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竹中直人@ファミリーヒストリー

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今の姿を一番観てもらいたいのは、高校3年生の時に亡くなった母・芳枝さん。重度の結核だった。
横浜に住んでいたが、本当の故郷は長崎だと言っていた。

竹中「母の人生がどんなだったのかを知りたいのもありました」

今回、日本軍によって隠蔽されていた事故の写真も初公開された。
五島観光歴史資料館の古文書に竹中さんの御先祖の名前を発見。

 

藩士の一覧表
 



五島藩士だった高祖父・平三郎の本職は絵師だった。越前(福井県)生まれ。
京都で活躍し、五島福江藩の召し抱え絵師になり五島にやってきた(嘉永元年

 
神社の神主さんが東鶴さんの当時の住所を教えてくれた。駐車場の石垣が当時のものって!『ブラタモリ』!?
敵の侵入をこぼれ落ちる石の音で知らせるもの。

「当時でもこれだけの敷地を持つ藩士は限られていたので、いかに藩主・盛成(もりあきら)が東鶴さんを重用したか、厚遇してたかが分かる」

当時、賓客への土産物などに絵を描いていたと思われる。作品は長い年月の中で行方が分からなかったが、
福江藩の士族だった江口さんの家に絵があった。

 

屏風絵は全6枚。「円山四条派」と思われる。




曽祖父:長谷川清治 明治の代書人をしていた。


10人の子どものうち最も期待していたのは長男・正直。
しかし、父を継がず、長崎市内で貿易の仕事がしたいと親と訣別。

前年に勃発した第一次世界大戦による「大戦景気」で物資供給に日本は空前の賑わいだった。
 

正直の姪・美智子さんは五島の墓を守ってきた。
 

美智子さん:
ひとつも生活に困っているような顔をしていなかった。スーツ姿の思い出がある。
ニコニコして美男子だった。背も高くて、色も白くて。

貿易商として十人町の高台に住み、子どもにも恵まれた。


呆然と見ていた竹中さん。
「何の言葉も出ないというか。うわすごいなという感じで。最後の母の幼い頃の写真にはびっくりしましたね」

Q:高祖父は絵師だった
そうなんですね。僕もちょっと血を引いてたんですね。僕も描くから。
よかった。なんか最低な男じゃなくて。
絵師ていうのはロマンチックですものね。よかったと思います。




戦争特需、生糸の輸出で財を成した正直。

 

静が15歳の時に書いた家族史が残っていた
長崎での裕福な暮らしぶり、可愛い妹・芳枝が誕生した喜びが綴られている。

「大正9年5月 悲しいことが起こった この故郷をあとにして事情のため 横浜に出かけねばならなくなった」

ヨーロッパの生産力が急速に回復、日本の輸出は大打撃を受けた。「戦後恐慌」
 

 
当時、横浜は貿易額が全国最大の港。かすかな望みをかけた船旅だった



幸子:
正直さんは、男性なのに大きな刺繍を一人でしていました。
外国船が入ると、そこへ行って刺繍を売ったりとか、商いに行っていた。

日本の土産ものを売る仕事


16歳の長男・正敏も手伝った。
向いに住んでいた小島さんの母は土産ものの内職をしていた。

肩掛けは、菊模様が見えるよう工夫されていた。

「持っていくと飛ぶように売れたって言ってました」

家族に迷惑をかけたことを反省した正直は、浮き沈みの激しい貿易には手を出さなかった。
行商、船内の掃除などで日銭を稼いだ。芳枝は活発な少女だった。

 

昭和4年。次男・正義がわずか2歳で食中毒で死去。
同じ年、長男・正敏も19歳で結核で急死。
関東大震災の時、おぶって逃げてくれた優しい兄をもっとも慕っていた芳枝。
(貧困や、医療・教育が遅れていると、子どもの死ぬ率も高まるから、どうしても多く産む必要が出てくるんだよね

23歳の芳枝は横浜のデパートの呉服売り場に勤めた。父は60歳でも行商を続けた。



爆発事故
 

昭和17年 正直が向かったのは新港埠頭。日独伊三国同盟を結び、給油や物資を運ぶため、ドイツの軍艦が停泊していた。
横浜港から爆発音がし、周囲2kmに渡って鉄やガラス片が飛び散った。

 

横浜税関に当時の記憶の残るガラス乾板がある。税関の専属カメラマンが慌てて撮った写真。約60枚。
停泊していた日本とドイツの軍艦4隻が次々と大爆発していた。

 

 




横浜税関元職員・谷津さん(93)


爆発の直後は地獄絵ですね。
船首のほうから、みんな海に飛び込んで逃げるんですよ。
あとあと桟橋の近辺で死体で上がりましたけどね、たくさんドイツの兵隊さんがね。

死者、行方不明者は約102名
しかし、両国の当局は「情報統制」を行い、事故の詳細は一切公表されなかった。
第二次世界大戦の最中、国民の「戦意低下」を避けるため。

長年、事故の詳細を調べている石川さん

事故の原因はドイツ兵の不注意にあったと考えている

「兵隊の監視をしている役人の気が緩んだのか、タバコを吸って、それが引火したんだと
 ドイツのウッカーマルク号は、横浜に入る前に、南方から積んできた油を川崎に卸して、空になってここへ来ました。
 それを中国人捕虜を使って、ドイツ人が見張りをして船倉を掃除してました。
 証言によると、船内には揮発ガスがずいぶんこもっていたという話があって、
 おそらくそこに引火して、暴発したんだろうと思われます」

正直がいたのは


行方不明とされ、病院に搬送されていると家族が知ったのは、その日の夜。
全身に大火傷をおった父は「ズボンのポケットに財布が入ってるよ」と言ったが、爆風でズボンも履いていなかった。
これが正直の最期の言葉だった。







竹中:
とくにそういう重い話というか、母も避けていたのかもしれませんね
闇を感じるものはありましたね。「暗いなお母さん」て感じではないですけれども
楽しく笑ってても、本当はそうじゃないんじゃないかという印象は
子どもながらに持っていたような気がしますね。なんか寂しそうな感じというか


**************父方家のルーツ

明治5年の弘前藩の武士から足軽にいたる家臣の記録
 

高祖父は弘前藩の城の「御掃除小人」をしていた。明治維新後は「並卒」という足軽に出世。
次男・信金は木造村という農村に移住。「帰田法」

教授:弘前にいても藩はないので、城下町からずっと下った各農村に土地をもらった。



木造で農業をしていたが、祖父・泰造は仕事を求めて横浜へ行き、造船所で働き家族を持った。
そこで生まれたのが、父・博美さん。大学卒業後、区役所一筋に勤めてきた。
区役所で偶然すれ違った芳枝さんにひと目惚れ。父亡き後、区役所に勤めていた。

父・博美さん(87):

写真ではあまりよく撮れていませんが、実物はね写真よりはるかによかったですねえ!
どうしても妻になってもらいたい人だなと思ってね。私が猛烈アタックですね「ラブレター作戦」。

 

幸子:
ラブレターはもうほんとに、あらまた、あらまた来たって感じでした。割とぶ厚いんですよね。
結構長いお手紙で困ってましたw


小田原の海でデートした時


昭和29年 結婚


父:
力を合わせて、2人で社会変革(!)のために活動しようよなんてことはありませんよw
ただ仲良く、健康で、幸せな家庭を作っていこうよという、ありきたりなことでお互いに納得してね。

 

横浜に新居を構え、1年後、待望の長男(直人さん)誕生。
結婚後も仕事を続けた芳枝。週末は親子3人で過ごすことにこだわった。
母は家族の死を乗り越えてきたために、子どもにはそんな思いはさせまいと、絶対に長生きして育て上げると誓った。
(直人さん、もう泣いてる

父:
伊勢佐木町が一番の繁華街だった。「伊勢ブラ」に行くと、名画座とかオデオン座とか映画館によく連れて行った。
私ども映画は好きでしたからね。

直人:
父母は、僕が小学生なのに、作品を選ばないのかってくらいに。ジェームズ・ボンドを観てましたからね。
エッチなシーンになると母が僕の目の前に手をかざした感覚も覚えてますからね。
素直に従って見ないでいましたけどw

 

内気だった直人を見守ってくれた母。
内気さを克服するため、学校の先生のモノマネを特訓。
他人になりきり、笑いをとれば、自然と友だちの中に入ることができた。

直人:
先生の「地図帳の何ページを見てくれましょ」、その「ましょ」て何回言うか楽しみしてたw
英語のおじいちゃんなんですけど「ワンスモアっていうのは、スモウをもう1回と発音するんだよー。ねーーー」w

母は息子に社交性が出てきたことを喜んでいた。

父:
私が何かやるとすぐ言われるけど、直人が何をやろうとひと言も言わない。
一番幸せだった頃じゃないですかね。

直人:
僕はよくラブレターをゲタ箱に入れてました。中学3年の時には鷹取山の麓に彼女が住んでいて、
そこに叫びたいためにワンダーフォーゲル部に入って。
「今日の夜7時に耳を澄ませていてください。きっと僕の声が聞こえるでしょう」
「○○さん大好きだああああああああああ」て何度も叫んだことがありますけど、
次の日に「やめてください。竹中さんは何を考えているか分からなくて気持ちが悪いんです」という返事が来た。

父:
布団の上げ下ろしは夫婦交代でやっていたけど、ある時「あなたちょっと苦しくて押し入れに入れられない」
「いいよ、それは私がやるから」直人が中学の3年の3学期の前ですね。
年が明けて、健康診断で結核が判明する。

重度の結核だった(まだ治らない病気だったのか・・・こんなに急に来るもの?!

昭和46年 芳枝さんは隔離病棟に緊急入院。直人は父と2人暮らし。
2年8ヶ月後に一時帰宅するも、布団から起き上がれず、家族はなすすべもなかった。
体調が良い時はレコードをかけてほしいと頼んだ。小椋佳が大のお気に入り。♪さらば青春

昭和49年2月 直人の卒業式前日。
何度も枕元に呼び、これからのことを細かく話す芳枝。



直人:
最終的にお父さんと2人だけになっても、、、ちょっと、この話はきついですね、、、ちゃんと生きてほしい、ということですかね。
ちゃんとなんて生きられるかどうか、いつも分かってないですけど。
その時はきつかったですね。まさか死ぬと思ってないですからね。
「何言ってんだよ。死ぬようなこと言いやがって」みたいなことを言ってましたけどね。

翌日、卒業を見届けるかのように息を引き取った。享年54歳



父:
今、考えれば、死ぬことが分かっていたんでしょうね。
いやいや、いつ死ぬかなんてことは誰でも分かりはしませんけれど、
なんかそんな予感がしてたんじゃないですか?
直人の面倒をどうするか?ってことが一番気がかりだったと思いますね。

死期をさとった芳枝は病棟より自宅を選んだ。

「自分のやりたいことをどんどんやりなさい」


号泣して、ティッシュをもらい、黙ってしまう直人さん。

竹中:
お母さん可愛いですね。笑った顔、すごい可愛いなと思って
54歳だったんですね。俺、亡くなった年齢を聞いたことないので、怖くて
全然知らなかったです。いくつで亡くなったのかというのは

父があんなにラブレター出してたのも初めて聞いたから可笑しくてw

母と父がいなければ自分は存在していなかったわけですから、
それはもう死ぬとか生きるとかいう次元ではなく、
母はたまたま54歳の生涯だったけれども、
でも、母の魂っていうのは、ずうっと僕の体の中、心の中に存在しているということですからね



お父さんが全然元気で、まだまだ大丈夫そうだなという感じがいいですねw


●8ミリフィルム


 

母の死後、多摩美術大学で直人がつくった自主映画。
役者になりたいと決意。自分の得意なもので世間にアピールしようとブルース・リーを真似していた。

転機は20代半ば、劇団の研究員をしていた直人が出演したテレビのお笑い番組がキッカケ。


松田優作のマネ、笑いながら怒る男、松本清張などなど
 



映画『Shall we ダンス?』で大ブレイク
 

周防正行監督:
ドニー・バーンズのモノマネをする入り口でダンスに入ってもらうって形になった。
竹中さんにとっては、丸ごとの自分を受け入れてくれる存在が、
ある時から身近にいないことが、彼特有の性格を作っていったのかな
すごいシャイですよね。だから自分ではない誰かになって人と接する(役者さんてそういう人が多い気がする
なんかさらけ出せないっていう。でも、それが彼の演技力を育んだと思うんですよ

くるりの♪Remember me も沁みるね

直人:
この収録が終わって、舞台が終わった後に、俺、絶対一人でお酒飲みに行きたいって思っちゃいました。


(ステキな家族だなあ。こういう家族に限って、不幸が訪れるのはなぜなんだろう?


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