
修造さん戻ってるw ちょっと息があがってない?
修造さん:
ずっと見てきて、オズモンド選手は、ずっとプレッシャーに負けてきたが
ここであんな演技を出したことに本当におめでとうと心の底から言いたい
<宮原知子のリピート>
改めてノーミス、完璧な演技だった 感動
修造さん、インタビューに行ってたのか


修:
ショートもフリーも自己ベスト このオリンピックで自分を超えておめでとうと言いたい
ありがとうございます やれることはすべて出来たと思うので
ここまできたらメダルは取りたいと終わった瞬間はちょっと思ったんですけど、
やっぱりまだまだ足りないところもたくさん見えましたし
まだまだ出来ることがあると感じることができました
(取材陣に話さないことも修造さんには話せるってこともあるのね 普段の人間関係って大事
修:だってガッツポーズを練習してた人が、心の底から出たじゃないですか!
(恥ずかしそうに笑うサットン)もう2回、3回ぐらいやっちゃったので、ヤッターって気持ちでした
修:どんな気持ち?
一番不安だったジャンプも着氷することが出来て、せっかくここまで来て
しっかり演技が出来たので、ほんとに今回は充実してたなと思いました
修:
ハッキリ言いますよ 怪我でこの舞台に立てない可能性も大きかったはず
先生もいて、今自分が立ててる この強さどう思います?
まだまだ強くなったと思うんですけど、もっと強くならないといけないと思うので
でも今後の自分のスケートをもっと良くしていけるいいチャンスになりました
修:
こんな所に来てまで、ほんと一生懸命だとは思うけど、でも努力が絶対裏切らないってみんな分かった
教えてもらいました その努力をどう思われます?
今回、ケガをして、ここまで戻るのに大変な時期もあったんですけど
やっぱり頑張ることで自分を信じることが出来るってことを改めて感じることができたので
今シーズン頑張ってきて良かったなと思いました
修:
先生と付き合いながら、正直ずっと不器用だと言われながら応援し続けてくれたコーチにどんな思いですか?
(少し考えて)今日の演技で少しでも先生にありがとうございますの気持ちを伝えられたかなとは思うんですけど
まだまだ伝えきれない部分のほうが多いので、これからもっと一緒にいる時間が長いと思うが
とりあえず五輪に来ることができて本当に良かったです
修:悔しさもあると思うけれども、僕は言いたい おめでとう! 出し切った ありがとうございます
<坂本花織のリピート>
修造さんインタビュー:(本人が歩いている時点からもう喋りかけてるw


修:いやあ、もうこのプレッシャーの中で僕は素晴らしいと思った
ノーミス出来なかったのはすごく悔しかったが、この場で自分が出来るかぎりのことはやろうと思って
全部出し切ったので、すごい満足です
修:自分超えも大事にしてた 笑顔も大事にしてた それが僕は出来ているように見えた
まあ、けっこうそこは頑張りました
修:団体のあのフリーから見れば、とんでもなく頑張ったじゃないですか!
団体のフリーはほんとに悔しかったので、次はしっかり笑顔で終われるようにしようと思って
今までやってきたので、まあ、団体よりは良かったかなとは思います
修:これだけ切り替えられたのは、何が一番きっかけだった?
いつも先生が厳しく指導してくださるお蔭で、けっこういつも自分に甘いので
その厳しさが上へ上へもっていってくれたのかなって思います
修:最後に、この初めてのオリンピックでカオリさんは何を一番得ました?
その特別な緊張感を、この場で初めて経験できたので
それが今後の試合にも活きてくるかなって思います
(彼女も次のオリンピックを絶対狙っているはず
修造さん:僕はフィギュアスケートをずーっと追わせてもらって幸せだった(織田くんの肩を叩く
織田:
宮原さんはケガを越えて素晴らしい演技を見せてくれた
これは宮原さんの、観ていたみんなの一生の宝物の演技だったと思います
修:ザギトワ選手という新星が現れて「オリンピックのために来た」て こういう運命もあるんですね
織田:去年までジュニアの選手ですからね ここまでこれたのはスゴイ勢いがあったんだと思います
時間が押し迫っているのに、急に織田くんに振る修造さん
修:今日の2人にひと言うとしたら?
織田:もうサイコーの演技でした よく頑張った!
修:よく頑張った 僕らも続いていくよー 燃えろ冬魂 届け、勇気~!

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“今季シニアデビューした新星は、シーズン無敗のまま世界の頂点に立った。
また、ロシアの組織的ドーピング問題で今大会生まれた「OAR」選手として金メダル1号となった。
98年長野五輪のタラ・リピンスキー(米国)の15歳8カ月に次ぐ史上2番目に若い15歳9カ月の戴冠。
OAR選手として初の金メダルを手にし「私たちロシアからの選手が優勝するのをみんなが待っていた。
凄く緊張したけれど、金メダルが獲れてうれしい」と笑顔を見せた。
団体戦のフリー演技後には、14年ソチ五輪米国代表のワグナーから
「前半は時間をつぶして、後半はジャンプしているだけ。それは演技じゃない」とツイッターで批判された。
優勝が決まった直後には、国際スケート連盟が偏りのないプログラム構成を推奨するため、
後半ジャンプの本数を制限するルール改正に動いていることが判明。
ロシア中部イジェフスク出身。12歳で親元を離れてモスクワに移り、メドベージェワも指導するトゥトベリーゼ・コーチの下で成長した。
昨季の世界ジュニアを制し、シニア転向1年目の今季は主要大会無敗。新潟での合宿を経て五輪に臨んだ。
寿司が好物で「将来の夢は日本食レストラン開店」という。
2連覇した羽生結弦についても「私のお手本。ケガがあってもベストの演技をした彼を尊敬している」とリスペクトも惜しまない。”

“「こんなことは今までなかった。この気持ちは言葉に出来ない」
勝ったのは、同門の後輩ザギトワだった。今季シニアに上がったばかりの15歳は、
スケートがうまくなりたい一心で、山岳部のイジェフスクから1200キロ離れたモスクワへ。
エリート養成所「サンボ70」で、鬼コーチで知られるトゥトベリーゼの指導をうける。
先輩メドベージェワの背中を追った。彼女もまた、経験したことのない緊張に襲われていた。
2人のフリーは国際大会では珍しい同点だった。技術点はザギトワ、表現力を表す演技構成点はメドベージェワがトップだった。
勝負の鍵は得点が1・1倍になる後半のジャンプ。
メドベージェワは連続技を冒頭に跳んだが、後半にそれを跳んでいれば得点を上積みできたかもしれない。
だが「それは、たられば。私には分かりません」と笑った。
昨年11月に右中足骨骨折を負い、約2カ月練習を積めなかったが、それも「今日の結果とは関係ない」と言い訳にしなかった。”

“元全日本2位の中庭健介氏「ノーミスの宮原さんとオズモンド選手に差を生んだのは、GOE(出来栄え点)の部分です。
ジャンプの質はプログラムコンポーネンツ(演技構成点)にも影響を与えます。それらの小さな積み重ねが8.64点になりました。」
「ジュニア世代からの練習環境、生活環境、コーチング、サポート組織の違いだと思います。
ロシアの練習拠点には、学校まであり、フィギュア選手の育成に必要なものすべてが、一箇所に揃い、
練習に集中、専念できる環境が整っていると聞きます。
2010年頃からソチ五輪を成功させるため、海外に流出していたコーチを呼び戻すなどしてきた国家的プロジェクトの成功が、
今回の平昌五輪へとつながっていると思います」
ロシアには1970年に創立された「サンボ70」というナショナルトレーニングセンターがあり、
その中に、2003年に設立された専用スケートリングを備えたフィギュア専門施設がある。
ザギトワ、メドベージェワも、この施設から誕生した。
施設内には、フィジカルのトレーニング施設は、当然のこと、ダンスやバレエのスタジオや、医務設備や陸上練習用の場所まであるという。
そして、キーマンが、“鬼コーチ”としてのエピソードが漏れ伝わってくるエテリ・トゥトベリーゼ女史(43)だ。
ソチ五輪で、キャンドルスピンが有名になり団体金メダルを獲得したユリア・リプニツカヤ、メドベージェワ、ザギトワらは、
すべて彼女の門下生である。
中庭氏は、その練習風景を見学している。
1つのペア組に様々な分野のスペシャリストがついていて、そのスタッフ人数の多さにびっくりしたと言う。
「ロシアのトゥトベリーゼコーチが具体的にどんな指導を行っているかは、ベールに包まれています。
私たちも知りたいですが…なかなかわかりません。
ただ今回ペアの練習を見てわかったのは、あらゆる分野の専門家を集めてチームを組み、選手をサポートするという組織力です。
ロシアでは、ソチ五輪の成功でフィギュアをする子供達が増え、多くの選手が8歳から3回転を跳ぶとも言われています。
加えて国内競争の激しさがあります。ザギトワが7つのジャンプを後半に集めるプログラムにしたのは、
そうしなければメドベージェワに勝てないことがわかっていたからでしょう。」”

“両者の採点を巡って海外では早くも議論が巻き起こっている。
ワグナーは、「技術的には完璧で、その競争心には敬意を表します。でもこれはない。プログラムではない。
彼女の前半は空っぽで、後半がカオスになった。これは演技ではない。
採点の仕組みがそうさせていて、彼女のことを責めることはできないが、私は楽しめなかった。これはフィギュアスケートではないと思う」
英国のBBCも「審判の得点結果が発表された後、観客の一部からはブーイングが起きた」とも伝えた。
演技構成点では、メドベージェワは「音楽の解釈」の部門で5人が10点満点をつける9.89点の高得点を稼ぐなどして77.47点をマークしたが、
ザギトワも75.03点と大健闘。本来、ザギトワを上回っているはずの芸術性、表現性の部分で、それほど大きなリードを奪うことができなかった。”
(技か芸術かの論争は延々と続くのかもな

“この話自体が本当なのか。歴代の五輪金メダリストを遡って調べた。
衣装の色が確認できたので、最も古かったのは1960年スコバレー五輪のキャロル・ヘイス(アメリカ)で、衣装は赤だった。
続く1964年インスブルック五輪のショーケ・ディクストラ(オランダ)の衣装は確認できなかったが、
1968年グルノーブル五輪のペギー・フレミング(アメリカ)は鮮やかな黄緑。
1972年、札幌五輪のベアトリクス・シューバ(オーストリア)で、初めて青の衣装が出てきた。
しかし1976年インスブルック五輪のドロシー・ハミル(アメリカ)の衣装はピンクと再び暖色系に。
以後、1980年レークプラシッド五輪のアネット・ペッチ(東ドイツ)はピンク、1984年サラエボ五輪のカタリナ・ヴィット(東ドイツ)は赤紫。
1988年カルガリー五輪でも再びカタリナ・ヴィットが頂点に立ったが、この時のロングプログラム(フリー)の衣装は赤と黒のツートン。
ここまで暖色系ばかりで、青系の衣装はほぼない。
流れが変わったのは1998年の長野五輪。金メダルに輝いたタラ・リピンスキー(アメリカ)がフリーで着たのは青の衣装だった。
以後、2002年ソルトレイクシティ五輪の金メダリスト、サラ・ヒューズ(アメリカ)の衣装は薄紫で、青系。
そして2006年、トリノ五輪で日本の荒川静香が金メダル。「トゥーランドット」が流れる中、まとっていたのは青と水色の衣装だった。
荒川は当時のコーチ、ニコライ・モロゾフ氏から長年、青い衣装の選手が金メダルを獲得していると聞き、
だったらとゲンを担いで青の衣装にし、トリノ五輪で金に輝いた。
「青のジンクス」が広まった一つの理由には、この荒川のエピソードがありそうだ。
(モロゾフさんかい!w
ジンクスは続き、2010年のバンクーバー五輪ではキム・ヨナが青い衣装で金メダルを獲得した。
そして前回2014年のソチ五輪、金メダルに輝いたアデリナ・ソトニコワの衣装は、少し青みがかかったグレーだ。
ソトニコワの衣装をグレーと考えればジンクスは途切れたが、ブルーグレーと考えればこれで5大会連続で青系の衣装が金メダルを取ったことになる。 なんとも微妙だ。
選手たちは衣装でゲンを担ぐものか聞くと、広報担当は
「ご本人の意見が強い方もいれば、コーチの意見が強い方、ご親族の意見が強い方と様々なので、一概には言えません。
色にこだわりに強い方もいらっしゃれば、形や重さを気にする方もいます」と回答。人それぞれのようだ。”
(アスリートにげんをかつぐ話はよく聞くもんね 結果、あんまり関係なかったね
