図書館で借りたCDシリーズ。
今回は、ずぅっとデータ化したくて探してたライヴアルバムがようやく見つかって大満足。ホッとした。
▼The Harder They Come(オリジナル・サウンドトラック)/Jimmy Cliff
すっかりデータにあると思っていたらなかった/焦
【ライナーノーツ抜粋メモ】
この映画を観た多くの人たちがそうだったように、ボクは弾かれたように座席を立ち、足早に外へ出た。
いつもと変わらぬ夜の東京。だが、風景は、もう既に2時間前と同じようには焦点を結ばなかった。
ボクの中で、何かが、確実に変わってしまったのだ。
ほとんどキングストンでロケされた映画が、1972年に公開されたことは、その後のレゲエ・シーンにとって決定的な事件だった。
皮肉なことに、世界でこれだけ支持されながら、ジャマイカでは“暴力的だ”という理由で上映を禁止された。
さらに、英語の映画ながら、訛りがひどく聞き取れないということで、米英での公開時には英語の字幕スーパーがつけられた。
ジャマイカは、日本の四国の1/3にも満たない小さな島。人口も100万人足らず。
アフリカからサトウキビプランテーションで働く奴隷として連れてこられた黒人だけが住んでいる。
国全体が人種差別を受け、アメリカのカリブ海政策の犠牲になっている。
ジミーは、かつてはラスタファリを信仰していたが、今はモスレムである。
「ラスタの師は、60年代のうちにアフリカへ帰ることができると教えていたけれど、そうはならなかった。完全な真理が欲しかった」
1983年の暮れ、DJスタイルのミュージシャンたちが次々に殺される事件があった。
ラスタの話になると地元民は途端に口が重くなる。
シュガー・マイノットが「仕方がないのさ」と吐き捨てるように言うだけだ。
神秘は、いつもたった1人の胸の中にしかない。
そして、実は、レゲエというビートこそが神秘そのものではないだろうか、この1枚のレコードがそう思わせてくれる。
陽気に笑いながら逃げつづけているジミーは、いつかこの1枚のレコードへ帰ってくるだろう。
“あの太陽が輝きつづけるかぎり、オレは自分の分け前を手に入れる”
▼Dance to the Music/Sly & the Family Stone
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1965年に市民権を獲得したものの、社会的には、なんら以前と変わらぬ扱いに、黒人の心は怒りに燃えていた。
黒人指導者マルコムXが1965年に暗殺され、1968年キング牧師が暗殺された。
黒人たちの人種差別への怒りがピークに達し、ついに暴力によって立ち上がり始めた。
1967年、シングル♪Dance to the Music はリリースされ、一躍、全米ヒットパレードのトップ10内に躍り出た。
1968年、アルバム「Dance to the Music」がリリースされ、スライは黒人たちの熱狂的な支持を得たのである。
まだ24歳の若さだったスライのメッセージは、黒も、白も、黄色も、混乱と矛盾の現代では、皆同じ立場にある。
だから互いにラディカルな心を持て、という意味をもつ。
僕たちは、スライのサウンド・クリエイターとしての天才性を認めたなら、次に彼の言わんとすることを知ろうとしなければならない。
▼Romantique 96/Pizzicato Five
▼フリーダムのピチカート・ファイヴ/Pizzicato Five
ライナーノーツは赤い女性の横顔にタイトルが書かれている裏は、曲名とスナップショットがアメコミみたい。
▼singles/Pizzicato Five(2枚組)
タイトル通りシングル曲を集めたアルバム。いつもアートワークが楽しくて、今回はライナーノーツがちっちゃい本みたい。
美味しそうな目玉焼きの写真も可愛い。
▼A Day at the Races(華麗なるレース)/Queen
日本人ファンのための♪手をとりあって が嬉しい。※No Synths!
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1976年。日本ツアーの際、ちょうど大坂で行われていた大相撲春場所を観戦、荒瀬vs魁傑(当時)の力士と
クイーンの4人が並んだ奇妙なスナップが音楽誌のグラビアを飾った。
また、このツアーでのフレディの「キモノ・ストリップ」は後々までファンの語り種になっているw
♪手をとりあって は、初来日時の大歓迎に感激したクイーンからの日本のファンへのプレゼントで、
「日本の友人たちへ、感謝を込めて」というメッセージも着いている。日本のみシングルカットされた。
「9月18日」のハイドパークでのフリーコンサート。この「9月18日」には大きな意味がある。
1970年の9月18日には、クイーンのメンバが“最も偉大なアーティスト”と敬愛するジミヘンが亡くなった。
1969年、ハイドパークでは、ストーンズがブライアン・ジョーンズの追悼コンサートをした。
「華麗なるレース」は、発売前の予約注文だけで既にゴールド・ディスクを獲得していた/驚
タイトルは前作「オペラ座」と同様、マルクス兄弟のサイレント映画から借用している(そうだったんだ!
“夜はオペラ、昼は競馬”とは英国上流社会の社交の場として代表的な場所。
ファンの間には「Race」が「人種」を表しているという説があり、今でも根強い。
4人のうち最もヘヴィ寄りのメイが♪ホワイト・マン を書いている。政治について最も関心が高いのはメイだそうだ。
▼The Works/Queen
ん?ネットだと2枚組みだけど、1枚のみで#9悲しい世界 までだな???
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1983-1984。デビュー以来10年が経過し「そこいらの夫婦よりよっぽど長く一緒にいる(May)」
4人は互いに顔を付き合わせて仕事に追いまくられている状況に我慢できなくなっていた。
1982年「ホット・スペース」ツアー終了後、1983年8月まで丸10ヶ月、
クイーンとしての活動を一切休止し、それぞれソロプロジェクトに集中した。
1984年には、ロジャーが2枚目のソロアルバム「ストレンジ・フロンティア」をリリースしている。
(ウチにあるのは、「Fun in Space」と「Electric Fire」だな
1年10ヶ月ぶりのステージのために、メンバは1日12時間にも及ぶリハーサルを重ねた。
メンバは単に見ず知らずの土地へ行って、彼らの音楽を求めている新しい聴衆の前でプレイするのが大好きだった。
しかし、南アフリカのボツワナで8回公演を行い、81年の南米ツアー以上の物議を呼んだ。
アパルトヘイト政策に反対の意を示すミュージックギルド(そんなのがあるんだ/驚)は、
南アフリカではライヴを行わない取り決めをしていた。
結局、ギルドに罰金を支払い「クイーンは一貫して人種差別に反対しており、
今後アパルトヘイト政策が全廃されるまでサン・シティへは行かない」と公式声明を発表して事態を収めた。
「The Works」の特筆すべきはそのPVの凄まじさだろう!
♪I Want To Break Free では、ロジャーのアイデアだと言われるメンバーの女装は、
人気昼メロのパロだそうだが、「なんだ、みんな仲いいじゃん」と妙に安心したものだ(フレディのアイデアだと思ったw
♪Keep Passing The Open Windows はアービングの小説「ホテル・ニューハンプシャー」からの引用(ジョディ主演で、私の大好きな映画のひとつ
▼Live at Wembley '86/Queen
こないだのニール・ヤングの「Weld」と、下のディランの「武道館」は、私の中で最大リスペクトしているライヴアルバム(ほかにもあるけどw
どんだけ会場が広くても、観客ひとりひとりとの一体感で燃え上がるこのパフォーマンスは圧巻
お馴染みの名曲はもちろん、♪Now I'm Here では限りなく上がり、♪In The Lap Of The Gods では真摯な気持ちになり、
♪Love Of My Life で合唱になる場面では、何度聴いても目頭が熱くなる。
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1991年11月24日、エイズ患者であることを公表した翌日にフレディは亡くなった。
でも、多くのファンがそうだったように、私は、その事実が目の前にぶら下がっていても、実感するものが返ってこなかった。
1992年4月20日、世界各国から7万2千人のファンがロンドンに集結し、
フレディに敬意を表するトップアーティスト78人が、4時間15分に及ぶ、クイーン最後のライヴステージに華を添えた。
♪I Want It All をロジャー・ダルトリーが歌った時、何か複雑なざわめきが起こった。
「この曲を初めてライヴで聴く。フレディがライヴで歌うことはなかった・・・」
クイーンは、1986年のヨーロッパツアー以降、ライヴ活動をしていない。
「The Miracle」「Innuendo」をリリースしても、それをライヴで聴くことができなかった6年間だった。
このアルバムには、クイーン最後のヨーロッパツアーのロンドン公演が収められている。
「ボクは悲しい歌を書くのが好きなようだ。悲しみが、人生の一部になっているんだろうな。
ボクはそんなにハッピーな男じゃないんだよ」とフレディは言っていた。
♪In The Lap Of The Gods/Queen
始まりもなく 終わりもない
信じてほしい 命は永遠に続いていくよ
神々の思し召しのままに
▼At Budokan(武道館)/ボブ・ディラン(2枚組)
ディランは、若いサポートメンバを使って、原曲をすっかりアレンジして演奏するから、アルバムのほうが好きな場合と分かれるんだけど、
このライヴでの♪Don't Think Twice, It's All Rightなどのレゲエアレンジがとっても好きで、何百回も聴いた(言いすぎ?w
バイト先で、実際このライヴに行ったってゆうオバサンがいて、すげえ!て驚いたこともある。
【ライナーノーツ抜粋メモ】
東京は武道館、大阪は松下体育館、いずれも7千〜1万2千人近いキャパの会場で、中2日の休みを挟み、
ほとんどぶっ続けで11回ものライヴが開かれ、10万人を超えるともいわれる観客を動員することは、
これまでに例のないビッグイベントだった。
本アルバムのリリースは、現時点で日本だけに限られているが、海外のディランファンは発表前から既に発売を待っている。
ディランは時にハンドマイクを握り締めて大きな身ぶりでステージを動きまわり、
騒ぐ観客を指さして喜び、ハモニカを投げてサービスすることもあった。
イントロを聴くだけでは何の曲かほとんど見当がつかないアレンジばかり。
しかも♪GOING, GOING, GONE は、大半の歌詞が書き直され、毎日違った順序で歌われていた。
ディランは出だしのキーを間違えることが時々あって、その都度、バンドリーダーのロブ・ストーナーに教えられていた(面白い人だなあw
武道館をスタートした12年ぶりのワールドツアーは、フロリダで終了したが、1978.2.20-12.16で116回にも及んだ。
バンドメンバは総勢11人という大所帯で、ディランの活動の歴史の中で最も大編成のバックバンドとなった。
♪Knockin' on Heaven's Door はレゲエスタイルで歌われ、オリジナルには2番までしかないが、
ここでは3番の歌詞が追加されていることにも注目(このレゲエver.も大好き
1978年、LAのツアー中、僕(菅野ヘッケルさん)は、「武道館」の最終許諾を得るために会いに行った。
バックステージに置かれたトレーラーハウス、周りでディランの子どもたちが走り回って遊んでいた。
サングラスをしたディランが椅子に座ると同時に「グッド・アルバムだ。いつリリースするんだ?」と言った。
全世界に先駆けて1978年、日本で発売された。当初、日本のみの予定が、翌年、アメリカほか全世界で発売されてベストセラーとなった。
レコードには、22曲しか収録できなかった。未収録は9曲。
♪Love her with feeling
♪I threw it all away
♪Girl of the north country
♪To Ramona
♪Sooner or Later
♪You're a big girl now
♪Tomorrow is a long time
♪I don't believe you
♪The man in me
最初の来日時、ディランは東京とニューオータニの旧館に泊まっていた。大坂では皆プラザに泊まったが、ディランだけはグランドだった。
理由は、窓の開けられる部屋を希望したから。新鮮な外気に直接当たることができないと、気分が悪いという(分かる!
京都観光では、龍安寺(!)の池の周りを歩き、水辺まで降りようとしてロードマネージャーを心配させたり、自然が好きなようだった。
日本では青山、原宿周辺のブティックに買い物に行き、イッセイ・ミヤケの赤いマント風のコートを気に入り、注文して取り寄せて帰ったほど。
かつて「英語圏以外でのライヴはしない」と言ったディランだが、日本人ファンの心に感動し、
87年に会った時、「日本語を学びたい。そして日本語で歌を書きたい」と語った。
ディランは、20世紀に生まれた最高のソングライターと同時に、最高のライヴパフォーマーと評価する声も多い。
スタジオレコーディングでも、ほとんどの曲を1、2回のテイクで、オーバーダブ等も行わずに完成させている。
1988.6.7〜The Never Ending Tour
ディランは、gt.、bass.、dr.の3人編成をバックに、これまでのような大きな会場ではなく、数千人規模の会場を選び、
初めて南米に行くなど、毎年、100回近いライヴを世界各地で行っている。
♪Shelter from the Storm/B.Dylan
時間を戻すことさえできたらなあ
神と彼女が産まれたときまで
「おはいりなさい。」と彼女は言った
「あなたに嵐から身を守るシェルターをあげるわ」
今回は、ずぅっとデータ化したくて探してたライヴアルバムがようやく見つかって大満足。ホッとした。
▼The Harder They Come(オリジナル・サウンドトラック)/Jimmy Cliff
すっかりデータにあると思っていたらなかった/焦
【ライナーノーツ抜粋メモ】
この映画を観た多くの人たちがそうだったように、ボクは弾かれたように座席を立ち、足早に外へ出た。
いつもと変わらぬ夜の東京。だが、風景は、もう既に2時間前と同じようには焦点を結ばなかった。
ボクの中で、何かが、確実に変わってしまったのだ。
ほとんどキングストンでロケされた映画が、1972年に公開されたことは、その後のレゲエ・シーンにとって決定的な事件だった。
皮肉なことに、世界でこれだけ支持されながら、ジャマイカでは“暴力的だ”という理由で上映を禁止された。
さらに、英語の映画ながら、訛りがひどく聞き取れないということで、米英での公開時には英語の字幕スーパーがつけられた。
ジャマイカは、日本の四国の1/3にも満たない小さな島。人口も100万人足らず。
アフリカからサトウキビプランテーションで働く奴隷として連れてこられた黒人だけが住んでいる。
国全体が人種差別を受け、アメリカのカリブ海政策の犠牲になっている。
ジミーは、かつてはラスタファリを信仰していたが、今はモスレムである。
「ラスタの師は、60年代のうちにアフリカへ帰ることができると教えていたけれど、そうはならなかった。完全な真理が欲しかった」
1983年の暮れ、DJスタイルのミュージシャンたちが次々に殺される事件があった。
ラスタの話になると地元民は途端に口が重くなる。
シュガー・マイノットが「仕方がないのさ」と吐き捨てるように言うだけだ。
神秘は、いつもたった1人の胸の中にしかない。
そして、実は、レゲエというビートこそが神秘そのものではないだろうか、この1枚のレコードがそう思わせてくれる。
陽気に笑いながら逃げつづけているジミーは、いつかこの1枚のレコードへ帰ってくるだろう。
“あの太陽が輝きつづけるかぎり、オレは自分の分け前を手に入れる”
▼Dance to the Music/Sly & the Family Stone
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1965年に市民権を獲得したものの、社会的には、なんら以前と変わらぬ扱いに、黒人の心は怒りに燃えていた。
黒人指導者マルコムXが1965年に暗殺され、1968年キング牧師が暗殺された。
黒人たちの人種差別への怒りがピークに達し、ついに暴力によって立ち上がり始めた。
1967年、シングル♪Dance to the Music はリリースされ、一躍、全米ヒットパレードのトップ10内に躍り出た。
1968年、アルバム「Dance to the Music」がリリースされ、スライは黒人たちの熱狂的な支持を得たのである。
まだ24歳の若さだったスライのメッセージは、黒も、白も、黄色も、混乱と矛盾の現代では、皆同じ立場にある。
だから互いにラディカルな心を持て、という意味をもつ。
僕たちは、スライのサウンド・クリエイターとしての天才性を認めたなら、次に彼の言わんとすることを知ろうとしなければならない。
▼Romantique 96/Pizzicato Five
▼フリーダムのピチカート・ファイヴ/Pizzicato Five
ライナーノーツは赤い女性の横顔にタイトルが書かれている裏は、曲名とスナップショットがアメコミみたい。
▼singles/Pizzicato Five(2枚組)
タイトル通りシングル曲を集めたアルバム。いつもアートワークが楽しくて、今回はライナーノーツがちっちゃい本みたい。
美味しそうな目玉焼きの写真も可愛い。
▼A Day at the Races(華麗なるレース)/Queen
日本人ファンのための♪手をとりあって が嬉しい。※No Synths!
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1976年。日本ツアーの際、ちょうど大坂で行われていた大相撲春場所を観戦、荒瀬vs魁傑(当時)の力士と
クイーンの4人が並んだ奇妙なスナップが音楽誌のグラビアを飾った。
また、このツアーでのフレディの「キモノ・ストリップ」は後々までファンの語り種になっているw
♪手をとりあって は、初来日時の大歓迎に感激したクイーンからの日本のファンへのプレゼントで、
「日本の友人たちへ、感謝を込めて」というメッセージも着いている。日本のみシングルカットされた。
「9月18日」のハイドパークでのフリーコンサート。この「9月18日」には大きな意味がある。
1970年の9月18日には、クイーンのメンバが“最も偉大なアーティスト”と敬愛するジミヘンが亡くなった。
1969年、ハイドパークでは、ストーンズがブライアン・ジョーンズの追悼コンサートをした。
「華麗なるレース」は、発売前の予約注文だけで既にゴールド・ディスクを獲得していた/驚
タイトルは前作「オペラ座」と同様、マルクス兄弟のサイレント映画から借用している(そうだったんだ!
“夜はオペラ、昼は競馬”とは英国上流社会の社交の場として代表的な場所。
ファンの間には「Race」が「人種」を表しているという説があり、今でも根強い。
4人のうち最もヘヴィ寄りのメイが♪ホワイト・マン を書いている。政治について最も関心が高いのはメイだそうだ。
▼The Works/Queen
ん?ネットだと2枚組みだけど、1枚のみで#9悲しい世界 までだな???
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1983-1984。デビュー以来10年が経過し「そこいらの夫婦よりよっぽど長く一緒にいる(May)」
4人は互いに顔を付き合わせて仕事に追いまくられている状況に我慢できなくなっていた。
1982年「ホット・スペース」ツアー終了後、1983年8月まで丸10ヶ月、
クイーンとしての活動を一切休止し、それぞれソロプロジェクトに集中した。
1984年には、ロジャーが2枚目のソロアルバム「ストレンジ・フロンティア」をリリースしている。
(ウチにあるのは、「Fun in Space」と「Electric Fire」だな
1年10ヶ月ぶりのステージのために、メンバは1日12時間にも及ぶリハーサルを重ねた。
メンバは単に見ず知らずの土地へ行って、彼らの音楽を求めている新しい聴衆の前でプレイするのが大好きだった。
しかし、南アフリカのボツワナで8回公演を行い、81年の南米ツアー以上の物議を呼んだ。
アパルトヘイト政策に反対の意を示すミュージックギルド(そんなのがあるんだ/驚)は、
南アフリカではライヴを行わない取り決めをしていた。
結局、ギルドに罰金を支払い「クイーンは一貫して人種差別に反対しており、
今後アパルトヘイト政策が全廃されるまでサン・シティへは行かない」と公式声明を発表して事態を収めた。
「The Works」の特筆すべきはそのPVの凄まじさだろう!
♪I Want To Break Free では、ロジャーのアイデアだと言われるメンバーの女装は、
人気昼メロのパロだそうだが、「なんだ、みんな仲いいじゃん」と妙に安心したものだ(フレディのアイデアだと思ったw
♪Keep Passing The Open Windows はアービングの小説「ホテル・ニューハンプシャー」からの引用(ジョディ主演で、私の大好きな映画のひとつ
▼Live at Wembley '86/Queen
こないだのニール・ヤングの「Weld」と、下のディランの「武道館」は、私の中で最大リスペクトしているライヴアルバム(ほかにもあるけどw
どんだけ会場が広くても、観客ひとりひとりとの一体感で燃え上がるこのパフォーマンスは圧巻
お馴染みの名曲はもちろん、♪Now I'm Here では限りなく上がり、♪In The Lap Of The Gods では真摯な気持ちになり、
♪Love Of My Life で合唱になる場面では、何度聴いても目頭が熱くなる。
【ライナーノーツ抜粋メモ】
1991年11月24日、エイズ患者であることを公表した翌日にフレディは亡くなった。
でも、多くのファンがそうだったように、私は、その事実が目の前にぶら下がっていても、実感するものが返ってこなかった。
1992年4月20日、世界各国から7万2千人のファンがロンドンに集結し、
フレディに敬意を表するトップアーティスト78人が、4時間15分に及ぶ、クイーン最後のライヴステージに華を添えた。
♪I Want It All をロジャー・ダルトリーが歌った時、何か複雑なざわめきが起こった。
「この曲を初めてライヴで聴く。フレディがライヴで歌うことはなかった・・・」
クイーンは、1986年のヨーロッパツアー以降、ライヴ活動をしていない。
「The Miracle」「Innuendo」をリリースしても、それをライヴで聴くことができなかった6年間だった。
このアルバムには、クイーン最後のヨーロッパツアーのロンドン公演が収められている。
「ボクは悲しい歌を書くのが好きなようだ。悲しみが、人生の一部になっているんだろうな。
ボクはそんなにハッピーな男じゃないんだよ」とフレディは言っていた。
♪In The Lap Of The Gods/Queen
始まりもなく 終わりもない
信じてほしい 命は永遠に続いていくよ
神々の思し召しのままに
▼At Budokan(武道館)/ボブ・ディラン(2枚組)
ディランは、若いサポートメンバを使って、原曲をすっかりアレンジして演奏するから、アルバムのほうが好きな場合と分かれるんだけど、
このライヴでの♪Don't Think Twice, It's All Rightなどのレゲエアレンジがとっても好きで、何百回も聴いた(言いすぎ?w
バイト先で、実際このライヴに行ったってゆうオバサンがいて、すげえ!て驚いたこともある。
【ライナーノーツ抜粋メモ】
東京は武道館、大阪は松下体育館、いずれも7千〜1万2千人近いキャパの会場で、中2日の休みを挟み、
ほとんどぶっ続けで11回ものライヴが開かれ、10万人を超えるともいわれる観客を動員することは、
これまでに例のないビッグイベントだった。
本アルバムのリリースは、現時点で日本だけに限られているが、海外のディランファンは発表前から既に発売を待っている。
ディランは時にハンドマイクを握り締めて大きな身ぶりでステージを動きまわり、
騒ぐ観客を指さして喜び、ハモニカを投げてサービスすることもあった。
イントロを聴くだけでは何の曲かほとんど見当がつかないアレンジばかり。
しかも♪GOING, GOING, GONE は、大半の歌詞が書き直され、毎日違った順序で歌われていた。
ディランは出だしのキーを間違えることが時々あって、その都度、バンドリーダーのロブ・ストーナーに教えられていた(面白い人だなあw
武道館をスタートした12年ぶりのワールドツアーは、フロリダで終了したが、1978.2.20-12.16で116回にも及んだ。
バンドメンバは総勢11人という大所帯で、ディランの活動の歴史の中で最も大編成のバックバンドとなった。
♪Knockin' on Heaven's Door はレゲエスタイルで歌われ、オリジナルには2番までしかないが、
ここでは3番の歌詞が追加されていることにも注目(このレゲエver.も大好き
1978年、LAのツアー中、僕(菅野ヘッケルさん)は、「武道館」の最終許諾を得るために会いに行った。
バックステージに置かれたトレーラーハウス、周りでディランの子どもたちが走り回って遊んでいた。
サングラスをしたディランが椅子に座ると同時に「グッド・アルバムだ。いつリリースするんだ?」と言った。
全世界に先駆けて1978年、日本で発売された。当初、日本のみの予定が、翌年、アメリカほか全世界で発売されてベストセラーとなった。
レコードには、22曲しか収録できなかった。未収録は9曲。
♪Love her with feeling
♪I threw it all away
♪Girl of the north country
♪To Ramona
♪Sooner or Later
♪You're a big girl now
♪Tomorrow is a long time
♪I don't believe you
♪The man in me
最初の来日時、ディランは東京とニューオータニの旧館に泊まっていた。大坂では皆プラザに泊まったが、ディランだけはグランドだった。
理由は、窓の開けられる部屋を希望したから。新鮮な外気に直接当たることができないと、気分が悪いという(分かる!
京都観光では、龍安寺(!)の池の周りを歩き、水辺まで降りようとしてロードマネージャーを心配させたり、自然が好きなようだった。
日本では青山、原宿周辺のブティックに買い物に行き、イッセイ・ミヤケの赤いマント風のコートを気に入り、注文して取り寄せて帰ったほど。
かつて「英語圏以外でのライヴはしない」と言ったディランだが、日本人ファンの心に感動し、
87年に会った時、「日本語を学びたい。そして日本語で歌を書きたい」と語った。
ディランは、20世紀に生まれた最高のソングライターと同時に、最高のライヴパフォーマーと評価する声も多い。
スタジオレコーディングでも、ほとんどの曲を1、2回のテイクで、オーバーダブ等も行わずに完成させている。
1988.6.7〜The Never Ending Tour
ディランは、gt.、bass.、dr.の3人編成をバックに、これまでのような大きな会場ではなく、数千人規模の会場を選び、
初めて南米に行くなど、毎年、100回近いライヴを世界各地で行っている。
♪Shelter from the Storm/B.Dylan
時間を戻すことさえできたらなあ
神と彼女が産まれたときまで
「おはいりなさい。」と彼女は言った
「あなたに嵐から身を守るシェルターをあげるわ」