■ETV特集「青春は戦争の消耗品ではない 映画作家 大林宣彦の遺言」
“「転校生」や「時をかける少女」などで知られる映画作家・大林宣彦。
末期ガンを宣告された今、「戦争」をテーマにした新作に挑戦している。
完成までの日々を追う魂の記録。
大林宣彦、79歳。43作目に選んだテーマは“戦争”。
華麗でポップな映像世界で知られた大林監督が、なぜ今、戦争を描くのか。
そこには軍国少年だった頃の記憶、そして青春を戦場で過ごした父の姿があった。
新作「花筐(はながたみ)」のシナリオには、太平洋戦争へ向かう青年たちの葛藤が書き込まれた。
「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」。
映画人生の集大成に挑む大林監督の1年を追う。”
1本の映画がどう作られていくのか、という過程も分かる1時間番組
これは、ドキュメンタリー番組と称した監督の遺書だ
病魔と闘いながらも、最後の最後まで、好きな映画を撮り続けられる幸せすら伝わる
宮崎駿監督が最後の長編作と言った『風立ちぬ』を撮ったのと同様
この年代には、次世代に戦争の姿を伝える義務がある
とくに、軍靴の音がひたひたと聞こえるような今は
【内容抜粋メモ】
ナレーションは原田知世ちゃん!
“私(原田)の映画デビュー作をはじめ、たくさんの作品を生んだ大林監督
独特の映像世界を築き、世界的にも広く知られています”
・『時をかける少女』(1983)@池袋新文芸坐(2017.9.9)
こないだ観たばかりの感動が再びよみがえる!
【佐賀県 唐津市】
「ステージ4」の肺がん
去年の夏 『花筐(はながたみ)』の撮影が始まろうとしていた
顔合わせは、大林宣彦監督からの思いがけない言葉で始まった
大林:
ガンになりました、私
巷で言うと(余命は)あと半年か、1年だという宣言がありますが
プロデューサーは、妻の大林恭子さん:
監督は「頑張る」と言ってますから
最後まできちんと仕上がるまで、元気でやりきりますから
よろしくお願いします
撮影現場では、いつも先頭に立ち、動き回る監督
そのエネルギッシュな姿は病気になってからも変わらない
43作目となる新作『花筐(はながたみ)』
“なんとしても、この作品だけは仕上げたい”
『花筐(はながたみ)』は、太平洋戦争直前の、ある地方を舞台にした、青春群像劇
台本にもさまざまな戦争の影の描写がある
大林監督は、かつては熱狂的な軍国少年だった
憧れは軍医の父
しかし、父は戦争の記憶を語らなかった
父が青春の時を捧げたものとは一体何だったのか?
大林:
映画を使いながら自身を語り、過去、未来を生きる人たちに伝えていく
敗戦少年として、最後の生き残りの僕らの世代が
語り、作り、伝えなきゃいかんのじゃないかと
(声が随分枯れているな
【2016.8.25 撮影1日目】
総勢90人のスタッフ、キャスト
「よーい、スタート!」の声は張ってる
大林:
はい、やりきりましたよ
午後3時から始めて、深夜の1時ですが
(台本の)6ページ分だからね
この調子なら、40日頑張らなきゃ
【唐津赤十字病院】
撮影後、監督が帰るのは病室
毎朝、診察を受けることが、撮影を許可する病院側の条件だった
大林:(クスリに)よろしくねー
【8.27 撮影3日目】
朝、別の病院で検査を受けた大林監督
セカンドオピニオンで、半年だったのが3ヶ月と言われた
大林:
明日、一度、東京に戻って検査を受けます
今日もまったく元気なんだけど、ちょっとあり得ないことらしいのね
肺がんが全身に転移をして、一般的に言えば“余命3ヶ月”
僕の持ち時間もね、どういうことになるか分からないから現場はこのまま進めたい
出演者、スタッフに「すぐ帰ってくるから」と声をかける
その間、助監督によって撮影は続行(それも責任重大だな
【帝京大学医学部附属病院】
医師:
クレアチニンの数値が跳ね上がっている
(抗がん剤治療の開始は)早いに越したことはない
妻:できたら、現場に戻してあげたい
医師:
もし抗がん剤治療をしないと、一番心配なのは脳転移
万全を期して治療しようとすると(東京の病院)のほうが良い
妻:
もう60年一緒に見てきた監督の性格として
みんなに囲まれているほうが元気
映画しかない人なので
大林:
元気な私が現場にいられないのが、(妻は)可哀相だと思っているんです
その数日後、唐津の海岸に大林監督の姿があった
抗がん剤を服用しながらの撮影続行を選んだ
監督の横には、恭子さんがいつもいる
妻・恭子さんとの出会い
大学で知り合った恭子さんと映画づくりに夢中になった青春の日々
その後、映像センスを買われてCMに進出
海外スターを抜擢したことは大きな話題となった(リンゴまで!
同じ頃に撮影していた自主映画も多くの若者を虜にした
劇場デビュー作は、39歳の時、東宝からオファーが入った
『ハウス』(1977)
80年代からは『転校生』などの尾道3部作をはじめ、大林監督作は一世を風靡
『花筐(はながたみ)』の映画化は、なぜ「今」なのか?
【長年、実現出来なかった企画】
今から80年前に出版された『花筐(はながたみ)』
出版された昭和12年は、日中戦争勃発の年
壇一雄自身も出版記念日に令状を受け取り、大陸に出征していた
大林:
40年前は僕は文学青年だから、放蕩無頼の壇さんの青春文学に憧れていた部分もあるし
40年経つと、また日本が戦争が出来る国になって、あの痛切な気持ちね
あの放蕩無頼っていうのは、自分の命ぐらいは自由にさせてくれよと
戦争に行って、殺され、消耗品になる
そういう人たちの無念の気持ちが、実はこれからまたやって来るという時に
ようやくこの『花筐(はながたみ)』を撮るべしという声が聞こえてきたんでしょうね
原作に近い42年前のシナリオをもとに、新たに撮影台本が完成した
時代設定は昭和12年から、太平洋戦争直前の昭和16年に変更し、より戦争の影を強めた
【開戦前夜の花街のシーン】
当時の台本には女性たちの会話は一切ないが
2016年の台本には、戦地に赴く若者への女性たちの本音が書き加えられた
「6人も子ども産んで、みーんな戦争に連れて行かれちまう 分かるとか!
あんたたちも、みーんな、みんな殺されてしまうとばい!」
【9.25 撮影30日目】
ボランティアの子どもたちを集めての撮影シーンも新しく付け加えられた
大林:
たくさんの人が死んじゃったんだよ
だから、そういうことは二度とやめて、みんな仲良く生きようね
みんなケンカも戦争もしない
美しい彼岸花や、稲のような命にならなきゃいかん
それを描くのが『花筐(はながたみ)』という映画
白塗り顔の兵隊の列を見送る国旗を持った少年少女たちのシーン
大林監督は、これまで敢えてあからさまに戦争反対を描いてはこなかった
大林:
ゆっても伝わらなかったんです
このまま終わるかという空しさの中で
敢えて“意図的ノンポリ”として過ごしたんです
僕らも何もしてこなかったね、ということなんですよ うかつなことにね
戦争の気配や、世の中が流れていく方向をちょっと僕たちが楽観視してた
ということはやっぱりね、うかつであったとしか言いようがなくて
『花筐(はながたみ)』を撮るのも1つの戒めであるわけで
【広島県 尾道市】
大林少年は、この町で戦争の時代を過ごした
今は空き家状態の生家(もったいないほど立派な家
ここに自らの戦争中の記憶を確かめに来た
軍国少年時代
昭和13年 日中戦争翌年の生まれ
父・義彦さんは、監督が1歳の時、軍医として出征
その後、6年間にわたり、中国、東南アジアの激戦地を転戦した
戦争による父親の長き不在
幼い頃のアルバムには、母・千秋さんと映る写真ばかり
大林少年の絵
大林さんが3歳の時に始まった太平洋戦争
大人たちは真珠湾での勝利に沸いていた
大林:
“兵隊さん進め、進め”っていうのは覚えてる
“ナスビ爆弾”ね 真珠湾攻撃
大林:
これが僕の絵の原点 チャーチルとルーズベルトなんだ
ゼロ戦の敵の軍艦への攻撃
(「検」のハンコが押してある 子どもの絵まで検閲していたのか?!
大林:
爆弾三勇士の一人になって、敵の陣地に突っ込もうと真剣に思ってたくらいだから
やっぱりいい軍国少年だったんだね
戦場にいる父の活躍を知りたくて宣彦少年は何通も手紙を送った
1943年 当時5歳の時の手紙(全部カタカナ):
父ちゃん、お元気ですか
父ちゃんが早く帰らんから寂しいです
父ちゃんのところ、どんなとこ?
僕は母ちゃんの言うことをきいて大人しくしとりますから心配はいりません
ジャワの父からの手紙:(こちらもカタカナ 子どもにも読めるようにか
坊やは元気で遊んでいますか?
父ちゃんも元気で国のため働いています
紅葉山の本は面白そうですね
大きな、大きな、戦地までも聞こえるような声で読んで聞かせてください(涙
太平洋戦争の戦況は厳しさを増し、日本軍は太平洋の島々で玉砕を続けていた
軍国少年にも負け戦が感じられるようになった
大林:
「ヤラレター」っていうのは味方でしょう
これは子どもなりの混沌状態でしょうね
むやみやたらと戦争を描いてたんでしょうね
黒いカラスのような戦闘機が、どす黒い血を吐くかのように落下していく
大林:
すごいね、これはすごい
子どもなりに、やっぱりニッポン負けるんだなって感じはどっかにありましたよ
「僕、殺される」って感じ(の絵)だもんね
【昭和20年8月15日 敗戦】(日本人は“敗戦”ではなく“終戦”て呼ぶよね
当時、日本各地に進駐軍がやって来た
尾道にも進駐軍がやって来るという噂が流れたある夜のこと
敗戦の記憶が色濃く残った母と息子の寝室
この部屋での出来事は今でも忘れられない
(戦争の記憶があるから、空き家状態にしてあるのかなあ
大林:
いつもなら布団が敷いてあるけれども、座布団が2枚並んで
スーツを着た母親と僕が座って、なぜかここに短刀が置いてありました
なにか子ども心により切実に、夜が明けたら、
アメリカやイギリスの兵隊さんがやって来て僕らをとって食べるんだと
だからその前に母親は、この短刀で僕を殺して、自分も死ぬんだと そう納得して
父親はまだ戦地から帰ってませんでしたから
“お父さんのお帰りは待てんけどね”と言って、母親と話をした
母と子はただ向き合ったまま、いつの間にか朝を迎えていた
大林:
戦争中のことは、親子といえども、親子だからこそ、探り合わない
探り合えば、きっと傷つき合うんだということを
子ども心に僕たちは真剣に承知していました
そりゃだって、わが子を殺めて、自分も死ぬなんてことを
母が決意していたってことを、どうして子どもの僕が問いかえせますか?
母はいつも僕の命を守ってくれた人であったわけで
戦後から72年
大林:
戦争反対と僕はあんまり言えない
戦争は嫌だとしか言えない “戦争は嫌だ”が正しいね
反対する権利もないんじゃないかと思うわけ かつての軍国少年ですから
みんながしっかりと脅えて欲しい
大変なことになってきてる
過剰に怖がらせているように思われているかもしれませんが
過剰に脅えていたほうが間違いないと僕は思う
それが実際に脅えてきた世代の役割だと思うので、敢えて言いますけどね
脅えなきゃいかん 戦争というものに対して 本当に
【10.3 撮影37日目】
撮影は終盤にさしかかっていた
大林監督は戦争前夜の若者たちの心の葛藤を描く
若者の率直な心情が書き加えられた
「戦争が青春だなんて、まっぴらだ」
それでも、何かが足りない
満島真之介くんを呼んで、
大林:
これがこの映画のテーマみたいなものだから
テーマを直接言うのもどうかなと思ったけど
誰に対する怒りも消えてます
戦争に対する怒りだけが爆発してる
この映画のテーマは、今を生きる俳優にどう伝わっているのか?
満島真之介くん:
沖縄の出身なので、経験はしてないけれども、たぶん僕らの世代が
一番身近に感じてた地域に住んでいたというのもあって
戦争はやっぱり、国のことだったりとか、自分で判断出来ないことはたくさんあるとは思うけれども
でも、壇一雄さんが書いてきた若者が残したいのは
自分自身がしっかりどう生きるかってことで苦悩し、葛藤している人間たちだろうと思って
なので、僕らもそんなに変わらないというか
そのことにちゃんと向き合わなきゃいけないと思う
今のこの僕らの世代が
(やっぱり大林監督は、リアリズムなど関係なく
今も合成などを使って、心象風景を混ぜ込んでいるんだな
撮影現場はシートを張って、周りは森林のようだけど、
映像を見ると、動く絵のような海をバックに話す青年2人
1人(窪塚俊介)は、かつての宣彦少年のように戦争を美化している風だが
もう1人は、この戦争一色の時代にあって、本音をぶつけている
このなんともいえない表情の監督は、何を思っているのだろう?
このセリフにこだわった背景には、父の存在があった
医大で外科の研究をしていた父は
昭和14年 中国に出征 当時30歳
大林:10年くらいここで寝たきりになりましてね
生前、父は戦場での出来事を語らなかったが
この部屋から戦場から父が持ち帰ったアルバムが出てきた
(こうした記録は貴重だ
大林:父親の戦争時代のものは何も知らない
中国に軍医として出征し、日本軍の勢力拡大とともに
マレー半島からジャワへと最前線に赴いた父
この夏、もう1つの手がかりが見つかった 晩年に記した手記
中国南部での激戦が描写されていた
【1940年 中国・南寧】
昭和18年 ニューギニアに向かう船は、アメリカ軍の魚雷攻撃に遭う
日中戦争から太平洋戦争までの6年間、
研究者としてもっとも活躍できた歳月を父は戦場で費やした
大林:
父のことを考えたら、人生丸ごと消耗品だったんだよね
精神の自由もなかった なんという人生だろうね
でも、その中でもきっちり青春があって生きた
親父たちも自らを納得させていったんだろうと
【1945.10.29】
復員した父がようやく尾道に戻ってきた
父の手記の最後はこう締めくくられている
戦後、父は研究室に戻ることなく、町医者として生涯を閉じた
大林監督が医者を継がず、映画の道へ進むべきか悩んで時にこう言った
父:
心に決めた道を進めるのが平和なんだ
お前は平和の世の中を充分に生きなさい
大林:
誰もが自分の思う通りの夢を叶えて、人生を生きることが出来る
そういう時代を、親父は求めていたんだろう
それを私たちに与えてくれようとしてくれたんだと思う
こうして見ると小さな部屋だけど、ここに親父の全人生、全世界
そのすべてが戦争に追われていた
ひとつの人間の生がここにあるんだと思うな
敗戦後まもなく、父が買ってくれたピアノ
中学生の宣彦がショパンになりきって演奏するのを嬉しそうに見つめていた
大林:こんな音になっちゃったか
(ピアノって調律しないともう使えなくなっちゃうの?
【10.7 撮影最終日】
監督に大きな体調の崩れはなかった
(やっぱり西洋医学より、やりたいことを存分にやるほうが体にいいんじゃないかな
Q:どういう思いですか?
今朝、シナリオを書いて、シーンが2つ増えたし、終わってないですよ
なぜかシャワーに入ってたら思いついて、裸のままシナリオを書いたな
【最後の撮影】
本来は唐津の風景で終わるはずだったが、監督のアイデアにより急遽、主人公の独白が付け加えられた
「“君”と呼びかけられて、それを“僕”と受け止めた観客の代弁」
ラストシーンに加えられたのは、今を生きる私たちへの遺言
(この残されたほうの青年に監督が重なっているのかな
セリフ:
お飛び お飛び さあ お飛び
僕は果して飛んだのか 飛ばなかったのか
飛ぶとはどういうことか
今の時代を生きる僕たちにとっても
さあ 君は 飛べるのか この僕は・・・
監督の大きな「OK!」という声で拍手が起きる
(撮影が終わっても、まだまだ長い編集などの作業が山積みでしょう?
唐津から帝京大学医学部附属病院へ戻る
医師:
小さくなっているが、そんなに変わっていない
本当はここから組織を取っていきたいと思っているのですが
これまでの抗がん剤を新しいものに替え、さらに放射線治療も行うことにした
妻:でも、大丈夫ですよね?
大林:言うこと聞きますからw
【東京 成城】
編集は、撮影監督の三本木さんが務める
三本木:
(雪を)ワンカットずつ合成していかないと気持ち悪いので 気が遠くなります
監督はいつも命がけなので、やっぱりそれに応えなきゃいけない
そこに監督が来て握手して「ありがとうね」
大林:
最後の最後に足したいものがあって
絵を1枚入れたいの それを切り貼りしなきゃいけないので
(自分の少年時代の?
生家に残されていた、興奮して描いた真珠湾攻撃
Q:なぜ、この絵を映画に取り込むのでしょう?
大林:
結局、作者自身がかつては加害者である側の軍国少年であったというね
ふと、この絵のことが夢の中に浮かんで
こういう絵を描いてた少年が、大日本帝国の小国民が、こんな映画を創るってことは
それ自体が、この現代の日本という国の得も知れぬ、ワケの分からなさであってね
【2017.4.13 調布】
映像に音楽や効果音をつける作業に入る
治療の副作用からか毛髪が抜け始めて、奥さんがセーターから取ってあげる
恭子:
毎朝、頭をマッサージしているからすごくよく分かる
こうして後ろの髪の毛をすくうと、いっぱい・・・
(早く医学が進んで、生活からストレスもなくなって
“がん”がこの世からなくならないものか
最新治療といわれるものも本当に稚拙なままだ
“ドォーーーーーーーーン”などのおどろおどろしい音が鳴る
大林:戦争の不安が高まるところを不協和音で
(申し訳ないが、けっこう番組冒頭の時点から、
これはパニ障の自分には、劇場で観るのはムリだなと思っていることを告白します/謝
大林:
映画的には、楽しく胸騒ぎがする
それがやがて「戦争が来るのか」という、胸騒ぎにつながると怖くなる
それが映画の効果ですよね あくまでもエンターテイメント
エンターテイメントを観ているうちに、深いことに観客が自ずから気がついてくれる
奥さんから飲みグスリを手渡される
副作用が強いため、飲む決心をするには時間がかかる
(そんなクスリいらない すでにクスリですらない
映画制作にも集中できなくなるだろうし
それでも飲む監督 いかにも不味そう・・・
その後、さっきの冴えた顔が一変
クスリを飲んで10分後、極度の冷えが襲い、イスに座っていることもままならず、ソファに横になる
(これを撮ってもらうのも、映像として残しておきたいという本人の思いからなのかも
奥さん:これ飲むと、いつも元気なくなっちゃうの
(イソバイドシロップ? 絶対飲まない!
メニエール病患者さんも飲むってネットに書いてあるけど、
私が回転性の目眩の時に飲んだ、この世で一番不味いと思ったアレか?
スタッフ:一度、通して観ます
奥さん:大丈夫? 起きて みんなが心配しちゃうから
【4.24 五反田】
スタッフと関係者を集めて「0号試写」が行われた
上映後、拍手が起きる
大林:
(妻と)2人で頑張ってアマチュア映画をずっと作り続けてきました
8ヶ月間、みなさんに「私はガンになりました」と言っている時間に
こうして0号試写が出来ました
本当に今日はありがとうございました
山田さん、ありがとう!
(山田洋次監督!
満島真之介くんとはがっちりとハグしていた
満島:たまらない気持ちになりました
『花筐(はながたみ)』の公開は2017.12.16~
まだ手を加えて、よりよい作品に仕上げていく
【8.3 新潟県 長岡市】
毎年、8月 空襲で亡くなった人々に捧げる長岡花火
(花火にそういう意味合いがあるんだ/驚
異常気象や、不景気でどんどん花火大会もなくなりつつあるけれども
こうした鎮魂の意味での花火は残ってほしい
大林さんも、奥さんも普段、車椅子を使っているのか
・新潟(1994.8.9-10)
・花火には鎮魂の意味が込められている?!
大林:
今生きている僕は、この地球の上で何をやるのか、ということが
辛いけど、苦しいけど、責務を果たす喜びとして
僕のやるべきことは「映画」だなということですかね
やがて、遠い過去となる今を、僕は今として
一生懸命生きるしかないでしょうね
素晴らしい過去になって欲しいと願いつつ、この今を
(横にある本棚には、VHSのビデオがたくさんある
『時をかける少女』『姉妹坂』『理由』全部ありそう!
最後は「I love you.」とサインを送って、ドアから去るまで完璧v
(終始絶やさないあったかい笑み、ひと言ひと言が深い言葉
いつか、角川映画のコメンタリーを聞いた時、
映画の1シーン1シーンにこれほどの想いを込めているものかと感動した
この番組の中でも、カメラに映る深い慈愛の笑みはそのまま
その奥には、こうした父母との戦争体験をずっと抱え込んでいたことが分かった
国内だけでなく、海外でも広く観て欲しい作品だなあ
※インスタにも画像アップしました
“「転校生」や「時をかける少女」などで知られる映画作家・大林宣彦。
末期ガンを宣告された今、「戦争」をテーマにした新作に挑戦している。
完成までの日々を追う魂の記録。
大林宣彦、79歳。43作目に選んだテーマは“戦争”。
華麗でポップな映像世界で知られた大林監督が、なぜ今、戦争を描くのか。
そこには軍国少年だった頃の記憶、そして青春を戦場で過ごした父の姿があった。
新作「花筐(はながたみ)」のシナリオには、太平洋戦争へ向かう青年たちの葛藤が書き込まれた。
「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」。
映画人生の集大成に挑む大林監督の1年を追う。”
1本の映画がどう作られていくのか、という過程も分かる1時間番組
これは、ドキュメンタリー番組と称した監督の遺書だ
病魔と闘いながらも、最後の最後まで、好きな映画を撮り続けられる幸せすら伝わる
宮崎駿監督が最後の長編作と言った『風立ちぬ』を撮ったのと同様
この年代には、次世代に戦争の姿を伝える義務がある
とくに、軍靴の音がひたひたと聞こえるような今は
【内容抜粋メモ】
ナレーションは原田知世ちゃん!
“私(原田)の映画デビュー作をはじめ、たくさんの作品を生んだ大林監督
独特の映像世界を築き、世界的にも広く知られています”
・『時をかける少女』(1983)@池袋新文芸坐(2017.9.9)
こないだ観たばかりの感動が再びよみがえる!
【佐賀県 唐津市】
「ステージ4」の肺がん
去年の夏 『花筐(はながたみ)』の撮影が始まろうとしていた
顔合わせは、大林宣彦監督からの思いがけない言葉で始まった
大林:
ガンになりました、私
巷で言うと(余命は)あと半年か、1年だという宣言がありますが
プロデューサーは、妻の大林恭子さん:
監督は「頑張る」と言ってますから
最後まできちんと仕上がるまで、元気でやりきりますから
よろしくお願いします
撮影現場では、いつも先頭に立ち、動き回る監督
そのエネルギッシュな姿は病気になってからも変わらない
43作目となる新作『花筐(はながたみ)』
“なんとしても、この作品だけは仕上げたい”
『花筐(はながたみ)』は、太平洋戦争直前の、ある地方を舞台にした、青春群像劇
台本にもさまざまな戦争の影の描写がある
大林監督は、かつては熱狂的な軍国少年だった
憧れは軍医の父
しかし、父は戦争の記憶を語らなかった
父が青春の時を捧げたものとは一体何だったのか?
大林:
映画を使いながら自身を語り、過去、未来を生きる人たちに伝えていく
敗戦少年として、最後の生き残りの僕らの世代が
語り、作り、伝えなきゃいかんのじゃないかと
(声が随分枯れているな
【2016.8.25 撮影1日目】
総勢90人のスタッフ、キャスト
「よーい、スタート!」の声は張ってる
大林:
はい、やりきりましたよ
午後3時から始めて、深夜の1時ですが
(台本の)6ページ分だからね
この調子なら、40日頑張らなきゃ
【唐津赤十字病院】
撮影後、監督が帰るのは病室
毎朝、診察を受けることが、撮影を許可する病院側の条件だった
大林:(クスリに)よろしくねー
【8.27 撮影3日目】
朝、別の病院で検査を受けた大林監督
セカンドオピニオンで、半年だったのが3ヶ月と言われた
大林:
明日、一度、東京に戻って検査を受けます
今日もまったく元気なんだけど、ちょっとあり得ないことらしいのね
肺がんが全身に転移をして、一般的に言えば“余命3ヶ月”
僕の持ち時間もね、どういうことになるか分からないから現場はこのまま進めたい
出演者、スタッフに「すぐ帰ってくるから」と声をかける
その間、助監督によって撮影は続行(それも責任重大だな
【帝京大学医学部附属病院】
医師:
クレアチニンの数値が跳ね上がっている
(抗がん剤治療の開始は)早いに越したことはない
妻:できたら、現場に戻してあげたい
医師:
もし抗がん剤治療をしないと、一番心配なのは脳転移
万全を期して治療しようとすると(東京の病院)のほうが良い
妻:
もう60年一緒に見てきた監督の性格として
みんなに囲まれているほうが元気
映画しかない人なので
大林:
元気な私が現場にいられないのが、(妻は)可哀相だと思っているんです
その数日後、唐津の海岸に大林監督の姿があった
抗がん剤を服用しながらの撮影続行を選んだ
監督の横には、恭子さんがいつもいる
妻・恭子さんとの出会い
大学で知り合った恭子さんと映画づくりに夢中になった青春の日々
その後、映像センスを買われてCMに進出
海外スターを抜擢したことは大きな話題となった(リンゴまで!
同じ頃に撮影していた自主映画も多くの若者を虜にした
劇場デビュー作は、39歳の時、東宝からオファーが入った
『ハウス』(1977)
80年代からは『転校生』などの尾道3部作をはじめ、大林監督作は一世を風靡
『花筐(はながたみ)』の映画化は、なぜ「今」なのか?
【長年、実現出来なかった企画】
今から80年前に出版された『花筐(はながたみ)』
出版された昭和12年は、日中戦争勃発の年
壇一雄自身も出版記念日に令状を受け取り、大陸に出征していた
大林:
40年前は僕は文学青年だから、放蕩無頼の壇さんの青春文学に憧れていた部分もあるし
40年経つと、また日本が戦争が出来る国になって、あの痛切な気持ちね
あの放蕩無頼っていうのは、自分の命ぐらいは自由にさせてくれよと
戦争に行って、殺され、消耗品になる
そういう人たちの無念の気持ちが、実はこれからまたやって来るという時に
ようやくこの『花筐(はながたみ)』を撮るべしという声が聞こえてきたんでしょうね
原作に近い42年前のシナリオをもとに、新たに撮影台本が完成した
時代設定は昭和12年から、太平洋戦争直前の昭和16年に変更し、より戦争の影を強めた
【開戦前夜の花街のシーン】
当時の台本には女性たちの会話は一切ないが
2016年の台本には、戦地に赴く若者への女性たちの本音が書き加えられた
「6人も子ども産んで、みーんな戦争に連れて行かれちまう 分かるとか!
あんたたちも、みーんな、みんな殺されてしまうとばい!」
【9.25 撮影30日目】
ボランティアの子どもたちを集めての撮影シーンも新しく付け加えられた
大林:
たくさんの人が死んじゃったんだよ
だから、そういうことは二度とやめて、みんな仲良く生きようね
みんなケンカも戦争もしない
美しい彼岸花や、稲のような命にならなきゃいかん
それを描くのが『花筐(はながたみ)』という映画
白塗り顔の兵隊の列を見送る国旗を持った少年少女たちのシーン
大林監督は、これまで敢えてあからさまに戦争反対を描いてはこなかった
大林:
ゆっても伝わらなかったんです
このまま終わるかという空しさの中で
敢えて“意図的ノンポリ”として過ごしたんです
僕らも何もしてこなかったね、ということなんですよ うかつなことにね
戦争の気配や、世の中が流れていく方向をちょっと僕たちが楽観視してた
ということはやっぱりね、うかつであったとしか言いようがなくて
『花筐(はながたみ)』を撮るのも1つの戒めであるわけで
【広島県 尾道市】
大林少年は、この町で戦争の時代を過ごした
今は空き家状態の生家(もったいないほど立派な家
ここに自らの戦争中の記憶を確かめに来た
軍国少年時代
昭和13年 日中戦争翌年の生まれ
父・義彦さんは、監督が1歳の時、軍医として出征
その後、6年間にわたり、中国、東南アジアの激戦地を転戦した
戦争による父親の長き不在
幼い頃のアルバムには、母・千秋さんと映る写真ばかり
大林少年の絵
大林さんが3歳の時に始まった太平洋戦争
大人たちは真珠湾での勝利に沸いていた
大林:
“兵隊さん進め、進め”っていうのは覚えてる
“ナスビ爆弾”ね 真珠湾攻撃
大林:
これが僕の絵の原点 チャーチルとルーズベルトなんだ
ゼロ戦の敵の軍艦への攻撃
(「検」のハンコが押してある 子どもの絵まで検閲していたのか?!
大林:
爆弾三勇士の一人になって、敵の陣地に突っ込もうと真剣に思ってたくらいだから
やっぱりいい軍国少年だったんだね
戦場にいる父の活躍を知りたくて宣彦少年は何通も手紙を送った
1943年 当時5歳の時の手紙(全部カタカナ):
父ちゃん、お元気ですか
父ちゃんが早く帰らんから寂しいです
父ちゃんのところ、どんなとこ?
僕は母ちゃんの言うことをきいて大人しくしとりますから心配はいりません
ジャワの父からの手紙:(こちらもカタカナ 子どもにも読めるようにか
坊やは元気で遊んでいますか?
父ちゃんも元気で国のため働いています
紅葉山の本は面白そうですね
大きな、大きな、戦地までも聞こえるような声で読んで聞かせてください(涙
太平洋戦争の戦況は厳しさを増し、日本軍は太平洋の島々で玉砕を続けていた
軍国少年にも負け戦が感じられるようになった
大林:
「ヤラレター」っていうのは味方でしょう
これは子どもなりの混沌状態でしょうね
むやみやたらと戦争を描いてたんでしょうね
黒いカラスのような戦闘機が、どす黒い血を吐くかのように落下していく
大林:
すごいね、これはすごい
子どもなりに、やっぱりニッポン負けるんだなって感じはどっかにありましたよ
「僕、殺される」って感じ(の絵)だもんね
【昭和20年8月15日 敗戦】(日本人は“敗戦”ではなく“終戦”て呼ぶよね
当時、日本各地に進駐軍がやって来た
尾道にも進駐軍がやって来るという噂が流れたある夜のこと
敗戦の記憶が色濃く残った母と息子の寝室
この部屋での出来事は今でも忘れられない
(戦争の記憶があるから、空き家状態にしてあるのかなあ
大林:
いつもなら布団が敷いてあるけれども、座布団が2枚並んで
スーツを着た母親と僕が座って、なぜかここに短刀が置いてありました
なにか子ども心により切実に、夜が明けたら、
アメリカやイギリスの兵隊さんがやって来て僕らをとって食べるんだと
だからその前に母親は、この短刀で僕を殺して、自分も死ぬんだと そう納得して
父親はまだ戦地から帰ってませんでしたから
“お父さんのお帰りは待てんけどね”と言って、母親と話をした
母と子はただ向き合ったまま、いつの間にか朝を迎えていた
大林:
戦争中のことは、親子といえども、親子だからこそ、探り合わない
探り合えば、きっと傷つき合うんだということを
子ども心に僕たちは真剣に承知していました
そりゃだって、わが子を殺めて、自分も死ぬなんてことを
母が決意していたってことを、どうして子どもの僕が問いかえせますか?
母はいつも僕の命を守ってくれた人であったわけで
戦後から72年
大林:
戦争反対と僕はあんまり言えない
戦争は嫌だとしか言えない “戦争は嫌だ”が正しいね
反対する権利もないんじゃないかと思うわけ かつての軍国少年ですから
みんながしっかりと脅えて欲しい
大変なことになってきてる
過剰に怖がらせているように思われているかもしれませんが
過剰に脅えていたほうが間違いないと僕は思う
それが実際に脅えてきた世代の役割だと思うので、敢えて言いますけどね
脅えなきゃいかん 戦争というものに対して 本当に
【10.3 撮影37日目】
撮影は終盤にさしかかっていた
大林監督は戦争前夜の若者たちの心の葛藤を描く
若者の率直な心情が書き加えられた
「戦争が青春だなんて、まっぴらだ」
それでも、何かが足りない
満島真之介くんを呼んで、
大林:
これがこの映画のテーマみたいなものだから
テーマを直接言うのもどうかなと思ったけど
誰に対する怒りも消えてます
戦争に対する怒りだけが爆発してる
この映画のテーマは、今を生きる俳優にどう伝わっているのか?
満島真之介くん:
沖縄の出身なので、経験はしてないけれども、たぶん僕らの世代が
一番身近に感じてた地域に住んでいたというのもあって
戦争はやっぱり、国のことだったりとか、自分で判断出来ないことはたくさんあるとは思うけれども
でも、壇一雄さんが書いてきた若者が残したいのは
自分自身がしっかりどう生きるかってことで苦悩し、葛藤している人間たちだろうと思って
なので、僕らもそんなに変わらないというか
そのことにちゃんと向き合わなきゃいけないと思う
今のこの僕らの世代が
(やっぱり大林監督は、リアリズムなど関係なく
今も合成などを使って、心象風景を混ぜ込んでいるんだな
撮影現場はシートを張って、周りは森林のようだけど、
映像を見ると、動く絵のような海をバックに話す青年2人
1人(窪塚俊介)は、かつての宣彦少年のように戦争を美化している風だが
もう1人は、この戦争一色の時代にあって、本音をぶつけている
このなんともいえない表情の監督は、何を思っているのだろう?
このセリフにこだわった背景には、父の存在があった
医大で外科の研究をしていた父は
昭和14年 中国に出征 当時30歳
大林:10年くらいここで寝たきりになりましてね
生前、父は戦場での出来事を語らなかったが
この部屋から戦場から父が持ち帰ったアルバムが出てきた
(こうした記録は貴重だ
大林:父親の戦争時代のものは何も知らない
中国に軍医として出征し、日本軍の勢力拡大とともに
マレー半島からジャワへと最前線に赴いた父
この夏、もう1つの手がかりが見つかった 晩年に記した手記
中国南部での激戦が描写されていた
【1940年 中国・南寧】
昭和18年 ニューギニアに向かう船は、アメリカ軍の魚雷攻撃に遭う
日中戦争から太平洋戦争までの6年間、
研究者としてもっとも活躍できた歳月を父は戦場で費やした
大林:
父のことを考えたら、人生丸ごと消耗品だったんだよね
精神の自由もなかった なんという人生だろうね
でも、その中でもきっちり青春があって生きた
親父たちも自らを納得させていったんだろうと
【1945.10.29】
復員した父がようやく尾道に戻ってきた
父の手記の最後はこう締めくくられている
戦後、父は研究室に戻ることなく、町医者として生涯を閉じた
大林監督が医者を継がず、映画の道へ進むべきか悩んで時にこう言った
父:
心に決めた道を進めるのが平和なんだ
お前は平和の世の中を充分に生きなさい
大林:
誰もが自分の思う通りの夢を叶えて、人生を生きることが出来る
そういう時代を、親父は求めていたんだろう
それを私たちに与えてくれようとしてくれたんだと思う
こうして見ると小さな部屋だけど、ここに親父の全人生、全世界
そのすべてが戦争に追われていた
ひとつの人間の生がここにあるんだと思うな
敗戦後まもなく、父が買ってくれたピアノ
中学生の宣彦がショパンになりきって演奏するのを嬉しそうに見つめていた
大林:こんな音になっちゃったか
(ピアノって調律しないともう使えなくなっちゃうの?
【10.7 撮影最終日】
監督に大きな体調の崩れはなかった
(やっぱり西洋医学より、やりたいことを存分にやるほうが体にいいんじゃないかな
Q:どういう思いですか?
今朝、シナリオを書いて、シーンが2つ増えたし、終わってないですよ
なぜかシャワーに入ってたら思いついて、裸のままシナリオを書いたな
【最後の撮影】
本来は唐津の風景で終わるはずだったが、監督のアイデアにより急遽、主人公の独白が付け加えられた
「“君”と呼びかけられて、それを“僕”と受け止めた観客の代弁」
ラストシーンに加えられたのは、今を生きる私たちへの遺言
(この残されたほうの青年に監督が重なっているのかな
セリフ:
お飛び お飛び さあ お飛び
僕は果して飛んだのか 飛ばなかったのか
飛ぶとはどういうことか
今の時代を生きる僕たちにとっても
さあ 君は 飛べるのか この僕は・・・
監督の大きな「OK!」という声で拍手が起きる
(撮影が終わっても、まだまだ長い編集などの作業が山積みでしょう?
唐津から帝京大学医学部附属病院へ戻る
医師:
小さくなっているが、そんなに変わっていない
本当はここから組織を取っていきたいと思っているのですが
これまでの抗がん剤を新しいものに替え、さらに放射線治療も行うことにした
妻:でも、大丈夫ですよね?
大林:言うこと聞きますからw
【東京 成城】
編集は、撮影監督の三本木さんが務める
三本木:
(雪を)ワンカットずつ合成していかないと気持ち悪いので 気が遠くなります
監督はいつも命がけなので、やっぱりそれに応えなきゃいけない
そこに監督が来て握手して「ありがとうね」
大林:
最後の最後に足したいものがあって
絵を1枚入れたいの それを切り貼りしなきゃいけないので
(自分の少年時代の?
生家に残されていた、興奮して描いた真珠湾攻撃
Q:なぜ、この絵を映画に取り込むのでしょう?
大林:
結局、作者自身がかつては加害者である側の軍国少年であったというね
ふと、この絵のことが夢の中に浮かんで
こういう絵を描いてた少年が、大日本帝国の小国民が、こんな映画を創るってことは
それ自体が、この現代の日本という国の得も知れぬ、ワケの分からなさであってね
【2017.4.13 調布】
映像に音楽や効果音をつける作業に入る
治療の副作用からか毛髪が抜け始めて、奥さんがセーターから取ってあげる
恭子:
毎朝、頭をマッサージしているからすごくよく分かる
こうして後ろの髪の毛をすくうと、いっぱい・・・
(早く医学が進んで、生活からストレスもなくなって
“がん”がこの世からなくならないものか
最新治療といわれるものも本当に稚拙なままだ
“ドォーーーーーーーーン”などのおどろおどろしい音が鳴る
大林:戦争の不安が高まるところを不協和音で
(申し訳ないが、けっこう番組冒頭の時点から、
これはパニ障の自分には、劇場で観るのはムリだなと思っていることを告白します/謝
大林:
映画的には、楽しく胸騒ぎがする
それがやがて「戦争が来るのか」という、胸騒ぎにつながると怖くなる
それが映画の効果ですよね あくまでもエンターテイメント
エンターテイメントを観ているうちに、深いことに観客が自ずから気がついてくれる
奥さんから飲みグスリを手渡される
副作用が強いため、飲む決心をするには時間がかかる
(そんなクスリいらない すでにクスリですらない
映画制作にも集中できなくなるだろうし
それでも飲む監督 いかにも不味そう・・・
その後、さっきの冴えた顔が一変
クスリを飲んで10分後、極度の冷えが襲い、イスに座っていることもままならず、ソファに横になる
(これを撮ってもらうのも、映像として残しておきたいという本人の思いからなのかも
奥さん:これ飲むと、いつも元気なくなっちゃうの
(イソバイドシロップ? 絶対飲まない!
メニエール病患者さんも飲むってネットに書いてあるけど、
私が回転性の目眩の時に飲んだ、この世で一番不味いと思ったアレか?
スタッフ:一度、通して観ます
奥さん:大丈夫? 起きて みんなが心配しちゃうから
【4.24 五反田】
スタッフと関係者を集めて「0号試写」が行われた
上映後、拍手が起きる
大林:
(妻と)2人で頑張ってアマチュア映画をずっと作り続けてきました
8ヶ月間、みなさんに「私はガンになりました」と言っている時間に
こうして0号試写が出来ました
本当に今日はありがとうございました
山田さん、ありがとう!
(山田洋次監督!
満島真之介くんとはがっちりとハグしていた
満島:たまらない気持ちになりました
『花筐(はながたみ)』の公開は2017.12.16~
まだ手を加えて、よりよい作品に仕上げていく
【8.3 新潟県 長岡市】
毎年、8月 空襲で亡くなった人々に捧げる長岡花火
(花火にそういう意味合いがあるんだ/驚
異常気象や、不景気でどんどん花火大会もなくなりつつあるけれども
こうした鎮魂の意味での花火は残ってほしい
大林さんも、奥さんも普段、車椅子を使っているのか
・新潟(1994.8.9-10)
・花火には鎮魂の意味が込められている?!
大林:
今生きている僕は、この地球の上で何をやるのか、ということが
辛いけど、苦しいけど、責務を果たす喜びとして
僕のやるべきことは「映画」だなということですかね
やがて、遠い過去となる今を、僕は今として
一生懸命生きるしかないでしょうね
素晴らしい過去になって欲しいと願いつつ、この今を
(横にある本棚には、VHSのビデオがたくさんある
『時をかける少女』『姉妹坂』『理由』全部ありそう!
最後は「I love you.」とサインを送って、ドアから去るまで完璧v
(終始絶やさないあったかい笑み、ひと言ひと言が深い言葉
いつか、角川映画のコメンタリーを聞いた時、
映画の1シーン1シーンにこれほどの想いを込めているものかと感動した
この番組の中でも、カメラに映る深い慈愛の笑みはそのまま
その奥には、こうした父母との戦争体験をずっと抱え込んでいたことが分かった
国内だけでなく、海外でも広く観て欲しい作品だなあ
※インスタにも画像アップしました