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哀川翔~哀しみを川に流して翔びたて 涙の真実~@ファミリーヒストリー

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昔、翔さんの自伝を読んだな 引っ越すうちに本は大抵売ってしまったが
自伝にはもっぱらやんちゃだった翔さん自身のこと、結婚前後の話が多かったけれども
この番組のフタを開けてみたら、まるで昭和の戦争史のようで身につまされてしまった

最初に翔さんにハマったのは、『木更津キャッツアイ』でぶっさんらが
やたらと翔さんをリスペクトしてたのが気になった時からじゃないかな
それまで通り過ぎていたビデオ屋の「Vシネ」コーナーの翔さんの出演作を片っ端から観た

血だらけのドロドロは苦手だけど、深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズとか
昭和って時代の知らなかった闇の部分にも興味がわいたりして

「任侠映画」のコーナーがあるって、フシギな国だよね、日本て本当に


『俺、不良品。』(私が読んだ自伝はこれかも

NHK大河ドラマ『真田丸』 第1回~第5回



その他の出演作のメモは「notes and movies まとめ」のどこかにあるので、ブログ内検索要

***

「年間5000匹のカブトムシを飼育している」ってサラっと言われてる時点で面白いww
一世風靡セピアのメンバーとしてデビュー
家庭では5人の子どもの父親
幼くして父を亡くし、家族の歴史はほとんど知らない


スタジオに入って



S:
静まり返ってるけど、大丈夫?w
なんで緊張するんだろうね
オレなにも悪いことしてないよ


鹿児島 鹿屋市



実家をいきなり訪ねて、お母さん・幸子さんが出てきた

49年前に夫から預かった古い巻物と掛け軸がある
いつのものか、何が書いてあるのかも分からない



この武将が翔さんの祖先だと伝わっているそう



翔さんの本名は福地家宏(本名までなんかかっけー
父の代まで佐賀で暮らしてきた

佐賀大学地域学歴史文化研究センターで巻物を調べてもらった

准教授・伊藤さん:
内容は「1637年(寛永14年)島原の乱」で福地家が奮戦したということ
福地家は、先祖代々、軍功が著しく活躍してきた家だと書かれている



天草四郎率いるキリシタンと幕府の戦いで、福地家の先祖が鍋島班家臣として出陣した
そこで活躍した福地三左衛門さんが、翔さんの祖先!



一緒に旗印も納められていた 「三」は福地三左衛門からとったと思われる




江戸時代 福地家は鍋島班家臣として要職についていた



明治時代 曽祖父は警察官となる
明治37年に生まれたのが家久(祖父



祖父は大隈記念館の向かいに暮らしていた

 

大正15年 家久は東京帝国大学法学部に入学

昭和4年  卒業直後、青沼益家(熱海の資産家の娘)と結婚


(おじいさんもカッコいい

「昭和恐慌」で景気は落ち込み、家久は定職に就けずにいた
その頃、長男(翔さんの父)家興、次男・基が生まれる



昭和7年 満州国 建国



家久は新しい国づくりに優秀な人材を求めていた満州に向かうことを決意

長女・嶺子さんが父の満州での経歴を持っていた
家久は各地の警務長(警察官僚)に勤務していた

当時、満州では略奪・暴行を繰り返す「匪賊」の被害が多く、治安維持が大きな課題だった

 

基は赤痢で亡くなる わずか2歳

昭和15年 長男・家興が肋膜炎と診断され、万一を考えて、日本に帰すことにした

嶺子さん:
両親は兄を手放したくなかったでしょうけれども、長男だから

日本に帰したんだと思う

家興(当時11歳)は、佐賀の祖母と暮らし始めた





家興のいとこ・香田さん:
大きなミカンの木があり、メジロがたくさん来る
かすみ網を張って、さお竹でパッと叩くとメジロがぶらさがる
それをどんどん掴んで、何十羽と捕って、鳥かごに入れて
観賞用にみなさんに差し上げるわけです それが得意だった
その血が、息子の生き物好きに似てるかなってw

家興には父から頻繁に手紙が届き、いつもある言葉が書かれていた
「お国の役に立つ人材になりなさい」

家興は父の期待に応えようと軍人になるつもりだった

嶺子さん:
兄は小さい頃から飛行機乗りになると言っていた
僕は海軍だと言っていたけれども(ん、空軍じゃないのか?
そしたら父がすごく喜んで

昭和18年 父はウランホトに着任 現在の県警本部長に就任





父の後輩・尾畑さん:(年齢を見て、翔さん「元気だねえ」
興安総省はソ連と国境を接しているところで、非常に警備上で問題のあるところ
そこの警察のトップっとして任される人は、
当時の部下をまとめるとか、統率力がある
しかも、なにか一大事があった時は、冷静な判断を下せるということを
兼ね備えた人でないと任命されない


満州での暮らしは突然、終わりを迎える

昭和20年8月9日 ソ連侵攻

 

翌日、興安街でも空爆が起きる

この時、益家は6人目の子どもを身ごもっていた
父は、長女・嶺子、三郎、則子を連れて逃げるよう言う



家久は警務庁長として、避難する日本人をソ連兵から守る任務につく



当時のことが詳しく書いてある興安総省からの引き揚げ者の手記『あゝホロンバイル』に
家久のことが詳しく書いてある



“福地警務庁長は、警務庁警察官を主軸に、百有余名の武装集団を結成
 「興安隊」と命名し、騎馬隊、徒歩隊、輸送車と続いて総省公署を後にした”



家久は日本人の避難ルートの警備にあたった

昭和20年9月2日 丘から匪賊の襲撃を受けた



『あゝホロンバイル』より
“激しく撃ち込んで来る銃声に、殆ど人声が聞こえない
 その中、福地警務庁長の戦死が伝えられ、、、”

家久は頭部を撃ち抜かれ即死 享年40歳


翔さん:
すごいね
なんか 立派ですよね 任務を全うした 警察官ってそれが任務だから
きっちり遂行してやり遂げたところは立派ですよね
なんか、今ちょっとおかしくなってるね、オレw
情報が衝撃的すぎて いっぱいありすぎちゃって



今田:でもこれまだVTR1つ目なんですよ

翔さん:
そうだね オレ、終わった頃痩せてるんじゃないかなw


益家は、子どもを連れ、必死に「新京」を目指した

『遥かなる紅い夕陽 満州からの引揚げ』

ドラマ『開拓者たち』

『引揚孤児と残留孤児~海峡を越えた子・越えられなかった子』(汐文社)
ほか


昭和20年8月24日 避難を始めて13日目



『満州引揚日記』より
“2時頃でした。「ソ連部隊だあっ!」
 いつの間にかソ連兵が散開して我々を包囲してしまいました”

この時12歳の嶺子さんは死を覚悟した

嶺子さん:
銃殺ということで、夜ずらっと並ばされたんですけど(翔さん「ウワア~」
その時、母が「向こうからバラバラと銃を撃つ音がしたら、すぐパタっとその溝に伏せるんですよ」

言われました
でもソ連の女の将校さんだったので、銃殺はとりやめになった


翌日からソ連兵に監視されながら新京への移動が始まった

益家はこう子どもたちに言って励ました
「もう少し頑張れば、きっとお父さんが助けに来てくれる」

嶺子さん:
父がきっと迎えに来てくれると疑いもしませんでした
パパが来る、そればかり思っていました


昭和20年8月30日



 

病気や疲労で歩けない者はここに置いていかれることになった
身重の益家もここに留まらざるを得なかった

嶺子さん:
母は妹をおぶって、坦途に来た時には、もう歩ける状態じゃなかったんでしょうね
もう精も根も尽き果てて

9月3日 則子がひきつけを起こす

『満州引揚日記』より
“午後十時半 警務庁長ノ子供死亡(二才)”

9月5日 益家は女児ふさ子を出産(強いなあ!
しかし、ふさ子も生まれて間もなく亡くなる

9月7日

嶺子さん:
母に「嶺子ちゃん、子守唄を歌ってくれない?」と言われて
「いいわよ」って言って、自分が知っているかぎりの子守唄をいっぱい歌って
ママにくっついて、弟と寝ちゃったんですよね

翌朝、益家は冷たくなっていた 享年38(なんてことだ・・・

嶺子さん:
ママどうしちゃったの?って言って
隣りのおばさんが「嶺子ちゃん、亡くなったのよ」って言って
「亡くなるってなあに」って言ったんですけど、、、

(満州って何だったんだろうね

3日後、嶺子と三郎は、家久の部下に救出される


佐賀で家興は家族の帰りを待ち続けていた
ある日、部下が祖母を訪ね、父、母、妹の死を伝えた

当時、家興と暮らしていた洋子さん



洋子さん:
「自分が満州にいたら、父親の役に立てたのかな」と言っていました
長男としての責任をすごく感じていたと思います

昭和24年 旧制中学を卒業した家興は上京し、早稲田大学に入学

 

家興の親友・阿部さんは、家興と下宿で3年間、同室だった
夜遅くまで勉強する家興の姿を覚えている

阿部さん:
その頃から英語を一生懸命勉強していた
机のみかん箱があって、それに向かって朝まで勉強しているのを見受けました
努力してたと思う

 

家興のいとこ・青沼さん:
家興さんは満州の出来事を一切語らなかった
いろんな苦労や心の痛手が山程あったんでしょうけれど

 

ある意味ちょっと親分肌だった
でも、ふっとした時、本当に品のいい顔して
本当に寂しそうな顔をする時もありました


昭和28年 家興は大学を卒業
海上自衛隊の前身「警備隊」に入隊
家興はパイロットを目指すが、家族は猛反対した

 

嶺子さん:
いくら家興ちゃんの夢だとしても、飛行機に乗ることは全員が反対しました
でも、何を言ってもダメだったんです

 

家興は、わずかな斜視でパイロットには「不適合」とされた
それでも諦めきれず、医師に相談し、斜視を矯正する難しい手術を受けた



家興の同期:遠藤さん:
当時の海上自衛隊にとって、手術は大きな話題になった
どんな困難があっても、その初志を貫徹する男だったと

(それで家族を残して早く亡くなれば元も子もないのでは?

昭和32年 家興は念願のパイロットになる



昭和33年 鹿児島 鹿屋航空基地に配属され、訓練に励んだ

(まだ現役としてあるんだ/驚

 

10月 市内のスナックで一人の女性客・阿部幸子の美しさに釘付けになった
(ひと目惚れって翔さんの家柄?w




翔さんうなってから



今田:家族のことを口にされなかった

翔さん:
要は不幸を言いたくないんだね
自分だけ戻ってきて、それは祖父の判断だから
それはすごくいい判断だよね 真田丸みたいなね
ただ、オヤジはやっぱり、ずっとそれを引きずったんじゃないかな


幸子は父の経営している店にたまたま遊びに来ていた

翌日、スナック店主から電話がかかってきて
「福地という自衛隊員が幸子を嫁にもらいたい」と言う
(翔さん「早いな」て、似たような経歴では?

幸子:
どこが気に入ったのか、私もフシギなんですけど
向こうが一方的だったんですから
私はなにも興味がなかったですから、彼に対して

突然のことに驚いた幸子の両親も一緒に面会し、幸子の父が家興をすぐに気に入った
安部は特攻隊のある鹿屋基地で整備士をしていた

幸子:
口数の少ない父でしたが、今の男の子はだらしないから
飛行機に乗るぐらいの男じゃないとダメだって言った

昭和34年 結婚

(夫婦になる人って顔が似てるんだよね それでシンパシーを感じるのかもっていつも思う


「徳島航空基地」に着任

♪貴様と俺とは~ て軍歌歌ってるよ! まだ戦争中なの!? やらせ???



潜水艦を探知して攻撃する「哨戒機」の機長を務めた

 

家興は厳しい先輩だったが意外な一面もあった



小賀さん:
普通、部隊では家のこと、私的なことをあまり喋らないんですが、福地先輩は時々ポロっと
「あのなあ、貴様、家族を大事にしろよ ワイフがなあ」ということを言われるので
この人意外に家族思いなんだなということを覚えてますね

昭和36年 翔さん誕生(かあいい! そしてお父さん似!



昭和36年 長女・雅子さん誕生



昭和41年 家興は「千葉・館山航空基地」に配属



新たに導入された「哨戒ヘリ」の機長を任される

昭和41年 12月 四国沖で2ヶ月におよぶ合同訓練が行われた
幸子は3人目の子どもを妊娠し、実家に戻っていた



昭和42年1月16日 徳島沖
家興は訓練を終えて徳島基地に向かっていたが、空中衝突により乗員10人が亡くなった

 

幸子は夕食を食べながらテレビを見ていて速報が入った

幸子:
海上自衛隊って出た時にもうドキっとしました
そしたらすぐ機長・福地家興と出ましたから
これはもう間違いないわけですから
しっかり受け止めないといけない

私が動揺したらお腹にいる子どもが危ない
抑えようと冷静を保とうとしました

(自分の父親の亡くなった事故のニュースを見るって・・・


すぐに捜索が始まり、すぐにでも駆けつけたいが幸子の出産は迫っていた(まるで、祖母の時と同じだ
わずか5歳の家宏が叔父とともに徳島に向かうことになった(この辺は自伝にも書いてある

家宏:パパは泳ぎが上手いから、きっと泳いで帰ってくるよ


「家族控え室」(被害者をテレビで放送するってどんなものか

 

自衛隊員に付き添われて、父の生存を信じて待ち続ける家宏の姿も写されている



家興の遺体が見つかったのは事故から6日後



家宏は身元確認のため検死に立ち会い、母に電話で伝えた

「ママ、間違いなくパパだった」

幸子さんは、当時の家宏の漢字の練習ノートに当時の思いを書き留めていた



“とうとうパパの遺体があがった やっぱりダメだったのだ
 少し淋しがり屋で、子ども思いの温かい人であった
 人間の運命なんて、どこでどう決められているのか、私は知りたい
 元気な子どもを産んで、暖かな春が訪れたら、親子5人でいつもと変わらない
 平凡な生活が待っていたのに・・・”

福地家興 享年37
(これまでの家族の分まで翔さんたちは元気に長生きしないとね


遺体発見の5日後、次男・正興が誕生し、鹿屋で3人の子どもとの生活が始まった



幸子は「子どもたちを立派に育てあげる」と亡き夫に誓った
(こないだ観たドラマ『Woman』みたい

働き始め、どんなに忙しくても子どもたちの学校行事に欠席することはなかった

 

弟・正興さん:
昔は“父親参観”という名目の日があったので、
そういう時はおふくろが来ないのかなと思ってたけれども男親に混じって必ず来るんですよ



長男・家宏のしつけは特に厳しかった



幸子:
お兄ちゃんがしっかりしていれば、弟や妹たちも見習ってそれなりに生きてくれますので
私、いつも言ってたんですけど
「これはパパの手だよ」って 「左の手はママの手だからね」って
「右手で叩かれたら、パパに叩かれたと思いなさい」ってよく叱ってました



“高校時代の哀川さん 元気が有り余っていました”ってナレに笑う翔さん



正興さん:
「学校さぼってどっかに行って、喫茶店でお茶してるとかっていうのは誰が困るんだと
 あなたの担任が怒られるんだぞ そんなことも分からないのか」 そういう怒り方をするんですね



妹・雅子さん:
母と兄は、家で取っ組み合いまでしてたので
それぐらい真正面からぶつかっていったので
それを見て、これはスゴイっていうのはありましたねw

(今の翔さん宅みたいな?w
 どことなく妹さんと奥さんが似ている気もするし やっぱり親近感が関係してると思うな


高校卒業を迎えたある日、神妙な面持ちで母に話があると切り出した



家宏:東京に出て、俳優を目指したい
(最初から俳優志望だったのか 軍関係じゃなくて良かった

母:
人の運命はいつどうなるか分かりません
あなたの人生、思いきり生きなさい(かっけー


翔さん:
あの時のニュースを俺も覚えてるんだよね
俺も見てたんだよね 5歳だったけど




今田:おじいさんも、お父さんも・・・

翔さん:
ちょっと早いね
ただ必死に生きてきたというのもすごく感じるし
それは短命だったとか、長生きしたとかいうことよりも
生きている間にどういう風な思いをして生きてきたかということが大事なことだと思う

(同感


昭和59年 一世風靡セピアのメンバーとして歌手デビュー



芸名・哀川翔にはこんな想いを込めた



その後、ドラマや映画で活躍(Vシネをお忘れなく!

阿部さん:
ビックリしました それが第一印象です
まさか彼(家興)の息子だとは思いもしませんでした
最近よく見ると、よくお父さんに似てますね、風貌が


青沼さん:
台所にいた時に家興さんの声が聞こえた
もちろん亡くなってるのは知ってるんですが
テレビをひょいと見たら、映っていたのが翔さんだったんですね
ちょっとトーンが高いんですけど、本当にそっくりですよね


嶺子さん:
家興ちゃんの中学生の頃に、あの子は顔がそっくりなんですよ
兄の若い時にあまり似てるんでビックリするぐらいに
家宏くんに会うと、家興ちゃん生きてるんだなと思います


家興が最後に所属していた館山航空基地には殉職者の慰霊碑がある

 



「使命をしっかりと果していきたいと思います
 福地2佐には見守っていてもらいたいと思います」


今回の取材で改めて遺品を整理したら古い手紙が出てきた
母:遺品ですが思いもよらない所から出てきまして

 

差出人は家久



“家坊 十分丈夫になって、もう病気をせぬような体になるんですよ
 少年航空兵たちの勇ましい働きと手柄を思い出し
 家坊も早く大きく丈夫になって、立派な日本男児になり
 お国のため、どんなことでも出来るようになりませうね”

(いかにも戦時中の言葉だ こうして軍人がまた1人増える
 遊就館で戦地からの手紙の展示を観たことを思い出した 内容は大体みんなこんな感じ
 書かれたことが全部、検閲されていて、本音を出せなかったってこともあるけれども

幸子:
主人が心の中にぐっと秘めていたものが、そこにあったのかなって思います



1人鹿屋に残った幸子さんは、立派に育った3人の子どもが誇りだという

幸子:
翔の今の活躍を、やっぱり彼(家興)にひと目ふた目見せてあげたかったですね
そして、私を褒めてもらいたい “よくやった よく育てたね”って

(きっと見守り続けているよ
 ここで♪Remember me/くるり って曲、ぐっとくるね


翔さん:
まあ、いろんな事が人生ありますけど、まだまだだなって感じがしますね





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