■「四国八十八か所霊場 1200年の物語」@歴史秘話ヒストリア
霊場開創1200年を迎えた四国。
メル友さんが88か所を巡った旅日記を読んでいたら、興味が湧いたので予録してみた。
1400km、88か所を巡るお遍路。白装束+菅笠がトレードマーク
最初は山伏の修行から始まり、一般に広まり、戦後一度途絶えて、復興するまで。
俳優の松田悟志さんも初体験してみた。
グッズ売場があるのかw 手ぶらで来てもすぐに道具が揃う
お寺を回り、本尊をお参りして「般若心経」を読み、「御朱印」をもらう。
今で言うスタンプラリー的な要素もあるなあ
●お遍路めぐりのもとになった空海
パワースポットまである/驚 最大の難所は「焼山寺」
行く先々で杖をついて水を出すなどの奇跡を起こしたという僧・空海
●空海が修行に出るまで
18歳の空海は、日本で唯一の大学(朝廷の役人を育成する)に通っていた
毎日、お経や漢文の暗記、試験があり、合格しないと即退学させられるため焦る空海
当時の都は貧富の差が激しく、貴族が優雅な生活を送る一方、
周りと比べて身分の低い空海は、どうしたら効率的にものを覚えられるか悩んでいると、
1人の僧に話しかけられた
「大自然の中で仏の言葉を100万回唱えると記憶力がアップするぞ」
●空海、旅に出る
学校に休みをもらい、四国に赴く。
そのほうぼうを旅した苦難の道のりが88か所に残されている
空海がこもって100万回お経を読んだ洞窟
移動中の道は険しく、自然と対話をして修行に明け暮れるうちに、
都での華やかな生活が儚いものに思えてきた
貧しさに喘ぐ都の民の苦しみが心に響くようになる
「出世したい、豊かな暮らしを送りたいと、自分を救うことばかり考えてきた
しかし、他のあらゆる人々も救わなければ意味がない」
31歳で唐に留学→当時最先端の「密教」と出会い→帰国後、高野山で「真言宗」を開く
修行の原点である四国は「聖地」とされ、お遍路巡りのはじまりになったといわれる
●『四國遍禮道指南』(しこくへんろみちしるべ)
最初は修行僧だけだったのが、江戸時代になると一般人も行くようになる
そのきっかけとなったのは、宥辯真念(ゆうべんしんねん)の書いた1冊の本
彼はお遍路マニアで、全国の人にもっと知って欲しい一心で書き、大ヒットとなる
専門家:和紙でできた本で、旅に携帯するにも軽くて便利
菩薩のイラストや、どんな願い事を叶えてくれるかも分かり易く書いてある
(あれ、お地蔵さんて安産の仏さまなの???
●しるし石
今の道路標識。分かれ道で迷わないように真念が建てた
道中なにもない長い距離の所には、宿を建てた「真念庵」
今は祠として、ここもお参りの対象となっている
●お遍路名物の「お接待」
無料で泊めてくれる宿名も書いてある
空海は、お遍路さんに親切にすれば、自分も同じ功徳が得られると説いたため
専門家:
今の「お接待」の精神の大本も真念がつくったのかもしれない
●目に見える功徳~虹
●戦後に途絶えたお遍路を復活させた「バス巡礼」
第二次世界大戦で四国は焼け野原になる。
地元のバス会社は復興のため「お遍路バス」を企画した
歩けば2ヶ月かかる道のりを、愛媛県松山市からスタートして、四国を2週間で回る計画だった(今では普通にあるみたいね
初日は順調で、飴や餅の接待を受けた
●まだ生々しく残る戦争の傷跡
参加者の1人、岡崎さんは、バスでの巡礼の様子を後に本に書いた
遺骨もない戦没者のお墓もたくさんあった
本堂は焼け落ち、辺りも荒れ果てていた
バスの車中をよく見ると、参加者の中にも、親しい人を亡くして位牌を持っている人や
戦争で心に病を抱えた娘の回復を願う父親の姿があった
●最大のトラブル
山中で立ち往生して、急遽歩くことに(下調べしなかったのかな
参加者の多くは下駄や雪駄を履いていたため、宿にやっと着いたのは夜11時過ぎ。
しかし、ガイドさんは翌朝は7:30出発だという(まあ、もともと修行だからねえ・・・
翌日も歩き通しで、お寺に着いたのはまた夜11時過ぎ。
疲れ果てた参加者の中からは不満の声が出始め、
その夜、住職が法話をすると言った
「これこそが辛い思いをしてまでも歩き続ける“祈りの道”なのです」
参加者らは、そもそもの意味をかえりみて、反省した。
翌日は、最大の難所である標高911m、5kmのけもの道の上にあるお寺。
何度も道を確認してくれている添乗員の姿を見て、みんな助け合い、励ましあうようになる。
4時間後、無事に着いた山頂から見た、まだ復興途中の町を見て
「戦争を生き延びたからこそ、こうしてお遍路もできるということは有難い」と思う岡崎さん。
見ると、心を病んでいた娘さんも、見違えるほど回復し、父ともども喜んでいた。
その後、一人も欠けることなく、すべてのお寺を回りきった
●遍路道沿いに残る道しるべの看板を一人で立てた男性
昔の賑わいを取り戻したお遍路
昭和54年、もともとは持病を治したいとお遍路をはじめた宮崎さん
だが、江戸時代の道しるべは風化し、読み取れなくなっていた
それからは、クルマに寝泊りして、四国中に手作りの看板を立てていった
宮崎さんは、4年前道なかばで亡くなったが、その活動はその後も受け継がれた
「ちょっと元気が出てきたりする気持ちを込めて続けていきたい」
若者も多いんだなあ! 悩んでいる子どもが多いということか?
【ブログ内関連記事】
映画『空海』(1984)
弥勒菩薩跏思惟像
霊場開創1200年を迎えた四国。
メル友さんが88か所を巡った旅日記を読んでいたら、興味が湧いたので予録してみた。
1400km、88か所を巡るお遍路。白装束+菅笠がトレードマーク
最初は山伏の修行から始まり、一般に広まり、戦後一度途絶えて、復興するまで。
俳優の松田悟志さんも初体験してみた。
グッズ売場があるのかw 手ぶらで来てもすぐに道具が揃う
お寺を回り、本尊をお参りして「般若心経」を読み、「御朱印」をもらう。
今で言うスタンプラリー的な要素もあるなあ
●お遍路めぐりのもとになった空海
パワースポットまである/驚 最大の難所は「焼山寺」
行く先々で杖をついて水を出すなどの奇跡を起こしたという僧・空海
●空海が修行に出るまで
18歳の空海は、日本で唯一の大学(朝廷の役人を育成する)に通っていた
毎日、お経や漢文の暗記、試験があり、合格しないと即退学させられるため焦る空海
当時の都は貧富の差が激しく、貴族が優雅な生活を送る一方、
周りと比べて身分の低い空海は、どうしたら効率的にものを覚えられるか悩んでいると、
1人の僧に話しかけられた
「大自然の中で仏の言葉を100万回唱えると記憶力がアップするぞ」
●空海、旅に出る
学校に休みをもらい、四国に赴く。
そのほうぼうを旅した苦難の道のりが88か所に残されている
空海がこもって100万回お経を読んだ洞窟
移動中の道は険しく、自然と対話をして修行に明け暮れるうちに、
都での華やかな生活が儚いものに思えてきた
貧しさに喘ぐ都の民の苦しみが心に響くようになる
「出世したい、豊かな暮らしを送りたいと、自分を救うことばかり考えてきた
しかし、他のあらゆる人々も救わなければ意味がない」
31歳で唐に留学→当時最先端の「密教」と出会い→帰国後、高野山で「真言宗」を開く
修行の原点である四国は「聖地」とされ、お遍路巡りのはじまりになったといわれる
●『四國遍禮道指南』(しこくへんろみちしるべ)
最初は修行僧だけだったのが、江戸時代になると一般人も行くようになる
そのきっかけとなったのは、宥辯真念(ゆうべんしんねん)の書いた1冊の本
彼はお遍路マニアで、全国の人にもっと知って欲しい一心で書き、大ヒットとなる
専門家:和紙でできた本で、旅に携帯するにも軽くて便利
菩薩のイラストや、どんな願い事を叶えてくれるかも分かり易く書いてある
(あれ、お地蔵さんて安産の仏さまなの???
●しるし石
今の道路標識。分かれ道で迷わないように真念が建てた
道中なにもない長い距離の所には、宿を建てた「真念庵」
今は祠として、ここもお参りの対象となっている
●お遍路名物の「お接待」
無料で泊めてくれる宿名も書いてある
空海は、お遍路さんに親切にすれば、自分も同じ功徳が得られると説いたため
専門家:
今の「お接待」の精神の大本も真念がつくったのかもしれない
●目に見える功徳~虹
●戦後に途絶えたお遍路を復活させた「バス巡礼」
第二次世界大戦で四国は焼け野原になる。
地元のバス会社は復興のため「お遍路バス」を企画した
歩けば2ヶ月かかる道のりを、愛媛県松山市からスタートして、四国を2週間で回る計画だった(今では普通にあるみたいね
初日は順調で、飴や餅の接待を受けた
●まだ生々しく残る戦争の傷跡
参加者の1人、岡崎さんは、バスでの巡礼の様子を後に本に書いた
遺骨もない戦没者のお墓もたくさんあった
本堂は焼け落ち、辺りも荒れ果てていた
バスの車中をよく見ると、参加者の中にも、親しい人を亡くして位牌を持っている人や
戦争で心に病を抱えた娘の回復を願う父親の姿があった
●最大のトラブル
山中で立ち往生して、急遽歩くことに(下調べしなかったのかな
参加者の多くは下駄や雪駄を履いていたため、宿にやっと着いたのは夜11時過ぎ。
しかし、ガイドさんは翌朝は7:30出発だという(まあ、もともと修行だからねえ・・・
翌日も歩き通しで、お寺に着いたのはまた夜11時過ぎ。
疲れ果てた参加者の中からは不満の声が出始め、
その夜、住職が法話をすると言った
「これこそが辛い思いをしてまでも歩き続ける“祈りの道”なのです」
参加者らは、そもそもの意味をかえりみて、反省した。
翌日は、最大の難所である標高911m、5kmのけもの道の上にあるお寺。
何度も道を確認してくれている添乗員の姿を見て、みんな助け合い、励ましあうようになる。
4時間後、無事に着いた山頂から見た、まだ復興途中の町を見て
「戦争を生き延びたからこそ、こうしてお遍路もできるということは有難い」と思う岡崎さん。
見ると、心を病んでいた娘さんも、見違えるほど回復し、父ともども喜んでいた。
その後、一人も欠けることなく、すべてのお寺を回りきった
●遍路道沿いに残る道しるべの看板を一人で立てた男性
昔の賑わいを取り戻したお遍路
昭和54年、もともとは持病を治したいとお遍路をはじめた宮崎さん
だが、江戸時代の道しるべは風化し、読み取れなくなっていた
それからは、クルマに寝泊りして、四国中に手作りの看板を立てていった
宮崎さんは、4年前道なかばで亡くなったが、その活動はその後も受け継がれた
「ちょっと元気が出てきたりする気持ちを込めて続けていきたい」
若者も多いんだなあ! 悩んでいる子どもが多いということか?
【ブログ内関連記事】
映画『空海』(1984)
弥勒菩薩跏思惟像