■『ジョン・レノン 愛こそはすべて』(佑学社)
原題:JOHN LENNON by Tony Bradman
トニー・ブラッドマン/著 坂本真理/翻訳
初版1985(イギリス)、1987(日本)980円
※1996.12~のノートよりメモを抜粋しました。
※「読書感想メモリスト」カテゴリーに追加しました。
【内容抜粋メモ】
あまりに有名で巨大な音楽史上最大のバンド、ビートルズを知るのにとても助けとなる1冊。
ジョンを語るには外せない。
しかし、バンドの活動期間は10年足らずなのには驚き。
世界をいっぺんに塗り替え、今もなお影響を与えつ受けているため、
もっと昔からいたような気がしていたけど、'60~'70なんだ。
まだほんの30年前のこと。
本書を読んで、もう1つ印象に残ったのは、ジョンの周囲にはなんと死が多いことか!
1人の人生に起こる死の体験にしては異常に多い。
ジョン・レノンになるべくしてあった人生。
やっぱり神さまに選ばれた人っているんじゃないかな。
その本人も40歳のこれからっていう時にこの世を去ってしまった。
これだけ人の死を見てきたら、いつか自分もって運命を感じていたことだろう。
人生のあゆみが年表にまとめられていて、参考にしながら、補足メモをとっておくことにする。
同時にビートルズのアルバムの足跡もたどれて、巨大マーケットすぎるバンドのおおまかな動きをつかめる。
CDコーナーには、ソロアルバムも含めて20~30枚以上並んでいるから
どこから始めていいやらなかなかとっつきにくくて、長い間ベスト盤しか聴いていなかったけど、
他のバンドと比べて、意外とオリジナルアルバムは思ったほど出していない。
多作に見えるのは、有名だから、未発表曲とか、解散後のコンピがかなりあったのか。
頭の中のイメージがまとまったところで、改めて最初から聴いてみてもよさそう。
見れば「クオリーメン」当時のCDまであった。
映画『バックビート』で明らかになった“5人目のビートルズ”のことも書かれていて興味深い。
映画ほどは詳しく書かれていないけど。
ソロ活動や、ヨーコともなかなか面白そうな活動をしていたみたいだから、ソロアルバムもいつか楽しみたい。
イメージだけが先走って、本来の姿が見えてなかった部分が埋められることだろう。
【補足メモ】
母ジュリア・スタンレーは、船乗りで家に帰らなくなった夫フレッドを諦めて、
新しい恋人と暮らすため、5人姉妹の姉ミミにジョンを預ける。
ミミ叔母さんとジョン(8歳ごろ)
ロックに目覚めた頃に聴いていたのは、エルヴィス、B.ハーレイ&ザ・コメッツ、
リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、エヴリブラザース、、、
ギターを手にしたジョン(16歳ごろ)
ポール:
父はジャズバンドのリーダーでピアノマン。少年時代に母を亡くしている。
園遊会でポールと出会う。ジョンの近所に住んでいた。学校も近くて、2人で曲を書き始める。
スチュアート・サトクリフ:
5人目のビートルズと呼ばれる。絵を専攻していたが、ジョンのすすめでギターを担当。
<母がミミ叔母さんの家の前で車に轢かれて亡くなる>
ジョージ・ハリスン:
ポールの後輩で3つ下。ギターを習い、メンバーとなる。その前は肉屋で働いていた。
<ドイツの遠征では食うにも困り、長時間のハードワークのため覚せい剤を覚える>
<スチュアートは、アストリート・キルセヘアと結婚してバンドを辞める>
ブライアン・エプスタイン:
家具屋経営でいくつもチェーン店をもつ裕福な家の出。
新ビジネスを求めて、バンドのマネージャーとなり、服装をスーツにかえさせる。
<ハンブルグツアーでスチュアートの死を知る。'62バンド時代のケンカの傷が悪化したため>
リンゴ・スター:
ロンドンのアビーロードにあるEMIスタジオで初レコード『Love Me Do』(1962)を吹き込んだ時に参加。
元ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズでドラムをやっていた。
2ndシングル♪Please Please Me(1963)、3枚目♪From me to you(1963)、4枚目♪She loves you(1963 1位)。
王室に招待され、パーティでジョンは「安い席の人は拍手を、残りは宝石を鳴らしてください」と言った。
「ビートルマニア」(熱狂的ファン)が生まれる。
1964 アメリカツアー大成功(ケネディ暗殺の後)「エド・サリバン・ショー」に出演、USチャートの1~5位独占
ジョン著『ア・スパニアード・イン・ザ・ワークス』がベストセラーとなる。
シングル♪Can't buy me love, ♪I feel fine, ♪Ticket to ride
アルバム『With the Beatles』『I wanna hold you』『Beatles for Sale』
1965 父と再会(1967年死去
1966.8.29 アメリカ・ツアーのラストがバンドのラスト・ライヴとなる。
ジョンは映画『私はいかにして戦争に勝ったか』に歩兵役で出演。
バンドは、スタジオ活動に専念する。
アルバム『Rubber Soul』(Rubber sole ゴム底のもじり)、『Revolver』(1966)(Revolveは回転、ピストルのリボルバーにかけた)、
シングル♪Day Tripper, ♪Paper Back Writter(ポールがジョンを茶化して書いた)、
♪Penny Rain, ♪Strawberry Fields Forever(故郷のリヴァプールを想ってジョンが書いた)
アルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は6ヶ月(2500ポンド)かけて製作(当時としてはすごい額)。
♪All you need is love をテレビで世界放送。LOVE & PEACEの讃歌となる。
ジョンとジョージがインドの宗教にハマり、1967年、マハリシについて、ノース・ウェールズに旅をし、
2日後ブライアンの死で戻る。33歳。アスピリンの多量摂取による事故死か自殺かは不明。
コンサート活動を止めたバンドでの役割がなくなり悩んでいたという。
1967 映画『Magical Mystery Tour』は初の大失敗
シングル♪I Am the Walrus(僕はセイウチ。『鏡の国のアリス』中に「セイウチと大工」が出てくることから影響された)も不評
ヨーコと個展で出会う。「息をしなさい by YOKO」
1969 世界平和のため、アムステルダムのホテルで7日間ベッドで過ごすと宣言。「ベッド・イン(Bed In)」
これまで、家族はバンド活動にノータッチだったルールが崩れて、メンバー間に亀裂が入る。
1968 アーティスト援助のため設立したApple社が行き詰る。
グッズの売り上げの儲けを考え、ミック・ジャガーから紹介されたマネージャー、アレン・クラインを雇う。
1969 ポールがリンダ・イーストマンと結婚。彼女の父に頼みたいと思っていたジョンとの仲も悪くなる。
アルバム『The Beatles』(ホワイトアルバム)
シングル♪Lady Madonna, ♪Hey Judeは好評、♪Let it be の録音風景のフィルムは不評。
同名アルバムは、フィル・スペクターがまとめた。
アルバム『Yellow Submarine』『アビーロード』がラストアルバム
1969 ヨーコと「ザ・プラスティック・オノ・バンド」結成
(その前に、ビートルズ名義で♪ジョンとヨーコのバラード を発表)
♪Give Peace a Chance
1968 ジョンとヨーコは麻薬所持で逮捕。♪Cold Turkey などを書いて薬物をやめる。
1970 アルバム『ジョンの魂/ザ・プラスティック・オノ・バンド』発売
1971 アルバム『IMAGINE』
1971 US入国許可がおり、NYに移住
1972 『One to One Concert』参加。精神障害者に寄付。
♪Sometime in NY City、アルバム『Happy Xmas(War is Over)』など、曲に政治色が強くなる。
1973 『Mind Games~ヌートピア宣言』
1974 『心の壁、愛の橋』(小学校時の絵をジャケットに起用)
エルトン・ジョンとコラボした♪真夜中を突っ走れ が1位になったらコンサートに出ると約束したのを守り、特別出演。
彼のはからいで別居していたヨーコと復縁。
ヨーコと「ダコタハウス」を買い取ったり、牛を売買したりして商才を発揮。
1975 フィル・スペクターと、影響をうけたアーティストをカバーした『Rock'n Roll』が大ヒット。
1977 日本で5ヶ月間休暇を楽しむ
1980 アルバム『Double Fantasy』発売。シングル♪Starting Over
マーク・チャップマンがジョン・レノンを撃つ
ハワイ、ホノルル在住の25歳。ガードマン。精神病を患っていた。
ダコタハウス前で「レノンさん」と呼びかけ、振り向いたところを撃った。
ジョンの最期の言葉は「撃たれた」車内にはヨーコもいた。
守衛に「ジョン・レノンを殺った」と言った。
パトカーで病院に運ばれたが遅かった。
ニュースは世界中に広まり、ヨーコの願いで10分間の黙祷が捧げられた。
死後に発売されたシングル♪Woman(1981 1位)、『John Lennon Collection』(1982 1位)、
『Milk and Honey』(1984)は、死の直前レコーディングした曲を集めた。
♪Walking on the ice は、事件当時持っていたテープ。
遺産は1億5000万ドルと言われ、半分はヨーコ、半分はチャリティに。
1984 ジュリアン・レノンがアルバム『バロッテ』でデビュー
NYセントラルパークにジョンを記念した「ストロベリー・フィールズ」が設けられる。
原題:JOHN LENNON by Tony Bradman
トニー・ブラッドマン/著 坂本真理/翻訳
初版1985(イギリス)、1987(日本)980円
※1996.12~のノートよりメモを抜粋しました。
※「読書感想メモリスト」カテゴリーに追加しました。
【内容抜粋メモ】
あまりに有名で巨大な音楽史上最大のバンド、ビートルズを知るのにとても助けとなる1冊。
ジョンを語るには外せない。
しかし、バンドの活動期間は10年足らずなのには驚き。
世界をいっぺんに塗り替え、今もなお影響を与えつ受けているため、
もっと昔からいたような気がしていたけど、'60~'70なんだ。
まだほんの30年前のこと。
本書を読んで、もう1つ印象に残ったのは、ジョンの周囲にはなんと死が多いことか!
1人の人生に起こる死の体験にしては異常に多い。
ジョン・レノンになるべくしてあった人生。
やっぱり神さまに選ばれた人っているんじゃないかな。
その本人も40歳のこれからっていう時にこの世を去ってしまった。
これだけ人の死を見てきたら、いつか自分もって運命を感じていたことだろう。
人生のあゆみが年表にまとめられていて、参考にしながら、補足メモをとっておくことにする。
同時にビートルズのアルバムの足跡もたどれて、巨大マーケットすぎるバンドのおおまかな動きをつかめる。
CDコーナーには、ソロアルバムも含めて20~30枚以上並んでいるから
どこから始めていいやらなかなかとっつきにくくて、長い間ベスト盤しか聴いていなかったけど、
他のバンドと比べて、意外とオリジナルアルバムは思ったほど出していない。
多作に見えるのは、有名だから、未発表曲とか、解散後のコンピがかなりあったのか。
頭の中のイメージがまとまったところで、改めて最初から聴いてみてもよさそう。
見れば「クオリーメン」当時のCDまであった。
映画『バックビート』で明らかになった“5人目のビートルズ”のことも書かれていて興味深い。
映画ほどは詳しく書かれていないけど。
ソロ活動や、ヨーコともなかなか面白そうな活動をしていたみたいだから、ソロアルバムもいつか楽しみたい。
イメージだけが先走って、本来の姿が見えてなかった部分が埋められることだろう。
【補足メモ】
母ジュリア・スタンレーは、船乗りで家に帰らなくなった夫フレッドを諦めて、
新しい恋人と暮らすため、5人姉妹の姉ミミにジョンを預ける。
ミミ叔母さんとジョン(8歳ごろ)
ロックに目覚めた頃に聴いていたのは、エルヴィス、B.ハーレイ&ザ・コメッツ、
リトル・リチャード、バディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、エヴリブラザース、、、
ギターを手にしたジョン(16歳ごろ)
ポール:
父はジャズバンドのリーダーでピアノマン。少年時代に母を亡くしている。
園遊会でポールと出会う。ジョンの近所に住んでいた。学校も近くて、2人で曲を書き始める。
スチュアート・サトクリフ:
5人目のビートルズと呼ばれる。絵を専攻していたが、ジョンのすすめでギターを担当。
<母がミミ叔母さんの家の前で車に轢かれて亡くなる>
ジョージ・ハリスン:
ポールの後輩で3つ下。ギターを習い、メンバーとなる。その前は肉屋で働いていた。
<ドイツの遠征では食うにも困り、長時間のハードワークのため覚せい剤を覚える>
<スチュアートは、アストリート・キルセヘアと結婚してバンドを辞める>
ブライアン・エプスタイン:
家具屋経営でいくつもチェーン店をもつ裕福な家の出。
新ビジネスを求めて、バンドのマネージャーとなり、服装をスーツにかえさせる。
<ハンブルグツアーでスチュアートの死を知る。'62バンド時代のケンカの傷が悪化したため>
リンゴ・スター:
ロンドンのアビーロードにあるEMIスタジオで初レコード『Love Me Do』(1962)を吹き込んだ時に参加。
元ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズでドラムをやっていた。
2ndシングル♪Please Please Me(1963)、3枚目♪From me to you(1963)、4枚目♪She loves you(1963 1位)。
王室に招待され、パーティでジョンは「安い席の人は拍手を、残りは宝石を鳴らしてください」と言った。
「ビートルマニア」(熱狂的ファン)が生まれる。
1964 アメリカツアー大成功(ケネディ暗殺の後)「エド・サリバン・ショー」に出演、USチャートの1~5位独占
ジョン著『ア・スパニアード・イン・ザ・ワークス』がベストセラーとなる。
シングル♪Can't buy me love, ♪I feel fine, ♪Ticket to ride
アルバム『With the Beatles』『I wanna hold you』『Beatles for Sale』
1965 父と再会(1967年死去
1966.8.29 アメリカ・ツアーのラストがバンドのラスト・ライヴとなる。
ジョンは映画『私はいかにして戦争に勝ったか』に歩兵役で出演。
バンドは、スタジオ活動に専念する。
アルバム『Rubber Soul』(Rubber sole ゴム底のもじり)、『Revolver』(1966)(Revolveは回転、ピストルのリボルバーにかけた)、
シングル♪Day Tripper, ♪Paper Back Writter(ポールがジョンを茶化して書いた)、
♪Penny Rain, ♪Strawberry Fields Forever(故郷のリヴァプールを想ってジョンが書いた)
アルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は6ヶ月(2500ポンド)かけて製作(当時としてはすごい額)。
♪All you need is love をテレビで世界放送。LOVE & PEACEの讃歌となる。
ジョンとジョージがインドの宗教にハマり、1967年、マハリシについて、ノース・ウェールズに旅をし、
2日後ブライアンの死で戻る。33歳。アスピリンの多量摂取による事故死か自殺かは不明。
コンサート活動を止めたバンドでの役割がなくなり悩んでいたという。
1967 映画『Magical Mystery Tour』は初の大失敗
シングル♪I Am the Walrus(僕はセイウチ。『鏡の国のアリス』中に「セイウチと大工」が出てくることから影響された)も不評
ヨーコと個展で出会う。「息をしなさい by YOKO」
1969 世界平和のため、アムステルダムのホテルで7日間ベッドで過ごすと宣言。「ベッド・イン(Bed In)」
これまで、家族はバンド活動にノータッチだったルールが崩れて、メンバー間に亀裂が入る。
1968 アーティスト援助のため設立したApple社が行き詰る。
グッズの売り上げの儲けを考え、ミック・ジャガーから紹介されたマネージャー、アレン・クラインを雇う。
1969 ポールがリンダ・イーストマンと結婚。彼女の父に頼みたいと思っていたジョンとの仲も悪くなる。
アルバム『The Beatles』(ホワイトアルバム)
シングル♪Lady Madonna, ♪Hey Judeは好評、♪Let it be の録音風景のフィルムは不評。
同名アルバムは、フィル・スペクターがまとめた。
アルバム『Yellow Submarine』『アビーロード』がラストアルバム
1969 ヨーコと「ザ・プラスティック・オノ・バンド」結成
(その前に、ビートルズ名義で♪ジョンとヨーコのバラード を発表)
♪Give Peace a Chance
1968 ジョンとヨーコは麻薬所持で逮捕。♪Cold Turkey などを書いて薬物をやめる。
1970 アルバム『ジョンの魂/ザ・プラスティック・オノ・バンド』発売
1971 アルバム『IMAGINE』
1971 US入国許可がおり、NYに移住
1972 『One to One Concert』参加。精神障害者に寄付。
♪Sometime in NY City、アルバム『Happy Xmas(War is Over)』など、曲に政治色が強くなる。
1973 『Mind Games~ヌートピア宣言』
1974 『心の壁、愛の橋』(小学校時の絵をジャケットに起用)
エルトン・ジョンとコラボした♪真夜中を突っ走れ が1位になったらコンサートに出ると約束したのを守り、特別出演。
彼のはからいで別居していたヨーコと復縁。
ヨーコと「ダコタハウス」を買い取ったり、牛を売買したりして商才を発揮。
1975 フィル・スペクターと、影響をうけたアーティストをカバーした『Rock'n Roll』が大ヒット。
1977 日本で5ヶ月間休暇を楽しむ
1980 アルバム『Double Fantasy』発売。シングル♪Starting Over
マーク・チャップマンがジョン・レノンを撃つ
ハワイ、ホノルル在住の25歳。ガードマン。精神病を患っていた。
ダコタハウス前で「レノンさん」と呼びかけ、振り向いたところを撃った。
ジョンの最期の言葉は「撃たれた」車内にはヨーコもいた。
守衛に「ジョン・レノンを殺った」と言った。
パトカーで病院に運ばれたが遅かった。
ニュースは世界中に広まり、ヨーコの願いで10分間の黙祷が捧げられた。
死後に発売されたシングル♪Woman(1981 1位)、『John Lennon Collection』(1982 1位)、
『Milk and Honey』(1984)は、死の直前レコーディングした曲を集めた。
♪Walking on the ice は、事件当時持っていたテープ。
遺産は1億5000万ドルと言われ、半分はヨーコ、半分はチャリティに。
1984 ジュリアン・レノンがアルバム『バロッテ』でデビュー
NYセントラルパークにジョンを記念した「ストロベリー・フィールズ」が設けられる。