行っていない(いろいろ出来るんだなあ、政治屋って


西山「戦争責任と、本土と、沖縄との差別ね。これがずっと一貫して底流にあった」
山崎さんが西山と会ったのは、逮捕から30年後。100時間の取材を重ねた。
この大きな問題を自分に書けるのかと悩んでいたが、西山さんを通して『運命の人』を書くことを決意した。

しかし、本の中に情事の場面があり、西山さんは抗議の電話をした。
「あんなもの書きやがって、三流小説以下やないか!」
西山「山崎さんが“これは伝記を書いてんじゃないんだから”って言ったが、
モデルがガチっとおるんだから、みんな事実だと思い込むでしょう」
山崎「大上段に国家権力と闘ったとか、そういうストレートなスローガンでは、読者は感動しません。
いかに彼が惨めな屈辱を味合わせられたか。
夫を守り、子どもを守る妻の姿があってこそ、国家権力の浅ましさが出るんですよ」

山崎さんは「読者がついてくる自信があります。長年の経験で」と啓子さんを説得した。
西山「権力、社会、人間の相関関係をえぐり出そうとする作家の真骨頂。相当、崇高な問題提起です。
それを大衆にあれだけ浸透させる。“至芸”ですね」


山崎「書いて知らせるという、私なりの方法で、その役割の一端を担っていこうと思う」

2015.7 西山さんの講演にて

「沖縄施設返還の時に重大な密約があって、同時に安保条約が変わった。
日本の国が国際的に一番、欠陥を指摘されているのは、歴史の検証力が極めて弱い」

瀬島さんと晩年、行動を共にしてきた秋上さんは、ロシアを訪問した。


この施設を建てたのは瀬島さん。戦後、自分だけが生き残ったというトゲがずっと刺さっていたという
『大地の子』の取材を受けた1人で、残留孤児の紅谷寅夫さん(77)と長女

美子「私は中国と日本の両方の血が入ってるから、永遠に戦争がなくて、平和であればいい。
そういう時がくればいいのにと、それだけ願っています」



『大地の子』を書いた後、22年前から私財を投げ打って、
今も厳しい状況にある残留孤児の子どもたちに学費支援を続け、ずっと引き継がれている。
今年も三世、四世が今年も奨学金を受けた。
山崎さんの想いは、子どもたちにも受け継がれている。
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