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NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」

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NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」
語り:田中泯

戦後71年目。
6月23日は、沖縄県が制定している「慰霊の日」。

“戦争の実態を伝えるため、遺体の映像が映ります”というテロップあり。
このメモにもその一部を載せることにした。


【内容抜粋メモ】

太平洋戦争末期、「一億玉砕」を掲げたニッポン
沖縄戦には、アメリカ軍で開発されたばかりの最新兵器も投入された。
沖縄戦における住民の犠牲は国内最大。一家全滅もあるため、全体の被害像は今なお分からない。

全戦没者 20万人
沖縄県民 12万人



●アメリカ軍が残した膨大なフィルム
そのすべての映像を今回、専門家と検証した(記録を残したのはいいことだったね

 


【昭和20年4月1日夜明け前】 アメリカ兵が沖縄への上陸作戦開始
第二次世界大戦最大の上陸作戦だった

 

 

 




日本は本土への進出を食い止めようとし、第32軍に“持久戦”を命令
 

午前8時30分。10万発以上の援護のもと、アメリカ軍が上陸、“あらゆる地獄を集めた”と後に語られる戦いが始まる。
そこには、まだ避難しきれない50万人の住民がいた。

 

指揮した司令官/側近として沖縄戦を記録した曹長
 

機密扱いになっていた日記


「住民の死体の山が放置されている」

「殺した4700人のうち、2000人が沖縄の住民だった」



●戦後唯一、沖縄県が全世帯を対象に行った戦没者の調査記録@糸満市役所
 
個人情報が多いため非公開。個人名を除いて、いつ、どこで亡くなったかが記されている

死亡日、場所が不明の住民、徴兵された県出身の軍人を除く 82,074人を抽出し、コンピュータで解析したら、
1日ごとの死者数、住民の死が時間の経過により、どう増えたかが分かった。


【4月1日】
まず2つの飛行場を制圧し、日本軍の司令部のある首里を目指して南下
 

亡くなったのは292人。「疎開計画」が進まず、多くの住民が残っていた。
限られた兵力は、司令部周辺にかためるしかなかった。


●たった1日で、781人が亡くなった小さな伊江島


アメリカ軍は陸、海、空の全方位から攻撃


【4月16日】 上陸
目標は巨大な飛行場。日本攻撃の拠点にしようとした


32軍は、飛行場を自ら破壊。後に残されたのは残留兵と、3000人の住民
 



戦争直前、彼は県民にこう呼びかけた
「全県民が兵隊になることだ。即ち、一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ」


●住民の肉声を記録した1000本もの証言テープには死の実態が生々しく語られていた


“斬り込み”
手製の爆弾等を抱えて、敵に突っ込む捨て身の攻撃。


当時17歳の女性:
「私は指揮班の人と“斬り込み”に出たかったわけ。1人でもアメリカ殺しながら死のうねと。
 みんな子どもをおんぶして、おっぱいあげようとして下ろしたら、弾が当たって、背中で亡くなってて
 みんな戦死。最期の“斬り込み”で。靖国神社にみんな兵隊と一緒に祀られるからと言って
 全部死なないといかんと思うから、何でもないですよ
 あの時は嬉しいんじゃなかったかね」


当時16歳の女性:
「天皇のために死になさい。国のために命を捧げるのは当然だと
 捕虜になることは一番恥ずべき行為だと、小さい時から言い聞かされ、そういう教えしか分からなかった」


●「集団自決」は伊江島でもあった
沖縄に点在する「ガマ」と言われる洞窟の中には人骨が今も見つかる。

当時9歳だった大城さん(79)は、家を失い、両親とともにこの“ガマ”に逃れた時の様子を絵に描いた。


投降を呼びかけるアメリカ兵。周りには親戚、近所の人たち26人が入っていた
軍に召集された親戚の1人が持っていた爆弾を爆発させた。生き残ったのは4人だけ

「みんな死を覚悟していたから、何も思い残すことなく死んだと思います
 生き残って良かったと、今思っている」

伊江島では3000人の住民中、1500人が亡くなった。


【5月1日】
首里をめぐって沖縄戦最大の攻防が行われた

【5月2日】

アメリカ軍は、住民30万人を収容できる施設をつくり、食糧を準備していた

【5月10日】
アメリカ軍の新型兵器が映っている。100m先まで焼き尽くす「火炎放射器」を搭載した装甲車



●「防衛召集」として集められた住民“根こそぎ動員”


「防衛召集」
戦時中に現地の人たちを兵として組み込む制度。
最終的には、14歳以上の男子中学生も対象にされた。本島の約2割

沖縄戦の半年前、大本営は32軍から台湾の防衛に回すことを命令。
深刻な兵力不足になり、「軍・官・民、共生共死の一体化」が推し進められた


日本軍の地下壕跡が浦添市に今も残る
こうした地下壕に軍・官・民がいっしょになり犠牲が増加した

32連隊の元上等兵、濱本さん(92)。部隊は9割が戦死


「防衛召集者は、軍事訓練なんて知りませんよ。その日から実戦。いちばん危ない仕事をしていた。
 どこから弾が来るか分からない。出されれば危険にさらされる」

当時29歳の男性
「日が暮れてから斬り込みに出されたのは大体沖縄の人
 鉄砲もない。竹やりと手榴弾くらい。爆破する時は抱いていって、戦車の下に入ってから爆発させる
 もう死にに行くわけさ」


斬り込みを命令されたことが記録が残っている
老人、子ども、女性の一部は県内外に疎開させる予定だったが、実際は軍に組み込まれた人もいた

「弾薬は何回も運んでますから、夜は地雷埋めなんかしてました」


最前線を転々とし、軍とともに地下壕に入り、手伝わされた

「おにぎり握ったり、壕の入り口で(炊事)をやった。
 すぐ(砲弾が)直撃して、女の人が2、3名、首がなくなったり、体が切られたりして・・・」


●住民の犠牲を最小限に抑える策はなかったのか?
横浜に住む元大尉・伊東さんを取材


「戦をするだけの能力を持っていなかった。戦うだけで頭が一杯で、軍は住民まで考えるゆとりがなかったかもしれない」


【5月14日】
司令部のすぐ近くまで迫るアメリカ軍。


11回にわたり激しい攻防が繰り返された。アメリカ軍の海兵隊の死亡者は4000人

精神に異常をきたす兵士の姿も映されている



●次第に無差別化していくアメリカ軍の攻撃


沖縄戦映像の専門家・山内さんが分析

「狙われやすい場所を移動するのは住民の可能性が大きい
 この距離なら、民間人だと肉眼で分かるはず」

「シュガーローフ」の戦闘にいた元海師団伍長ジョーさん(89)を取材@アメリカ ボストン

戦時中は19歳

所属していた第6師団の旗が家の前に掲げられていた。
 

当時、兵と住民を見分けることは難しかったという。

「自分が先にやらなければ、こちらが殺されます。だから先に撃つしかないのです
 ある夜、集団を見かけ、その中の1人が突然走り出した。それを見た仲間が銃を発射した
 現場はパニックになり、私も機関銃を撃ちまくりました
 泣き叫ぶ声が響き渡り、大混乱に陥りました
 翌朝見に行くとすべて住民の死体でした」




アメリカ軍が日本軍の戦術を分析した報告書では、日本兵が着物を着て住民に偽装している写真が掲載されている。
内部文書を英訳した資料には「住民の服を着用するように」という命令文があった

伊東さん:
部下の中には住民に偽装する者がいたが、私は咎めなかった
どっちにしたって死ぬんだから、思うようにやらしてやろうと

無差別攻撃はエスカレートし、火炎放射器で地下壕を焼き尽くして逃げ道を断った。その中には住民もいた。


女性の証言:
「150m前に来たら、その戦車砲で(洞窟の)入り口をぶち壊す。
 おじさんが、生きていて焼けているパチパチして。何十名もこんなにして戦死なさって」

証言をテープに残した伊智さん(91)は、狂気を帯びたアメリカ兵の姿が今も頭から離れない。

「攻撃しながら、片手にはビールを持っているの。

 だから機械が戦争している
 自分が激戦に行ってみて初めて、戦争というのは同じ人の殺し合いだねと思った」



【5月31日】
首里の日本軍司令部が陥落。日米の激しい戦いは事実上決着した


曹長の日誌:
丘の斜面には、アメリカ人だけでなく、日本人の死体が投げ出されている
死体はバラバラで黒く焼け焦げている
それは沖縄で見た光景の中でもっとも凄惨なものだった。



●決着後も続いた大勢の死者の理由

【6月23日】
日米決戦後にも、46,042人が亡くなっていたことが分かった。
わずか1日で5,502人亡くなった日もある。

32軍では、首里で最期の決戦にのぞむか、南部に撤退して持久戦を継続するか意見が分かれた。


牛島さんは少しでも時間を稼ぐため、南部で戦う決断を下し、沖縄最南端に司令部を移し、住民らも南部に殺到しひしめきあった



アメリカ軍でも意見が交わされた。
「南部には13万人ほどの住民がいるようだ。一時休戦を申し入れ、住民を保護すべきではないか」

6月、アメリカ軍は南部で掃討戦を開始。海からも攻撃し、犠牲は拡大。

梅雨の中逃げ惑う住民。身を守るには地下壕やガマに逃げ込むしかない。


このうち92箇所は、軍が作戦に使ったため、住民は残りに避難した
アメリカ軍南下で、住民を地下壕から追い出そうとする日本兵もいた


当時33歳の男性
「日本兵が来て、“おばあさん連中はみんな出て行け!”と言われ、
 “今出ろと言っても、外は弾が降ってるじゃないか。出ろというのはその場ですぐ死ぬじゃないか”と言ったら、
 “何、貴様!”と言って、すぐ拳銃出して撃とうとした」

濱本さん:
負傷し戦場に取り残され、自力で南部司令部にたどり着いたが、もはや軍隊の体をなしていなかったという

「我々の中に住民を入れておくわけにいかない。かといって私らが離れて入り口に住むわけにいかない
 お前さんらはアメリカ兵に見つかっても殺されないだろう。でも、実際は、兵隊は自分の身を守るだけでやっと
 そういうことから言うと、案外、住民を利用したかも分からない」


「赤ちゃんが泣くもんだから“子ども泣かすな。皆の迷惑だから出て行け!”と。
 人間ってそんなもんかねと思ったね」

「6つくらいの男の子が“かぁーちゃん”と泣いたから、
 この子のためにと親を前にして祖父母が口を塞いで、圧迫して死んだ」

「もう殺すしかないですから、口の中におしめを押し込んで、窒息させた」


みつこさん(88):
衰弱してガマで寝込んでいた。2歳上の姉が水を汲みにいき、弾が炸裂した。

「もう半狂乱。手を触ったら穴が空いている。動かないし、まだあったかいけど。どうしていいか分からない。
 もう思い出したくない。思い出すと夜も寝られない」

 もっと早く戦争を止める決断ができなかったのか。

 どうしようもないですけどね、国のした業だから。でも悔しいですね
 姉と一緒に亡くなっておれば、一生こんな苦しみをしなくてよかったのに


●喜屋武半島では、逃げ場を失った住民らが、次々に断崖から身を投げた




あの時の光景が今も脳裏に焼きついて離れない

「あれは地獄だった。衝撃的でした。
 一番辛かったのは、身を投げて死んだ子どもの無惨な姿を見たことです
 私は神に祈りました。どうか戦争を終わらせてください、と
 投降するチャンスはあったはずなのに、なぜ
 帰る場所も、家族もなかったのでしょうか?」


【6月23日】
牛島満32軍司令官は「最期まで戦え」という命令を残して自決
日本軍の組織的戦闘が終わる

伊東さんはそのままゲリラ戦を続けた。アメリカ軍に投降したのは8月末。
「国民を守れなくては、軍隊の役目のひとつを果していない」

曹長は95歳で亡くなった。戦後は作家となり、ピューリッツァ賞を受賞したが、
沖縄戦については生涯書かなかった。


「目を覚ましては部屋をうろつき、泣き叫ぶ、その繰り返しでした」

日誌の最後は、こう締めくくられている。




遺骨も見つからない人は、今も3000人以上いるとされている
碑にお参りに来た女性も、父がいつ、どこで亡くなったのか、分からないまま。

今年も100体近い遺骨が見つかった。





悪は「戦争」、「戦争を始めた人間」であって、戦った兵士、犠牲になった人ではない。
家族を殺された人も、殺した人間にも、同じ傷が一生深く刻まれる。
それでも日々を生き続けなければならない。

そしていまだ「戦争」は、どこかで起きている。
「テロ」「紛争」などの形に変えて。

暴力は暴力しか生まない。

この連鎖を止めるために、私たちは許しあい、理解し、話し合い、助け合い、悲劇を伝え、考え、
あらゆる智慧のかぎりを尽くして、「世界平和」をつくらねばならない。

 


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