■『学習漫画 世界の伝記28 ニュートン』(集英社)
竹内均/監修 よしかわ進/画 堀ノ内雅一/シナリオ
1642 イギリスのウールスソープでアイザック・ニュートン誕生。
父アイザックは、ニュートンが生まれる3ヶ月前に死去。
ニュートンが2歳の時、母が再婚して家を出てしまい、祖母に育てられる。
子ども時代は、水時計など作った。
グランサムにあるキングス・スクール(中学にあたる王立学校)に入学。
薬屋の2階に下宿。11歳。
叔父エスカー(母の弟)はニュートンの父親がわりだった。
再婚相手の牧師の主人が亡くなり、母が実家に帰ってきた。3人の子どもがいたため、
ニュートンは学校をやめて農園を手伝うことになるが、勉強に熱心な様子を見て学校に戻された。
1661年 ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学。準免費生となる。
「準免費生」お金をもらってチューターの給仕や雑用をする。
「チューター」大学生1人について、学習の手助けをする指導教員。
ニュートンのメモによると、入学当時はアリストテレス、ガリレイ、ケプラー、デカルトなどに興味をもち、
数学、光学、幾何学、神学、ラテン語などを勉強していた。
1663年 数学者アイザック・バローの授業を受ける。
1665年 ロンドンからケンブリッジにかけてペストが大流行して、大学が閉鎖になったため、実家に帰った。
この頃に「微分」「積分」「二項定理」の発見をものにする。
リンゴが落下し、なぜ月は落下してこないのか?と疑問を持ち、
ガリレイの「慣性運動の原理」をもとに「万有引力の法則」を発見する。
ニュートンの3大発見
「微分・積分の法則」
「万有引力の法則」
「光と色の性質」
この光の性質を応用して、のちに「ニュートンの反射望遠鏡」と呼ばれる新しい望遠鏡をつくる。
後年、ニュートンはこの2年間を「独創力という面で、生涯最高のとき」と語っている。
1667年 大学から「フェロー」に指名され、100ポンドの年金が支給された
「フェロー」大学から研究費がもらえる特別研究員。当時の100ポンドは1家族が1年以上暮らせる額。
この頃、ニュートンは星うらないや錬金術にもハマっていた。
1669年 バローはニュートンの才能に脱帽し教授の座を譲る。27歳。
だが、講義が難しすぎて生徒から人気がなく、それをいいことに自分の研究に没頭したw
当時のイギリスでは、クロムウェルに率いられた清教徒革命が起こり、
1649年に共和制がしかれ、1660年には再び王政が復活し、政治が乱れていた。
ボイルやフックらが「無形の大学」をつくった。
ロバート・ボイル:気体の膨張についての「ボイルの法則」を発見。
ロバート・フック:「フックの法則」、昆虫学の『ミクロ グラフィア』を出版。
1672年 ニュートンは王立協会に迎え入れられる。29歳。
「王立協会」いまでも世界でもっとも権威のある学術団体のひとつ。
ニュートンの「プリズムによる光の分散」についての論文が発端となって、
光は粒子だというニュートンの説と、光は波だというフックの長い論争がはじまる
現在は、光には粒子と波の両方の性質があるとされている。
人付き合いが苦手なニュートン、賑やか好きなフック、性格も正反対だったため、対立しがちだった。
1679年 母他界。ニュートンは半年ほど実家で看病していた。
1687年 人類の宝とも言える『プリンキピア』(自然哲学の数学的諸原理)全3巻が出版された。
この本によって、物理の世界を数学によってあらわし、理解することができるようになった。
友人のエドモンド・ハレーが本を書くことを勧め、足りない資金を個人的に補った。
その本には「彗星も万有引力の法則にしたがい楕円軌道を描いて太陽の周りを回る」と書いてあり、
ハレーは76年ごとに現れる彗星を発見。のちに「ハレー彗星」と呼ばれる。
デカルト学派の学者が『プリンキピア』に対して反論を唱える
1688年 ニュートンは国会議員に選ばれるが、2年間で発言したのはたったひと言
「守衛さん、会議室の窓を閉めてください。寒気がするものですから」
1692年 ニュートンの家に火事が起きて、20年かけて書き上げた色と光に関する論文まで焼けてしまい、強いショックを受ける。
1696年 大蔵大臣モンタギューの力添えで、造幣局の役人になり、1699年には長官までなる。
1702年 王立協会の会長となる。60歳。
1703年 『光学』を出版。
1722年 健康が衰えはじめる。
1727年 84歳で死去。
息をひきとる直前、こう言っている。
「世間がわたしをどう見ているか知らないが、わたしは自分を波打ち際で遊ぶひとりの子どもにすぎないと思っている。
真理という大きな海はいまだ発見されないまま、目の前にはてしなく広がっているというのに、
わたしは時折美しい貝殻や小石を見つけては無邪気に喜んでいる」
【竹内均による解説抜粋メモ】
ニュートンは学校の成績はあまりよくない子どもだった。
「運動の法則」の研究から、惑星、月の運動を調べた。
海王星の発見も、ニュートン力学のおかげ。
「ニュートンの運動法則」
「慣性の法則」
「運動の法則」
「作用・反作用の法則」
ニュートンは研究を発表して名声を得ることには無関心で、創造する喜びがすべてだったため、
発表が遅れて、のちにどちらが早く発表したかで長くもめた。
ニュートンの反射望遠鏡(レプリカ)
ガリレイやケプラーのものより筒の長さが短く、より大きい倍率を得られる。
竹内均/監修 よしかわ進/画 堀ノ内雅一/シナリオ
1642 イギリスのウールスソープでアイザック・ニュートン誕生。
父アイザックは、ニュートンが生まれる3ヶ月前に死去。
ニュートンが2歳の時、母が再婚して家を出てしまい、祖母に育てられる。
子ども時代は、水時計など作った。
グランサムにあるキングス・スクール(中学にあたる王立学校)に入学。
薬屋の2階に下宿。11歳。
叔父エスカー(母の弟)はニュートンの父親がわりだった。
再婚相手の牧師の主人が亡くなり、母が実家に帰ってきた。3人の子どもがいたため、
ニュートンは学校をやめて農園を手伝うことになるが、勉強に熱心な様子を見て学校に戻された。
1661年 ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学。準免費生となる。
「準免費生」お金をもらってチューターの給仕や雑用をする。
「チューター」大学生1人について、学習の手助けをする指導教員。
ニュートンのメモによると、入学当時はアリストテレス、ガリレイ、ケプラー、デカルトなどに興味をもち、
数学、光学、幾何学、神学、ラテン語などを勉強していた。
1663年 数学者アイザック・バローの授業を受ける。
1665年 ロンドンからケンブリッジにかけてペストが大流行して、大学が閉鎖になったため、実家に帰った。
この頃に「微分」「積分」「二項定理」の発見をものにする。
リンゴが落下し、なぜ月は落下してこないのか?と疑問を持ち、
ガリレイの「慣性運動の原理」をもとに「万有引力の法則」を発見する。
ニュートンの3大発見
「微分・積分の法則」
「万有引力の法則」
「光と色の性質」
この光の性質を応用して、のちに「ニュートンの反射望遠鏡」と呼ばれる新しい望遠鏡をつくる。
後年、ニュートンはこの2年間を「独創力という面で、生涯最高のとき」と語っている。
1667年 大学から「フェロー」に指名され、100ポンドの年金が支給された
「フェロー」大学から研究費がもらえる特別研究員。当時の100ポンドは1家族が1年以上暮らせる額。
この頃、ニュートンは星うらないや錬金術にもハマっていた。
1669年 バローはニュートンの才能に脱帽し教授の座を譲る。27歳。
だが、講義が難しすぎて生徒から人気がなく、それをいいことに自分の研究に没頭したw
当時のイギリスでは、クロムウェルに率いられた清教徒革命が起こり、
1649年に共和制がしかれ、1660年には再び王政が復活し、政治が乱れていた。
ボイルやフックらが「無形の大学」をつくった。
ロバート・ボイル:気体の膨張についての「ボイルの法則」を発見。
ロバート・フック:「フックの法則」、昆虫学の『ミクロ グラフィア』を出版。
1672年 ニュートンは王立協会に迎え入れられる。29歳。
「王立協会」いまでも世界でもっとも権威のある学術団体のひとつ。
ニュートンの「プリズムによる光の分散」についての論文が発端となって、
光は粒子だというニュートンの説と、光は波だというフックの長い論争がはじまる
現在は、光には粒子と波の両方の性質があるとされている。
人付き合いが苦手なニュートン、賑やか好きなフック、性格も正反対だったため、対立しがちだった。
1679年 母他界。ニュートンは半年ほど実家で看病していた。
1687年 人類の宝とも言える『プリンキピア』(自然哲学の数学的諸原理)全3巻が出版された。
この本によって、物理の世界を数学によってあらわし、理解することができるようになった。
友人のエドモンド・ハレーが本を書くことを勧め、足りない資金を個人的に補った。
その本には「彗星も万有引力の法則にしたがい楕円軌道を描いて太陽の周りを回る」と書いてあり、
ハレーは76年ごとに現れる彗星を発見。のちに「ハレー彗星」と呼ばれる。
デカルト学派の学者が『プリンキピア』に対して反論を唱える
1688年 ニュートンは国会議員に選ばれるが、2年間で発言したのはたったひと言
「守衛さん、会議室の窓を閉めてください。寒気がするものですから」
1692年 ニュートンの家に火事が起きて、20年かけて書き上げた色と光に関する論文まで焼けてしまい、強いショックを受ける。
1696年 大蔵大臣モンタギューの力添えで、造幣局の役人になり、1699年には長官までなる。
1702年 王立協会の会長となる。60歳。
1703年 『光学』を出版。
1722年 健康が衰えはじめる。
1727年 84歳で死去。
息をひきとる直前、こう言っている。
「世間がわたしをどう見ているか知らないが、わたしは自分を波打ち際で遊ぶひとりの子どもにすぎないと思っている。
真理という大きな海はいまだ発見されないまま、目の前にはてしなく広がっているというのに、
わたしは時折美しい貝殻や小石を見つけては無邪気に喜んでいる」
【竹内均による解説抜粋メモ】
ニュートンは学校の成績はあまりよくない子どもだった。
「運動の法則」の研究から、惑星、月の運動を調べた。
海王星の発見も、ニュートン力学のおかげ。
「ニュートンの運動法則」
「慣性の法則」
「運動の法則」
「作用・反作用の法則」
ニュートンは研究を発表して名声を得ることには無関心で、創造する喜びがすべてだったため、
発表が遅れて、のちにどちらが早く発表したかで長くもめた。
ニュートンの反射望遠鏡(レプリカ)
ガリレイやケプラーのものより筒の長さが短く、より大きい倍率を得られる。