■NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」
語り:田中泯
戦後71年目。
6月23日は、沖縄県が制定している「慰霊の日」。
“戦争の実態を伝えるため、遺体の映像が映ります”というテロップあり。
このメモにもその一部を載せることにした。
【内容抜粋メモ】
太平洋戦争末期、「一億玉砕」を掲げたニッポン
沖縄戦には、アメリカ軍で開発されたばかりの最新兵器も投入された。
沖縄戦における住民の犠牲は国内最大。一家全滅もあるため、全体の被害像は今なお分からない。
全戦没者 20万人
沖縄県民 12万人
●アメリカ軍が残した膨大なフィルム
そのすべての映像を今回、専門家と検証した(記録を残したのはいいことだったね
【昭和20年4月1日夜明け前】 アメリカ兵が沖縄への上陸作戦開始
第二次世界大戦最大の上陸作戦だった
日本は本土への進出を食い止めようとし、第32軍に“持久戦”を命令
午前8時30分。10万発以上の援護のもと、アメリカ軍が上陸、“あらゆる地獄を集めた”と後に語られる戦いが始まる。
そこには、まだ避難しきれない50万人の住民がいた。
指揮した司令官/側近として沖縄戦を記録した曹長
機密扱いになっていた日記
「住民の死体の山が放置されている」
「殺した4700人のうち、2000人が沖縄の住民だった」
●戦後唯一、沖縄県が全世帯を対象に行った戦没者の調査記録@糸満市役所
個人情報が多いため非公開。個人名を除いて、いつ、どこで亡くなったかが記されている
死亡日、場所が不明の住民、徴兵された県出身の軍人を除く 82,074人を抽出し、コンピュータで解析したら、
1日ごとの死者数、住民の死が時間の経過により、どう増えたかが分かった。
【4月1日】
まず2つの飛行場を制圧し、日本軍の司令部のある首里を目指して南下
亡くなったのは292人。「疎開計画」が進まず、多くの住民が残っていた。
限られた兵力は、司令部周辺にかためるしかなかった。
●たった1日で、781人が亡くなった小さな伊江島
アメリカ軍は陸、海、空の全方位から攻撃
【4月16日】 上陸
目標は巨大な飛行場。日本攻撃の拠点にしようとした
32軍は、飛行場を自ら破壊。後に残されたのは残留兵と、3000人の住民
戦争直前、彼は県民にこう呼びかけた
「全県民が兵隊になることだ。即ち、一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」
●住民の肉声を記録した1000本もの証言テープには死の実態が生々しく語られていた
“斬り込み”
手製の爆弾等を抱えて、敵に突っ込む捨て身の攻撃。
当時17歳の女性:
「私は指揮班の人と“斬り込み”に出たかったわけ。1人でもアメリカ殺しながら死のうねと。
みんな子どもをおんぶして、おっぱいあげようとして下ろしたら、弾が当たって、背中で亡くなってて
みんな戦死。最期の“斬り込み”で。靖国神社にみんな兵隊と一緒に祀られるからと言って
全部死なないといかんと思うから、何でもないですよ
あの時は嬉しいんじゃなかったかね」
当時16歳の女性:
「天皇のために死になさい。国のために命を捧げるのは当然だと
捕虜になることは一番恥ずべき行為だと、小さい時から言い聞かされ、そういう教えしか分からなかった」
●「集団自決」は伊江島でもあった
沖縄に点在する「ガマ」と言われる洞窟の中には人骨が今も見つかる。
当時9歳だった大城さん(79)は、家を失い、両親とともにこの“ガマ”に逃れた時の様子を絵に描いた。
投降を呼びかけるアメリカ兵。周りには親戚、近所の人たち26人が入っていた
軍に召集された親戚の1人が持っていた爆弾を爆発させた。生き残ったのは4人だけ
「みんな死を覚悟していたから、何も思い残すことなく死んだと思います
生き残って良かったと、今思っている」
伊江島では3000人の住民中、1500人が亡くなった。
【5月1日】
首里をめぐって沖縄戦最大の攻防が行われた
【5月2日】
アメリカ軍は、住民30万人を収容できる施設をつくり、食糧を準備していた
【5月10日】
アメリカ軍の新型兵器が映っている。100m先まで焼き尽くす「火炎放射器」を搭載した装甲車
●「防衛召集」として集められた住民“根こそぎ動員”
「防衛召集」
戦時中に現地の人たちを兵として組み込む制度。
最終的には、14歳以上の男子中学生も対象にされた。本島の約2割
沖縄戦の半年前、大本営は32軍から台湾の防衛に回すことを命令。
深刻な兵力不足になり、「軍・官・民、共生共死の一体化」が推し進められた
日本軍の地下壕跡が浦添市に今も残る
こうした地下壕に軍・官・民がいっしょになり犠牲が増加した
32連隊の元上等兵、濱本さん(92)。部隊は9割が戦死
「防衛召集者は、軍事訓練なんて知りませんよ。その日から実戦。いちばん危ない仕事をしていた。
どこから弾が来るか分からない。出されれば危険にさらされる」
当時29歳の男性
「日が暮れてから斬り込みに出されたのは大体沖縄の人
鉄砲もない。竹やりと手榴弾くらい。爆破する時は抱いていって、戦車の下に入ってから爆発させる
もう死にに行くわけさ」
斬り込みを命令されたことが記録が残っている
老人、子ども、女性の一部は県内外に疎開させる予定だったが、実際は軍に組み込まれた人もいた
「弾薬は何回も運んでますから、夜は地雷埋めなんかしてました」
最前線を転々とし、軍とともに地下壕に入り、手伝わされた
「おにぎり握ったり、壕の入り口で(炊事)をやった。
すぐ(砲弾が)直撃して、女の人が2、3名、首がなくなったり、体が切られたりして・・・」
●住民の犠牲を最小限に抑える策はなかったのか?
横浜に住む元大尉・伊東さんを取材
「戦をするだけの能力を持っていなかった。戦うだけで頭が一杯で、軍は住民まで考えるゆとりがなかったかもしれない」
【5月14日】
司令部のすぐ近くまで迫るアメリカ軍。
11回にわたり激しい攻防が繰り返された。アメリカ軍の海兵隊の死亡者は4000人
精神に異常をきたす兵士の姿も映されている
●次第に無差別化していくアメリカ軍の攻撃
沖縄戦映像の専門家・山内さんが分析
「狙われやすい場所を移動するのは住民の可能性が大きい
この距離なら、民間人だと肉眼で分かるはず」
「シュガーローフ」の戦闘にいた元海師団伍長ジョーさん(89)を取材@アメリカ ボストン
戦時中は19歳
所属していた第6師団の旗が家の前に掲げられていた。
当時、兵と住民を見分けることは難しかったという。
「自分が先にやらなければ、こちらが殺されます。だから先に撃つしかないのです
ある夜、集団を見かけ、その中の1人が突然走り出した。それを見た仲間が銃を発射した
現場はパニックになり、私も機関銃を撃ちまくりました
泣き叫ぶ声が響き渡り、大混乱に陥りました
翌朝見に行くとすべて住民の死体でした」
アメリカ軍が日本軍の戦術を分析した報告書では、日本兵が着物を着て住民に偽装している写真が掲載されている。
内部文書を英訳した資料には「住民の服を着用するように」という命令文があった
伊東さん:
部下の中には住民に偽装する者がいたが、私は咎めなかった
どっちにしたって死ぬんだから、思うようにやらしてやろうと
無差別攻撃はエスカレートし、火炎放射器で地下壕を焼き尽くして逃げ道を断った。その中には住民もいた。
女性の証言:
「150m前に来たら、その戦車砲で(洞窟の)入り口をぶち壊す。
おじさんが、生きていて焼けているパチパチして。何十名もこんなにして戦死なさって」
証言をテープに残した伊智さん(91)は、狂気を帯びたアメリカ兵の姿が今も頭から離れない。
「攻撃しながら、片手にはビールを持っているの。
だから機械が戦争している
自分が激戦に行ってみて初めて、戦争というのは同じ人の殺し合いだねと思った」
【5月31日】
首里の日本軍司令部が陥落。日米の激しい戦いは事実上決着した
曹長の日誌:
丘の斜面には、アメリカ人だけでなく、日本人の死体が投げ出されている
死体はバラバラで黒く焼け焦げている
それは沖縄で見た光景の中でもっとも凄惨なものだった。
●決着後も続いた大勢の死者の理由
【6月23日】
日米決戦後にも、46,042人が亡くなっていたことが分かった。
わずか1日で5,502人亡くなった日もある。
32軍では、首里で最期の決戦にのぞむか、南部に撤退して持久戦を継続するか意見が分かれた。
牛島さんは少しでも時間を稼ぐため、南部で戦う決断を下し、沖縄最南端に司令部を移し、住民らも南部に殺到しひしめきあった
アメリカ軍でも意見が交わされた。
「南部には13万人ほどの住民がいるようだ。一時休戦を申し入れ、住民を保護すべきではないか」
6月、アメリカ軍は南部で掃討戦を開始。海からも攻撃し、犠牲は拡大。
梅雨の中逃げ惑う住民。身を守るには地下壕やガマに逃げ込むしかない。
このうち92箇所は、軍が作戦に使ったため、住民は残りに避難した
アメリカ軍南下で、住民を地下壕から追い出そうとする日本兵もいた
当時33歳の男性
「日本兵が来て、“おばあさん連中はみんな出て行け!”と言われ、
“今出ろと言っても、外は弾が降ってるじゃないか。出ろというのはその場ですぐ死ぬじゃないか”と言ったら、
“何、貴様!”と言って、すぐ拳銃出して撃とうとした」
濱本さん:
負傷し戦場に取り残され、自力で南部司令部にたどり着いたが、もはや軍隊の体をなしていなかったという
「我々の中に住民を入れておくわけにいかない。かといって私らが離れて入り口に住むわけにいかない
お前さんらはアメリカ兵に見つかっても殺されないだろう。でも、実際は、兵隊は自分の身を守るだけでやっと
そういうことから言うと、案外、住民を利用したかも分からない」
「赤ちゃんが泣くもんだから“子ども泣かすな。皆の迷惑だから出て行け!”と。
人間ってそんなもんかねと思ったね」
「6つくらいの男の子が“かぁーちゃん”と泣いたから、
この子のためにと親を前にして祖父母が口を塞いで、圧迫して死んだ」
「もう殺すしかないですから、口の中におしめを押し込んで、窒息させた」
みつこさん(88):
衰弱してガマで寝込んでいた。2歳上の姉が水を汲みにいき、弾が炸裂した。
「もう半狂乱。手を触ったら穴が空いている。動かないし、まだあったかいけど。どうしていいか分からない。
もう思い出したくない。思い出すと夜も寝られない」
もっと早く戦争を止める決断ができなかったのか。
どうしようもないですけどね、国のした業だから。でも悔しいですね
姉と一緒に亡くなっておれば、一生こんな苦しみをしなくてよかったのに
●喜屋武半島では、逃げ場を失った住民らが、次々に断崖から身を投げた
あの時の光景が今も脳裏に焼きついて離れない
「あれは地獄だった。衝撃的でした。
一番辛かったのは、身を投げて死んだ子どもの無惨な姿を見たことです
私は神に祈りました。どうか戦争を終わらせてください、と
投降するチャンスはあったはずなのに、なぜ
帰る場所も、家族もなかったのでしょうか?」
【6月23日】
牛島満32軍司令官は「最期まで戦え」という命令を残して自決
日本軍の組織的戦闘が終わる
伊東さんはそのままゲリラ戦を続けた。アメリカ軍に投降したのは8月末。
「国民を守れなくては、軍隊の役目のひとつを果していない」
曹長は95歳で亡くなった。戦後は作家となり、ピューリッツァ賞を受賞したが、
沖縄戦については生涯書かなかった。
「目を覚ましては部屋をうろつき、泣き叫ぶ、その繰り返しでした」
日誌の最後は、こう締めくくられている。
遺骨も見つからない人は、今も3000人以上いるとされている
碑にお参りに来た女性も、父がいつ、どこで亡くなったのか、分からないまま。
今年も100体近い遺骨が見つかった。
*
悪は「戦争」、「戦争を始めた人間」であって、戦った兵士、犠牲になった人ではない。
家族を殺された人も、殺した人間にも、同じ傷が一生深く刻まれる。
それでも日々を生き続けなければならない。
そしていまだ「戦争」は、どこかで起きている。
「テロ」「紛争」などの形に変えて。
暴力は暴力しか生まない。
この連鎖を止めるために、私たちは許しあい、理解し、話し合い、助け合い、悲劇を伝え、考え、
あらゆる智慧のかぎりを尽くして、「世界平和」をつくらねばならない。
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シリーズ戦争遺跡2『戦場になった島 沖縄・本土戦』(汐文社)
シリーズ戦争遺跡5『歩いてみよう身近な戦争遺跡』(汐文社)
もっと沖縄を知りたい(前編)@あさイチ
もっと沖縄を知りたい(後編)@あさイチ
アッキーがゆく もっと知りたい!沖縄II@あさイチ
戦後70年 子どもに“平和”をどう伝えるか@あさイチ
NHKスペシャル「作家 山崎豊子~戦争と人間を見つめて~」
映画『ひめゆりの塔』(1953)
映画『硫黄島からの手紙』
水木しげるさんのマンガ
語り:田中泯
戦後71年目。
6月23日は、沖縄県が制定している「慰霊の日」。
“戦争の実態を伝えるため、遺体の映像が映ります”というテロップあり。
このメモにもその一部を載せることにした。
【内容抜粋メモ】
太平洋戦争末期、「一億玉砕」を掲げたニッポン
沖縄戦には、アメリカ軍で開発されたばかりの最新兵器も投入された。
沖縄戦における住民の犠牲は国内最大。一家全滅もあるため、全体の被害像は今なお分からない。
全戦没者 20万人
沖縄県民 12万人
●アメリカ軍が残した膨大なフィルム
そのすべての映像を今回、専門家と検証した(記録を残したのはいいことだったね
【昭和20年4月1日夜明け前】 アメリカ兵が沖縄への上陸作戦開始
第二次世界大戦最大の上陸作戦だった
日本は本土への進出を食い止めようとし、第32軍に“持久戦”を命令
午前8時30分。10万発以上の援護のもと、アメリカ軍が上陸、“あらゆる地獄を集めた”と後に語られる戦いが始まる。
そこには、まだ避難しきれない50万人の住民がいた。
指揮した司令官/側近として沖縄戦を記録した曹長
機密扱いになっていた日記
「住民の死体の山が放置されている」
「殺した4700人のうち、2000人が沖縄の住民だった」
●戦後唯一、沖縄県が全世帯を対象に行った戦没者の調査記録@糸満市役所
個人情報が多いため非公開。個人名を除いて、いつ、どこで亡くなったかが記されている
死亡日、場所が不明の住民、徴兵された県出身の軍人を除く 82,074人を抽出し、コンピュータで解析したら、
1日ごとの死者数、住民の死が時間の経過により、どう増えたかが分かった。
【4月1日】
まず2つの飛行場を制圧し、日本軍の司令部のある首里を目指して南下
亡くなったのは292人。「疎開計画」が進まず、多くの住民が残っていた。
限られた兵力は、司令部周辺にかためるしかなかった。
●たった1日で、781人が亡くなった小さな伊江島
アメリカ軍は陸、海、空の全方位から攻撃
【4月16日】 上陸
目標は巨大な飛行場。日本攻撃の拠点にしようとした
32軍は、飛行場を自ら破壊。後に残されたのは残留兵と、3000人の住民
戦争直前、彼は県民にこう呼びかけた
「全県民が兵隊になることだ。即ち、一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」
●住民の肉声を記録した1000本もの証言テープには死の実態が生々しく語られていた
“斬り込み”
手製の爆弾等を抱えて、敵に突っ込む捨て身の攻撃。
当時17歳の女性:
「私は指揮班の人と“斬り込み”に出たかったわけ。1人でもアメリカ殺しながら死のうねと。
みんな子どもをおんぶして、おっぱいあげようとして下ろしたら、弾が当たって、背中で亡くなってて
みんな戦死。最期の“斬り込み”で。靖国神社にみんな兵隊と一緒に祀られるからと言って
全部死なないといかんと思うから、何でもないですよ
あの時は嬉しいんじゃなかったかね」
当時16歳の女性:
「天皇のために死になさい。国のために命を捧げるのは当然だと
捕虜になることは一番恥ずべき行為だと、小さい時から言い聞かされ、そういう教えしか分からなかった」
●「集団自決」は伊江島でもあった
沖縄に点在する「ガマ」と言われる洞窟の中には人骨が今も見つかる。
当時9歳だった大城さん(79)は、家を失い、両親とともにこの“ガマ”に逃れた時の様子を絵に描いた。
投降を呼びかけるアメリカ兵。周りには親戚、近所の人たち26人が入っていた
軍に召集された親戚の1人が持っていた爆弾を爆発させた。生き残ったのは4人だけ
「みんな死を覚悟していたから、何も思い残すことなく死んだと思います
生き残って良かったと、今思っている」
伊江島では3000人の住民中、1500人が亡くなった。
【5月1日】
首里をめぐって沖縄戦最大の攻防が行われた
【5月2日】
アメリカ軍は、住民30万人を収容できる施設をつくり、食糧を準備していた
【5月10日】
アメリカ軍の新型兵器が映っている。100m先まで焼き尽くす「火炎放射器」を搭載した装甲車
●「防衛召集」として集められた住民“根こそぎ動員”
「防衛召集」
戦時中に現地の人たちを兵として組み込む制度。
最終的には、14歳以上の男子中学生も対象にされた。本島の約2割
沖縄戦の半年前、大本営は32軍から台湾の防衛に回すことを命令。
深刻な兵力不足になり、「軍・官・民、共生共死の一体化」が推し進められた
日本軍の地下壕跡が浦添市に今も残る
こうした地下壕に軍・官・民がいっしょになり犠牲が増加した
32連隊の元上等兵、濱本さん(92)。部隊は9割が戦死
「防衛召集者は、軍事訓練なんて知りませんよ。その日から実戦。いちばん危ない仕事をしていた。
どこから弾が来るか分からない。出されれば危険にさらされる」
当時29歳の男性
「日が暮れてから斬り込みに出されたのは大体沖縄の人
鉄砲もない。竹やりと手榴弾くらい。爆破する時は抱いていって、戦車の下に入ってから爆発させる
もう死にに行くわけさ」
斬り込みを命令されたことが記録が残っている
老人、子ども、女性の一部は県内外に疎開させる予定だったが、実際は軍に組み込まれた人もいた
「弾薬は何回も運んでますから、夜は地雷埋めなんかしてました」
最前線を転々とし、軍とともに地下壕に入り、手伝わされた
「おにぎり握ったり、壕の入り口で(炊事)をやった。
すぐ(砲弾が)直撃して、女の人が2、3名、首がなくなったり、体が切られたりして・・・」
●住民の犠牲を最小限に抑える策はなかったのか?
横浜に住む元大尉・伊東さんを取材
「戦をするだけの能力を持っていなかった。戦うだけで頭が一杯で、軍は住民まで考えるゆとりがなかったかもしれない」
【5月14日】
司令部のすぐ近くまで迫るアメリカ軍。
11回にわたり激しい攻防が繰り返された。アメリカ軍の海兵隊の死亡者は4000人
精神に異常をきたす兵士の姿も映されている
●次第に無差別化していくアメリカ軍の攻撃
沖縄戦映像の専門家・山内さんが分析
「狙われやすい場所を移動するのは住民の可能性が大きい
この距離なら、民間人だと肉眼で分かるはず」
「シュガーローフ」の戦闘にいた元海師団伍長ジョーさん(89)を取材@アメリカ ボストン
戦時中は19歳
所属していた第6師団の旗が家の前に掲げられていた。
当時、兵と住民を見分けることは難しかったという。
「自分が先にやらなければ、こちらが殺されます。だから先に撃つしかないのです
ある夜、集団を見かけ、その中の1人が突然走り出した。それを見た仲間が銃を発射した
現場はパニックになり、私も機関銃を撃ちまくりました
泣き叫ぶ声が響き渡り、大混乱に陥りました
翌朝見に行くとすべて住民の死体でした」
アメリカ軍が日本軍の戦術を分析した報告書では、日本兵が着物を着て住民に偽装している写真が掲載されている。
内部文書を英訳した資料には「住民の服を着用するように」という命令文があった
伊東さん:
部下の中には住民に偽装する者がいたが、私は咎めなかった
どっちにしたって死ぬんだから、思うようにやらしてやろうと
無差別攻撃はエスカレートし、火炎放射器で地下壕を焼き尽くして逃げ道を断った。その中には住民もいた。
女性の証言:
「150m前に来たら、その戦車砲で(洞窟の)入り口をぶち壊す。
おじさんが、生きていて焼けているパチパチして。何十名もこんなにして戦死なさって」
証言をテープに残した伊智さん(91)は、狂気を帯びたアメリカ兵の姿が今も頭から離れない。
「攻撃しながら、片手にはビールを持っているの。
だから機械が戦争している
自分が激戦に行ってみて初めて、戦争というのは同じ人の殺し合いだねと思った」
【5月31日】
首里の日本軍司令部が陥落。日米の激しい戦いは事実上決着した
曹長の日誌:
丘の斜面には、アメリカ人だけでなく、日本人の死体が投げ出されている
死体はバラバラで黒く焼け焦げている
それは沖縄で見た光景の中でもっとも凄惨なものだった。
●決着後も続いた大勢の死者の理由
【6月23日】
日米決戦後にも、46,042人が亡くなっていたことが分かった。
わずか1日で5,502人亡くなった日もある。
32軍では、首里で最期の決戦にのぞむか、南部に撤退して持久戦を継続するか意見が分かれた。
牛島さんは少しでも時間を稼ぐため、南部で戦う決断を下し、沖縄最南端に司令部を移し、住民らも南部に殺到しひしめきあった
アメリカ軍でも意見が交わされた。
「南部には13万人ほどの住民がいるようだ。一時休戦を申し入れ、住民を保護すべきではないか」
6月、アメリカ軍は南部で掃討戦を開始。海からも攻撃し、犠牲は拡大。
梅雨の中逃げ惑う住民。身を守るには地下壕やガマに逃げ込むしかない。
このうち92箇所は、軍が作戦に使ったため、住民は残りに避難した
アメリカ軍南下で、住民を地下壕から追い出そうとする日本兵もいた
当時33歳の男性
「日本兵が来て、“おばあさん連中はみんな出て行け!”と言われ、
“今出ろと言っても、外は弾が降ってるじゃないか。出ろというのはその場ですぐ死ぬじゃないか”と言ったら、
“何、貴様!”と言って、すぐ拳銃出して撃とうとした」
濱本さん:
負傷し戦場に取り残され、自力で南部司令部にたどり着いたが、もはや軍隊の体をなしていなかったという
「我々の中に住民を入れておくわけにいかない。かといって私らが離れて入り口に住むわけにいかない
お前さんらはアメリカ兵に見つかっても殺されないだろう。でも、実際は、兵隊は自分の身を守るだけでやっと
そういうことから言うと、案外、住民を利用したかも分からない」
「赤ちゃんが泣くもんだから“子ども泣かすな。皆の迷惑だから出て行け!”と。
人間ってそんなもんかねと思ったね」
「6つくらいの男の子が“かぁーちゃん”と泣いたから、
この子のためにと親を前にして祖父母が口を塞いで、圧迫して死んだ」
「もう殺すしかないですから、口の中におしめを押し込んで、窒息させた」
みつこさん(88):
衰弱してガマで寝込んでいた。2歳上の姉が水を汲みにいき、弾が炸裂した。
「もう半狂乱。手を触ったら穴が空いている。動かないし、まだあったかいけど。どうしていいか分からない。
もう思い出したくない。思い出すと夜も寝られない」
もっと早く戦争を止める決断ができなかったのか。
どうしようもないですけどね、国のした業だから。でも悔しいですね
姉と一緒に亡くなっておれば、一生こんな苦しみをしなくてよかったのに
●喜屋武半島では、逃げ場を失った住民らが、次々に断崖から身を投げた
あの時の光景が今も脳裏に焼きついて離れない
「あれは地獄だった。衝撃的でした。
一番辛かったのは、身を投げて死んだ子どもの無惨な姿を見たことです
私は神に祈りました。どうか戦争を終わらせてください、と
投降するチャンスはあったはずなのに、なぜ
帰る場所も、家族もなかったのでしょうか?」
【6月23日】
牛島満32軍司令官は「最期まで戦え」という命令を残して自決
日本軍の組織的戦闘が終わる
伊東さんはそのままゲリラ戦を続けた。アメリカ軍に投降したのは8月末。
「国民を守れなくては、軍隊の役目のひとつを果していない」
曹長は95歳で亡くなった。戦後は作家となり、ピューリッツァ賞を受賞したが、
沖縄戦については生涯書かなかった。
「目を覚ましては部屋をうろつき、泣き叫ぶ、その繰り返しでした」
日誌の最後は、こう締めくくられている。
遺骨も見つからない人は、今も3000人以上いるとされている
碑にお参りに来た女性も、父がいつ、どこで亡くなったのか、分からないまま。
今年も100体近い遺骨が見つかった。
*
悪は「戦争」、「戦争を始めた人間」であって、戦った兵士、犠牲になった人ではない。
家族を殺された人も、殺した人間にも、同じ傷が一生深く刻まれる。
それでも日々を生き続けなければならない。
そしていまだ「戦争」は、どこかで起きている。
「テロ」「紛争」などの形に変えて。
暴力は暴力しか生まない。
この連鎖を止めるために、私たちは許しあい、理解し、話し合い、助け合い、悲劇を伝え、考え、
あらゆる智慧のかぎりを尽くして、「世界平和」をつくらねばならない。
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もっと沖縄を知りたい(前編)@あさイチ
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映画『硫黄島からの手紙』
水木しげるさんのマンガ