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ファミリーヒストリー 「手塚眞~父は漫画の神様 ルーツは平安の武将~」

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■ファミリーヒストリー 「手塚眞~父は漫画の神様 ルーツは平安の武将~」 (2016/02/05OA)
 

※後半、写真が載せきれなかったので、後日、追加します/謝


手塚治虫が亡くなって27年目。
長男・手塚眞さん(55)は、10代から映画を製作してきた。最近、手塚家のルーツが気になるという。

 
「これまで気にならなかったが、平安とかのほうがむしろ気になってきた」

手塚家に江戸時代からある家系図
 

 

え?いきなり信濃?
眞さんは東京生まれで、光盛が祖先だとは聞いていたが、長野に親戚はいない。
しかも、今流行りの上田/驚 ここには「手塚」という集落がある。

郷土史を研究する櫻井氏:
光盛は未開発のところに来て、水田などつくり、所領を増やしたので手塚と呼ばれるようになり、ここで武具などを揃えた。

流鏑馬をする光盛の絵が残っている
 

弓の名人として『平家物語』にも描かれている。


「粟津の戦い」(1184)で討ち死に。民家の庭に慰霊塔があるって!


しかし、この集落に子孫はいない。


ここも手塚姓が多い

光盛は負け戦で、子孫は須川で一族を連れて落ち延びたという逸話が残る。

代々伝わる、脇差と大刀

調べたら室町以前だと言われた

江戸初期の手塚吉兵衛の位牌
 
吉兵衛は光盛の子孫。息子・盛行は寛永(1624~1645)は頼房に仕えていた

 
頼房は光圀の父/え、後楽園て屋敷跡だっけ?

水戸藩の屋敷地図


日本医史学会名誉会員の深瀬さん:

「その合間に江戸市民の診察をしていたと考えいいと思う」

江戸時代の医者名簿にも良仙と書かれている

代々、水戸藩お抱えの医者だった


深瀬さんから当時の話を聞いて、良仙の息子・良庵を描いた(哲さんが演ったのは良順か、ややこしい

良庵は、緒方洪庵の開いた適塾に24歳で入った
 
直筆の署名

同じ署名の中には


良庵は江戸で流行った天然痘を治療
 

仲間と資金を出し合い種痘所を作り、多くの命を救った


良庵は父から良仙の名を継いだ(ややこしい
 

西南戦争の際は、軍医として従軍する
 
終戦の翌日、赤痢で亡くなった。享年51年

眞「吉兵衛さんの位牌が残っていたのは驚きで嬉しい。集落があるだけでも、未来があるぞって気がする」




●曽祖父・太郎


眞「かなり上のクラスの裁判官だったとは聞いているが、具体的には知らない」
(どんだけハードルの高い家系なんだ/驚

 
フランスから教授を招いていた

24歳で検事として大阪に赴任。

世間を騒がせた事件を担当する。
 



クーデター未遂事件。主犯の大井憲太郎らは刀などの所持で捕まり、政府から厳しく罰せよ(半ば籠城)と圧力がかかったが、
大井は禁固6年という妥当なもの。

専門家:
この事件の裁判は、我が国の司法官集団が、政治と独立して育ちはじめた1つの証拠だと思う。

講師も務めた
 

その後、裁判官として各地に赴任


後の祖父ユタカさんほか6人の子どもが生まれる

自分で考えた物語を絵で子どもや孫に語って聞かせた。
 

ひ孫の大田信子さん:

複雑な高速道路を走る話だとかしていたと父から聞いている(宇宙人だったのかも・・・

治も聞いていた


大正8年。ユタカは18歳で中央大学法学部に入学し司法を目指す。

親戚の松山さん:
昔のモダンボーイ、ハイカラな方だったときいている。

ユタカは司法へは進まず、会社員となり、服部文子(眞の祖母)と出会い結婚。大阪豊中市に住む。
 

長男・治が生まれる。
 
厳しい父だった

次男・浩さん「オヤジほど怖い人はいなかった。会話らしい会話もなかった気がする」

ユタカの趣味は写真。日本有数のアマチュア写真クラブに入り撮影会に参加


壁のシミを亡霊にみたてた作品/女性のシルエット(ホラーちっく
 

研究主幹:菅谷さん:
この世のものではないというか、非現実的、超現実的な写真を撮る方でしたね。


昭和16年7月。ユタカに召集令状が来る
会計として戦地に送られた。第二次世界大戦が始まり連絡が途絶える。

 

厚生省の戦時中の記録には、「中隊長」と書かれている。


上官・黒柳さんの孫のユカリさんは、黒柳さんの「手記が残っている」という。
 


昭和19年12月19日ルソン島(フィリピン)
 
任務は現地で農耕・牧畜をして食料を確保すること

島について間もなく米軍の爆撃が激しくなる

仲間の遺体が点在するジャングルの中を逃げ惑う。1000人中450人が亡くなった

終戦翌年、父は昭和21年1月、変わり果てた姿で復員した。

浩:
おじいさんが帰ってきたという印象を受けた。着たきりのような汚れた衣服で、
頭の横は毛が真っ白になっちゃって、怖い印象だったのが、別人になっていた。

しばし言葉にならない眞さん。


眞:
世の中をハードなところでリードしていくような、ある意味、堅い家系ですね
ここにハッキリと芸術を持ち込んだのは、もしかしたら祖父かもしれない
芸術的な、抽象的、空想的な写真を若くして撮り始めているっていう
そういう才能も伸ばすことができた人なのかなと思った




マラリアのため仕事も出来ない状態の父/学生の治との溝はさらに深まる
 

浩:
兄にはオヤジしっかりしろという気持ちがどこかにあったと思うし
精神的な葛藤があったのではないかという気もする

生活が苦しくなる中、漫画家・大坂ときをさんのもとへ行く
 

当時の様子


大坂さん:
自分の作品をカバンから出して見せてくれた
このまま本にして売れるレベルだと思った

長編漫画「新宝島」に挑戦
 
映画のような躍動感のある絵がウケて、40万部を超える大ヒットになる

わずか18歳で漫画家として知られ、父に代わって家族を支えた

レオだ

浩:
もしオヤジがサラリーマンとして復活していれば事情が違っていたと思う
自分が責任もってこれからの手塚家をもり立てていかなきゃいけない
オレがやらなきゃダメだという相当な決心があったと思いますね

その後、上京し、次々とヒット作を生み出す。

「トキワ荘」
 



お見合いで悦子さんと結婚


弟マモルさん:

2人がデートしても、しばらく話している間に治が寝込んでしまうと
“よっぽど疲れてはんのやな”ということはよく言うてました
“そやから黙って起きられるまでじっと待ってたんや”

新婚旅行先で1つのカメラで互いに映し合う
 

新婚生活。
 

治は雑誌の連載を何本も抱え、家にはアシスタントや編集者があふれかえっていたため、
悦子は毎日、彼らに食事を用意しなければならなかった。

悦子さん:

仕事しながらでも食べられるものを出した
こんな仕事ばかりするんなら、結婚なんかしなければいのにと思ったこともありましたけれども(ほんとだよ


「虫プロ」を練馬区に設立


アトムは日本初長編テレビアニメ
 
最高視聴率は40.7%を記録し、時代の寵児となる

昼はマンガを描き、夜はアニメを制作。24時間スタジオにこもっていた。


治のマネージャーをしていた従兄弟の卓さん


卓さん:
週刊誌3本、月刊誌4本ぐらい、あとは自分で入れた小さい仕事が一杯あるので
石ノ森章太郎さんも遊びに来て、「えー!」なんてびっくりしてたもんw


(眞さんは寂しくなかったのかなぁ・・・

アニメの大ヒットで虫プロは社員400人を超え、治は経営まで手が回らなかった。
 

卓さん:
経済とか、人事のことを考えたら、あんた無理だろうって言ったんですよ


虫プロ倒産。45歳で借金は4億円(稼ぐ時との差があり過ぎ

「手塚治虫は終わった」とみんなが思った

そこに手を差し伸べたのは葛西さん。子ども用品のメーカーを経営、治虫のキャラクターグッズを売っていた

治虫の才能に惚れ込んでいた

現在90歳。虫プロ倒産の時のことを鮮明に覚えている(声が出せないため筆談でのやりとり
「その時治虫さんは震えていた

作品の版権を借金のかたとして絶対に渡してはいけないとアドバイスした。「価値があるから」
治虫に代わって債権者の相手をしたのも葛西さん。


悦子「大丈夫。あなたはこんなことで終わる人じゃない」と励ました

長女るみ子さん:

手塚治虫は、こんなことでは終わらないと固く信じていたのが、誰よりも母だったと思う
私からすると、その時の父を絶望の淵から救ったのは、母のそのひと言だった気もします

一家は借家に引越して再スタートする。



「ブラックジャック」「火の鳥」などを発表。


昭和61年の仕事風景の映像


アナ:
いよいよ追い詰められると、てんやものをとるのも、好物のきつねうどんを作るのも億劫で、おにぎりで空腹を癒やします
「マンガはハングリーアートだ」というのが手塚治虫の持論です



手塚治虫「こんな辛い仕事を40年やってるっていうのは、バカじゃなきゃ出来ないですよねw」

そんな中でも子どもたちとの時間を捻出した。

長女るみ子さん:
クリスマスは必ず外食をしようと父が誘ってくれましたし、
どうやって時間の工面をしたのか、今思うとすごく不思議なんですけど、
たぶん原稿の1つや2つ落としてるんだと思うんですけどw

治虫は激しい胃の痛みに襲われ入院。悦子は医師からがんだと宣告される


悦子:
まだまだいっぱい構想を抱えておりましたので、まだやりたいことが一杯あったと思うんですよね
ですから、必ず元通りになって、もう一度、仕事を始めるというのは、ずっと言ってました
それがありましたから、私もどうしても告知できなかったんですね


<子どもたちへのメッセージ>

「僕は今まで本当に長い間、漫画を描いてきたけど、
 “生きる”ということを続けて描いたということの本当の本音は、


この3ヶ月後、死去


その数日後、悦子さんは医師から意外なことを聞かされる。

「本当の病名はご存じだったと思いますよ。
 ご家族への思いやりから、きっとおっしゃれなかったんでしょう」


しばし無言の眞さん。


眞さん:
今にして思うと、辛い部分や暗い部分を極力子どもたちに見せないように努力してたと思います
自分が諦めてしまったら全部ダメになるんだと、自分がやり続けることでなんとかなるんだと
そういう強い信念みたいなものは、今思い返してもあったという気がします



もっとしっかりしなきゃみたいに思わなきゃいけないんでしょうけど、
過去がどうだとか、自分の先祖がどうだということ以上に
今、生きている自分が一生懸命生きなかったら、逆に先祖に申し訳ないというような
あるいは、この後、まだ残っていく手塚家の人たちに申し訳ない
今、自分は何をやるんであっても、やれるだけのことをちゃんとやらないとなと思いましたね



須川の手塚さんたちは、治虫さんと同じルーツかもしれないと知り、
「とても嬉しくて、光栄なことです」
「小さい頃からずっと読んでるんで、アニメも見てますし、大ファンですね」
「本当に驚きました。もう自慢したい」

埼玉県新座市に晩年の仕事部屋が残されている。


るみ子さん:
亡くなった当時のまま残しています。



おととし、鍵がかかっていた引き出しを開けてみたら、
るみ子さんが小学3年生の時、父の日に贈ったメッセージカードと手紙が入っていた。

るみ子さん:
あれだけ忙しい中で、仕事のいろんな原稿や資料の中に

嬉しいというか妙な感じはしますね。「あ、お父さんだったんだ」っていうのが
親心って不思議ですよね



葛西さんに聞いた「手塚さんはどんな人物でしたか?」

(貴人じゃなくて、奇人?w

「父親としてはどんな人でしたか?」

あれだけ忙しいのに、子どもと食事をしていたから

「子どもといたいと思われたということでしょうか?」


眞さん:
誇らしいし、この後も自分たちが生きていってね、これを続けていかなきゃ
なんかちょっと心の中が熱くなりますね




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