■伊勢神宮 〜日本の始まりへの旅〜@歴史秘話ヒストリア
今年10月「式年遷宮」を迎える伊勢神宮の回を見て、以前訪れた時のことを思い出した。
伊勢うどんは、ほんと、美味しかったなあ!2回も食べたしv
【内容抜粋メモ】
「式年遷宮」=20年ごとに社殿と宝物を新しくする、世界に類のない伝承システム。
神宝と呼ばれる1600に及ぶ宝物もすべて新しく作られる。
神社に必要な檜の良木には印がつけられ、1万本以上が使われるため、市民が植樹に協力している。
伊勢神宮の始まりは大和政権が太陽の神=天照大神を祭ったことにある。
神話では、天照大神が猿田彦(地元の神さま)が先導した土地が気に入り住むようになったとのこと。
伊勢神宮は125もの社の総称。
内宮+外宮を参るのがしきたり。外宮には「豊受大神」が祀られている。
外宮は、もとは地元の豪族の神を祭る場だったが「御饌殿(みけでん)」という役割を与えられた。
「御饌殿(みけでん)」=昔ならがのやり方で食事が作られ、天照大神に毎日朝夕奉られている。
祭るの原義は「奉る」。食べ物やお酒などを奉るのは祭りの基本。
奉ることで神の御霊が健やかに活躍すると信じられている。
「宝塚古墳」から全長1m40cmの巨大な船形埴輪が出土した。
埴輪は大和政権の文化であり、伊勢にはないもの。伊勢+大和の文化が結びついたことを意味している。
江戸時代には「お伊勢参りブーム」が起こった。
日本三大遊郭の1つがあり、歌舞伎など芝居の町でもあった。
シンプルな造りの謎を解く
「壬申の乱」の際、大海人皇子の前に天照大神が現れた。
天照大神の子孫と信じていた大海人皇子は、その後勝利して、673年に天武天皇として即位する。
「白村江の戦い」=友好関係にあった百済を助けようと水軍を出して唐と戦った。
里中満智子さんも登場!
「当時の日本には対等の立場でものが言えなければ唐の属国となってしまうという危機感があった」
古代日本は、仏教、法制度、衣食住、すべて中国文化を取り入れてきたため、
天武天皇と妻は、「日本書紀」の編纂、日本語ならではの表記を生み出し、
日本人の心の支柱である「米」と、神話をもとに天照大神を祈りの対象に定めた。
神話では、米は天照大神が高天原で育てた稲を孫に託し、地上に伝えたのが始まりとされる。
弥生時代は稲作が始まった時代。高倉式の米倉は信仰の対象になる。
米と米倉に対する神聖視が、後の神社建築につながった可能性が高い。
シンプルな美は究極の美として絶対性を帯びる
太陽神であり稲魂を持つ神として天照大神を皇祖神として打ちたて、神話を実体化するために伊勢神宮が存在するという説。
1300年繰り返されてきた「式年遷宮」とは?
天武天皇が崩御し、大津皇子は謀反の疑いで死に追い込まれ、草壁皇子は若くして亡くなる。
このままではまた国が不安定になると思い、持統天皇が即位する。
その際、天照大神から授かったとされる剣と鏡を受け継ぐ儀式を行い、「遷宮」のシステムを生み出した。
日本の神さまはお祭りしないと御神徳が衰えていくという信仰があり、
永遠に若々しくあってほしいという願いが遷宮の根底にある。
持統天皇は、この時、周囲の反対を押しきって伊勢に出かけている。
式年遷宮に必要な最高級の捧げ物を各地で定めて回るためだったと考えられる。
702年に持統天皇が崩御。その身は当時は珍しい火葬にされ、昇天したことを周囲に印象付けた。
今年10月「式年遷宮」を迎える伊勢神宮の回を見て、以前訪れた時のことを思い出した。
伊勢うどんは、ほんと、美味しかったなあ!2回も食べたしv
【内容抜粋メモ】
「式年遷宮」=20年ごとに社殿と宝物を新しくする、世界に類のない伝承システム。
神宝と呼ばれる1600に及ぶ宝物もすべて新しく作られる。
神社に必要な檜の良木には印がつけられ、1万本以上が使われるため、市民が植樹に協力している。
伊勢神宮の始まりは大和政権が太陽の神=天照大神を祭ったことにある。
神話では、天照大神が猿田彦(地元の神さま)が先導した土地が気に入り住むようになったとのこと。
伊勢神宮は125もの社の総称。
内宮+外宮を参るのがしきたり。外宮には「豊受大神」が祀られている。
外宮は、もとは地元の豪族の神を祭る場だったが「御饌殿(みけでん)」という役割を与えられた。
「御饌殿(みけでん)」=昔ならがのやり方で食事が作られ、天照大神に毎日朝夕奉られている。
祭るの原義は「奉る」。食べ物やお酒などを奉るのは祭りの基本。
奉ることで神の御霊が健やかに活躍すると信じられている。
「宝塚古墳」から全長1m40cmの巨大な船形埴輪が出土した。
埴輪は大和政権の文化であり、伊勢にはないもの。伊勢+大和の文化が結びついたことを意味している。
江戸時代には「お伊勢参りブーム」が起こった。
日本三大遊郭の1つがあり、歌舞伎など芝居の町でもあった。
シンプルな造りの謎を解く
「壬申の乱」の際、大海人皇子の前に天照大神が現れた。
天照大神の子孫と信じていた大海人皇子は、その後勝利して、673年に天武天皇として即位する。
「白村江の戦い」=友好関係にあった百済を助けようと水軍を出して唐と戦った。
里中満智子さんも登場!
「当時の日本には対等の立場でものが言えなければ唐の属国となってしまうという危機感があった」
古代日本は、仏教、法制度、衣食住、すべて中国文化を取り入れてきたため、
天武天皇と妻は、「日本書紀」の編纂、日本語ならではの表記を生み出し、
日本人の心の支柱である「米」と、神話をもとに天照大神を祈りの対象に定めた。
神話では、米は天照大神が高天原で育てた稲を孫に託し、地上に伝えたのが始まりとされる。
弥生時代は稲作が始まった時代。高倉式の米倉は信仰の対象になる。
米と米倉に対する神聖視が、後の神社建築につながった可能性が高い。
シンプルな美は究極の美として絶対性を帯びる
太陽神であり稲魂を持つ神として天照大神を皇祖神として打ちたて、神話を実体化するために伊勢神宮が存在するという説。
1300年繰り返されてきた「式年遷宮」とは?
天武天皇が崩御し、大津皇子は謀反の疑いで死に追い込まれ、草壁皇子は若くして亡くなる。
このままではまた国が不安定になると思い、持統天皇が即位する。
その際、天照大神から授かったとされる剣と鏡を受け継ぐ儀式を行い、「遷宮」のシステムを生み出した。
日本の神さまはお祭りしないと御神徳が衰えていくという信仰があり、
永遠に若々しくあってほしいという願いが遷宮の根底にある。
持統天皇は、この時、周囲の反対を押しきって伊勢に出かけている。
式年遷宮に必要な最高級の捧げ物を各地で定めて回るためだったと考えられる。
702年に持統天皇が崩御。その身は当時は珍しい火葬にされ、昇天したことを周囲に印象付けた。