■「石田三成 “悪役”伝説の真実」@歴史秘話ヒストリア
NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』に出てくるやり手の石田さんてどんな人なのか気になってチェックしてみた。
【内容抜粋メモ】
石田三成は、戦乱が続く北近江で、貧しい地侍の子として生まれた。
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父は下級侍の「足軽」。鉄砲が主流になった戦の場で、真っ先に飛び出す弾除け役。
報酬も少ないから、戦地の村々で略奪をしなくては食べていけないほどだった。
父は幼い三成を寺に預けた。当時、寺は子どもたちの学問修行の場だった。
「近江商人」という言葉があるように、商業が盛んな土地柄ゆえ、
そろばんに当たるような算術も早く身につけて、それが後に役に立つこととなる。
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秀吉の作ったルールによって、長浜城下では税金を免除され、多くの商人が集まった。
三成は、自分と同じ低い身分から大名にまで出世した秀吉を目標にしていたが、
当時は仕官するキッカケすらない状況だった。
●3杯のお茶
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当時、鷹狩りと称して領内を回り、優秀な人材を探していた秀吉が三成の寺にやって来た。三成15歳。
「誰かお茶をくれ」という秀吉に、いち早く名乗り出した三成は、どうしたら喜んでもらえるか必死で考えた。
そして1杯目は、ノドが乾いた秀吉のために、少しぬるめで多めのお茶を、2杯目は少し熱めに出した。
秀吉は、さて3杯目はどうするかと試したところ、これまでとはまったく違う熱々のお茶を出した。
この機転が買われて、三成は「近侍(主君のそばに仕える秘書や世話係にあたる)」として召し抱えられることとなる。
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お茶をいれた時の井戸が残っている@大原観音寺
その後、足軽大将に相当する三百石を与えられるほど出世する。
三成は、算術にも長けていたため、秀吉から「500石与える」と言われた時、それを辞退し「葦の生える土地」をもらう。
当時、タダでとり放題だった葦に税をかけ、儲けた大金で軍備を立派に整えたという逸話もある。
「賤ヶ岳の戦い」
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秀吉と柴田勝家との戦。屏風には「賤ヶ岳の七本槍」として、当時有名な武将が描かれているが三成の姿はない。
だが、三成はこの戦で大名に出世している。
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当時、僧侶は全国を行脚する際、兵からなにも疑いを持たれていなかったのを利用して、三成は敵陣の情報を逐一集めていた。
秀吉が別の敵を攻めている間に、柴田軍が賤ヶ岳に動いたのをいち早く伝えただけでなく、
夜は行軍できないため、沿道の村人に命じて松明を灯させたため、瞬く間に賤ヶ岳に戻り、見事勝利する。
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三成は陰の功労者として、秀吉から高く評価された。
●史上最大の水攻め
秀吉が小田原の北条氏を攻めた際には、三成は戦の表舞台に立った。
秀吉が昔「水攻め」で備中高松城を落としたことを模して、三成にも水攻めを命じる。
それには、多くの人夫、資材の調達が必要。しかも、今回は平坦な関東平野。
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関東は当時、片田舎のため、人夫を集めるのは至難の業。
三成は、土地の高低差を調査させ、破格の賃金を出すとお触れを出し、噂はすぐに広まって、
遠くからも人夫が集まり、挙句の果ては、城に籠城していた敵方まで金目当てに手伝うようになったw
その数10万人。わずか数日で堤防を築き、利根川、荒川の水を利用して、忍城を見事に水攻めにしてみせた。
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それは「石田堤」として、今も残っているほど。
1ヶ月後、小田原城は落城、その後、忍城も降伏したことで、秀吉の天下統一は成し遂げられた。
三成は32歳で北近江19万石の大名に出世する。
●津軽為信
後世では、とても悪役呼ばわりされた三成だが、実際は違っていたという逸話が残っている。
秀吉に謀反の疑いをかけられた津軽為信が、秀吉から信頼されている三成を頼ったところ、
長男の元服に立会い「烏帽子親」となることで、疑いが晴れた。
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●破格の出世を辞退したワケとは?
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北近江19万石→筑前筑後33万石を与えると言われた時、三成は辞退した。
虎視眈々と天下取りを狙っていた伊達政宗、徳川家康らは、三成のやり方に不満を持ち、巻き返しの機会を窺っていたため、
三成は出世より、国づくりの完成を優先した。
★三成の行った政策
「太閤検地」これまで各大名が独自に行っていたのを、全国統一のルールに変え、田畑を測量し、持ち主を明らかにし、税をキチンととりたてた。
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「惣無事令(そうぶじれい)」大名同士の戦を禁じた法令。
「刀狩令」百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策。
「喧嘩停止令(けんかちょうじれい)」山野や用水などでの争いが弓や槍、鉄砲などの武器を用いた闘争に発展した場合はその村ぐるみで処刑される。
三成が行っていた政治は、乱世に別れを告げ、安心して暮らせる秩序ある社会を目指していた。
秀吉死去(享年62歳)
家康は、有力武将と縁組し、従わない大名は力でねじ伏せた。三成も襲撃された。
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「関が原の戦い」
三成は味方の裏切りにあい敗北。斬首される(享年41歳)。
戦後、東軍の武士が佐和山城に入り、三成のお宝を盗もうと期待したが、
これが権力ある大名かと驚くほど質素な暮らしぶりだったという。
徳川家康が江戸幕府を開く。
家康は、宿敵・三成らの政策を引き継ぎ、後の長い江戸時代を築く礎となった。
三成の次男は、「関が原の戦い」後、津軽へ逃れた。
以前、父が救った津軽為信を頼り、姓を杉山と変えて、津軽藩士として暮らし、子孫は現代まで続いている/驚
子孫の墓石名には、いずれも「成」の文字が入っている。
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「関が原の戦い」後、徳川方の弾圧によって三成の記録や痕跡の多くが消され、悪評だけが伝えられた。
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城跡にはわずかに石垣の一部しか残っていない。
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三成が日頃拝んでいたと伝わる千体仏(すごいなあ!
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NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』に出てくるやり手の石田さんてどんな人なのか気になってチェックしてみた。
【内容抜粋メモ】
石田三成は、戦乱が続く北近江で、貧しい地侍の子として生まれた。
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父は下級侍の「足軽」。鉄砲が主流になった戦の場で、真っ先に飛び出す弾除け役。
報酬も少ないから、戦地の村々で略奪をしなくては食べていけないほどだった。
父は幼い三成を寺に預けた。当時、寺は子どもたちの学問修行の場だった。
「近江商人」という言葉があるように、商業が盛んな土地柄ゆえ、
そろばんに当たるような算術も早く身につけて、それが後に役に立つこととなる。
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秀吉の作ったルールによって、長浜城下では税金を免除され、多くの商人が集まった。
三成は、自分と同じ低い身分から大名にまで出世した秀吉を目標にしていたが、
当時は仕官するキッカケすらない状況だった。
●3杯のお茶
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当時、鷹狩りと称して領内を回り、優秀な人材を探していた秀吉が三成の寺にやって来た。三成15歳。
「誰かお茶をくれ」という秀吉に、いち早く名乗り出した三成は、どうしたら喜んでもらえるか必死で考えた。
そして1杯目は、ノドが乾いた秀吉のために、少しぬるめで多めのお茶を、2杯目は少し熱めに出した。
秀吉は、さて3杯目はどうするかと試したところ、これまでとはまったく違う熱々のお茶を出した。
この機転が買われて、三成は「近侍(主君のそばに仕える秘書や世話係にあたる)」として召し抱えられることとなる。
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お茶をいれた時の井戸が残っている@大原観音寺
その後、足軽大将に相当する三百石を与えられるほど出世する。
三成は、算術にも長けていたため、秀吉から「500石与える」と言われた時、それを辞退し「葦の生える土地」をもらう。
当時、タダでとり放題だった葦に税をかけ、儲けた大金で軍備を立派に整えたという逸話もある。
「賤ヶ岳の戦い」
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秀吉と柴田勝家との戦。屏風には「賤ヶ岳の七本槍」として、当時有名な武将が描かれているが三成の姿はない。
だが、三成はこの戦で大名に出世している。
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当時、僧侶は全国を行脚する際、兵からなにも疑いを持たれていなかったのを利用して、三成は敵陣の情報を逐一集めていた。
秀吉が別の敵を攻めている間に、柴田軍が賤ヶ岳に動いたのをいち早く伝えただけでなく、
夜は行軍できないため、沿道の村人に命じて松明を灯させたため、瞬く間に賤ヶ岳に戻り、見事勝利する。
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三成は陰の功労者として、秀吉から高く評価された。
●史上最大の水攻め
秀吉が小田原の北条氏を攻めた際には、三成は戦の表舞台に立った。
秀吉が昔「水攻め」で備中高松城を落としたことを模して、三成にも水攻めを命じる。
それには、多くの人夫、資材の調達が必要。しかも、今回は平坦な関東平野。
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関東は当時、片田舎のため、人夫を集めるのは至難の業。
三成は、土地の高低差を調査させ、破格の賃金を出すとお触れを出し、噂はすぐに広まって、
遠くからも人夫が集まり、挙句の果ては、城に籠城していた敵方まで金目当てに手伝うようになったw
その数10万人。わずか数日で堤防を築き、利根川、荒川の水を利用して、忍城を見事に水攻めにしてみせた。
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それは「石田堤」として、今も残っているほど。
1ヶ月後、小田原城は落城、その後、忍城も降伏したことで、秀吉の天下統一は成し遂げられた。
三成は32歳で北近江19万石の大名に出世する。
●津軽為信
後世では、とても悪役呼ばわりされた三成だが、実際は違っていたという逸話が残っている。
秀吉に謀反の疑いをかけられた津軽為信が、秀吉から信頼されている三成を頼ったところ、
長男の元服に立会い「烏帽子親」となることで、疑いが晴れた。
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●破格の出世を辞退したワケとは?
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北近江19万石→筑前筑後33万石を与えると言われた時、三成は辞退した。
虎視眈々と天下取りを狙っていた伊達政宗、徳川家康らは、三成のやり方に不満を持ち、巻き返しの機会を窺っていたため、
三成は出世より、国づくりの完成を優先した。
★三成の行った政策
「太閤検地」これまで各大名が独自に行っていたのを、全国統一のルールに変え、田畑を測量し、持ち主を明らかにし、税をキチンととりたてた。
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「惣無事令(そうぶじれい)」大名同士の戦を禁じた法令。
「刀狩令」百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策。
「喧嘩停止令(けんかちょうじれい)」山野や用水などでの争いが弓や槍、鉄砲などの武器を用いた闘争に発展した場合はその村ぐるみで処刑される。
三成が行っていた政治は、乱世に別れを告げ、安心して暮らせる秩序ある社会を目指していた。
秀吉死去(享年62歳)
家康は、有力武将と縁組し、従わない大名は力でねじ伏せた。三成も襲撃された。
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「関が原の戦い」
三成は味方の裏切りにあい敗北。斬首される(享年41歳)。
戦後、東軍の武士が佐和山城に入り、三成のお宝を盗もうと期待したが、
これが権力ある大名かと驚くほど質素な暮らしぶりだったという。
徳川家康が江戸幕府を開く。
家康は、宿敵・三成らの政策を引き継ぎ、後の長い江戸時代を築く礎となった。
三成の次男は、「関が原の戦い」後、津軽へ逃れた。
以前、父が救った津軽為信を頼り、姓を杉山と変えて、津軽藩士として暮らし、子孫は現代まで続いている/驚
子孫の墓石名には、いずれも「成」の文字が入っている。
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「関が原の戦い」後、徳川方の弾圧によって三成の記録や痕跡の多くが消され、悪評だけが伝えられた。
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城跡にはわずかに石垣の一部しか残っていない。
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三成が日頃拝んでいたと伝わる千体仏(すごいなあ!
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