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ドラマ『警視庁特捜対策室 迷宮捜査の女』

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ドラマ『警視庁特捜対策室 迷宮捜査の女』
 

出演:
高梨葵…菊川怜
曽根正光…田中哲司
村上和彦…笹野高史
佐伯晴香…国生さゆり
鬼頭靖史…東幹久
中丸圭子…濱田マリ
鬼頭早智子…伊藤裕子
荻野刑事…石井正則
森川哲郎…湯江健幸
小松原警部…高杉瑞穂 ほか

 
ついに、哲さん×笹野高史さんが夢の共演

 
哲さんは苦みばしった顔と牛乳を飲むっていうギャップが可笑しいw

毎回アオイに警察の紹介をさせて「同じく曽根です」って
セリフが少ない役だけに、目の動きなどで細かい心境を演じているのがさすがですv


【内容抜粋メモ】(ネタバレ注意
1995年、くぬぎ団地(練馬なんだ)で美容師アシスタントだった佐伯真奈美の刺殺死体が発見された。
電話に110しようとした血痕が残り、無言のままの記録も残っている。事件は未解決のままお蔵入り。

19年後。
システム開発部でデータベースの管理をしていて、周りから“コックピット・ポリス”と呼ばれている高梨葵は、
突然「特命捜査対策室」に異動を命じられた。そこは、時効がなくなってから未解決事件を捜査する部署。

くぬぎ団地の取り壊し現場から、当時の凶器と思われる美容師用のハサミが出てきて、アオイもすぐに仕事を任される。
「資料管理室」に一緒にいるのは、いつも無言で牛乳を飲んでいる曽根正光。前の相方は彼と性格が合わず逃げ出したという。

ハサミの指紋から持ち主は、当時マナミの交際相手だった美容師・鬼頭靖史のものと分かる。
当時も犯人と疑われたが「あの夜、マナミさんと一緒にいましたが11時頃には帰った。元恋人の森川哲郎につきまとわれてた」と供述。
その後、資産家の早智子と結婚して、今や実業家として大成功している。

森川は靴の修理屋。マナミが姉から誕プレでもらったパンプスを傷つけられたことからマナミと知り合った。
当時「犯人は鬼頭だ!」と言っていた。

 

はからずも曽根とコンビを組まされたアオイは、マナミととても仲が良かった姉・晴香を訪ねる。
彼女も「犯人は鬼頭だ。マナミはもて遊ばれていただけ。あいつは上昇志向の強い男だから」といまだ恨んでいる。

そんな中、鬼頭の息子ショウタくんが誘拐されていると分かる。
身代金1000万を要求され、受け取り場所は、くぬぎ団地。その焼却炉に入れろという指示。
しかし、その後、団地の住民が枯葉を入れて燃やしてしまう。
(さすが、今の逆探知は早いなあ。ケータイも転売ものっていうのも今どき こんなに犯罪に使われるなら登録制にするとか?
「身代金1000万は安すぎませんか?」と疑問をもつアオイ。

鬼頭は、社長室を勝手に出て、なぜかアオイに「自分がマナミを殺しました」と自白する(自供などは動画で録画されるのね
「別れ話になって、狂言自殺を図られ、もめているうちに刺してしまった」
「どうして、息子さんが誘拐されている大変な時に、急に出頭する気になったのか」とまた疑問をもつアオイ。
鬼頭は、取材され大事件となり、会議で幹部から社長解任を命じられた。

妻のサチコは、たまらず、鬼頭の部下・中丸とともにハルカを訪ね、
「ショウタを返して! あなたがやったんでしょ? 毎年、マナミさんの命日のたびに嫌がらせをしていることは知っています」
しかし、ハルカの家にはショウタくんはいなかった。

ハルカ「当時は団地の人もご焼香に来てくれたりしたのに、もう誰も覚えていない。
    団地も取り壊される。当時のモノはそのまま残しているのに・・・」

ショウタくんは監禁場所から1人で逃げて無事、保護された。
すると、手の平を返したように、鬼頭は「自分は無実だ。自白するよう犯人から脅されていた」と発表する。

ハルカ「警察は誰の味方なんですか!? 誰を信じたらいいんですか?! 私はもう疲れました」
アオイ「私が必ず犯人を捕まえます。約束します」

曽根「あんたはハルカに肩入れしすぎだ。その結果目が曇る。だからオレたちは被害者家族の目で捜査すべきじゃない。
   物的証拠をつかんでホシをあげる。それが現場の仕事だ」

反発するアオイに村上が若かりし頃の曽根の話をする。

「1993年、放火殺人があって、同じように“私が必ず犯人を捕まえてみせます!”と約束したが時効となってしまい、
 被害者家族から“犯人が見つかっても罪を償わせることは出来ない。疲れました”と言われた悔しさから特命に志願してきた。
 本当は人一倍、被害者家族を考えてる。ストレスで胃を悪くして血を吐いたこともあるらしい」

 
だから牛乳飲んでる。最初のシャツの血痕も!?

 
ときどき昔と現在が一緒にフラッシュバックする演出が泣ける。
なにげに、それぞれの若い頃を演じている俳優さんが、本人に似ているのにビックリ

ショウタくんに事情を聞くと、犯人は男女いたという。「周りにはリンゴやミカンの箱がいっぱいあった」
その倉庫を見つけ出す曽根とアオイ。

曽根「この扉は子どもが1人で開けられる重さじゃない。この事件で得をしたのは誰だ?
   被害者家族の時間は止まっていても、犯人の時間は流れているのかもしれない。
   ヤマを継ぐってことは、時の流れもすべて引き継ぐってことだ」

今の捜査にはノートパッド?みたいな端末が大活躍だねえ!


 
曽根「あんたは被害者なんかじゃない!」と哲さんパーンチ!


ハルカ「不思議ですね。いつもと同じ道なのに違った景色に見えます」
アオイ「それはハルカさんの時間が動きはじめたからじゃないでしょうか?」


 
記念写真の哲さんの変顔が貴重w


 
村上「人間というのは生身の人間と関わることで変わっていくんだ」

ドリカムの♪LOVE LOVE LOVE 久々聴いて懐かしい。

 
笹野さん、今回もいい味出しまくりです/爆




『愛とは、怖れを手ばなすこと』(サンマーク文庫)

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『愛とは、怖れを手ばなすこと』(サンマーク文庫)
ジェラルド・G・ジャンポルスキー/著 本田健/翻訳

ツイッターでいつもいい言葉が載っている「あいのことば @_love_bot」で時々本書からの言葉が載っていて、
とてもいい言葉ばかりなので、安価だし買ってみた。

自己啓発もの、スピリチュアル本を読むのは久々。
単行本で軽いから、クリニックの待合室でいつも1時間以上は待たされる間に数ページずつ読んでいたら、
買ってから読み終わるまでに数ヶ月もかかってしまった(放置してた期間を足せば1年近いかも

1言1言に重みがあって、納得できることばかり。
私が去年読んでもっとも感銘を受けた『神との対話 宇宙をみつける自分をみつける』(サンマーク出版)とも共通する。
これまでの復習でもあり、再確認でもあり、新発見もあり、
どのページからまた何度か読み返してもいい1冊。

ちなみに、本書も『神との対話』同様、特定の宗教をすすめる本ではありません

本書に出てくる「アティテューディナル・ヒーリング・センター」が気になった。

アティテューディナル・ヒーリング=心のあり方を選ぶことによる癒やし


【内容抜粋メモ】
※「本書の12のレッスンのタイトルは『奇跡のコース』からの引用

●著者からの言葉
人は自分が学びたいと思うことを教えるものです。そして私が学びたいのは、内なるやすらぎを得ることです。

(著者は成功した精神科医だったが、空虚で偽善に満ちていた。20年間の結婚生活が破綻し、お酒に溺れていた時、
 『奇跡についてのコース』という本に出合う。

感情には2種類しかない、それは「愛」と「怖れ」だと『奇跡についてのコース』に書かれていた。
真実と幻想のどちらを受け入れるかという選択もこのコースで気づいた。

うまくいかないと、こんな目に遭うのは世間のせい、人のせいと考えて、自分の怒りを正当化していた
私たちはみな、互いの教師。

愛だけを教えなさい。なぜなら、あなたは愛そのものだからです。


●はじめに
自分の内側に目を向けるのは、的確な道を示し、確かな情報をもたらしてくれる「内なる直感の声」です。
この静けさの中では、人格の対立などはどうでもよくなります。

私たちは過去をコントロールしようとし、未来を予測しようとしているため、孤立し、愛される魅力もないと感じるのです。
自分以外の誰かから何かを手に入れる必要を感じ、それが満たされた時は相手を愛し、満たされなかった時には相手を憎む関係です。
多くの人は、仕事、家庭、金銭など欲しかったものを手に入れた後でも、ココロが空っぽなのに気づいています。
マザー・テレサはこれを「スピリチュアル欠乏症」と呼びました。

そのストレスが欲求不満、うつ、肉体的な痛み、病気、死という形で表れます。
みな病気などをなくしたいと真剣に望みながら、自分に対するこれまでの見方を変えたくないのです。
自らの考え方を変え、過去を捨て、「今」をもっと強く感じ、怖れを消滅しなければなりません。

ひと言で言うなら「与える行為を通して、なるべき自分になる」のが本書のテーマです。
ココロの安らぎという1つの「目標」と、「許し」を実践するという1つの「手段」を持つだけでいいのです。


【Part1 すべての怖れは過去のもの。ここにあるのは愛だけである】

「現実」とはなにか?
ほとんどの人は、何が現実なのか判断できないでいる。
始まりもなく終わりもないものを現実として見れば、人生はより意義深いものになる。
この永遠という定義に当てはまるのは「愛」だけ。他のものはすべてうつろい、意味のないものです。

愛は、何かを比較している状態ではなく、豊かさを増しながらあふれ出している状態です。
その中で私たちは、すべての人のココロはつながっている、共通の「自己」を分かち合っていることを悟ります。


繰り返される過去
私たちの心の中には、自分の過去をテーマにした映画のフィルムがあり、私たちはそのレンズを通して現実を経験している。
つまり、現在をありのままに見たり聞いたりしていない。歪んだ古い記憶で現在を覆って、断片的に見ているだけです。


やすらぎを奪うのは不幸の予測
私たちは、物事を予測し、コントロールすることに価値を置いている。「病的な自己防衛」
過去の怖れのせいで、未来の怖れを予期してしまいます。


現実はいつでも選択できる
私たちは、社会からの借り物である「現実」によって制限を受けることを、どの瞬間にも拒否しなければなりません。
この「瞬間」を唯一の時として経験し、「今」という現実に生きることを選択できるのです。
「できない」「不可能だ」と言う時、怖れに満ちた過去の限界を自身に課したことになります。


唯一の目標
私たちは目標を1つに絞らず、あれもこれもとしがちです。すると焦点がぼやけ、葛藤が大きくなるだけ。


ゆるしを通してやすらぎを得る
「ココロのやすらぎ」をただ1つの目標にすると、ただ1つの手段は「ゆるし」です。
簡単に言えば「ゆるすことは手放すこと」。

自身を考える時、「自分が得するには」ではなく、「自分の内を満たすには」と考えること。
第2のステップは、他者を「愛を差し出している人」「怖れに苛まれていて、愛という助けを求めている人」として見ることを選択すること。

私たちが経験することの正体は「世界」というスクリーンに映された自分のココロの状態です。
「エゴ」という名の偽の映画監督は、「怖れ」の別名でしかありません。
は、人をつなぐ映画だけを創るのです。


Part1のまとめ
・ココロのやすらぎが、私たちの唯一の目標である。
・私たちがココロのやすらぎを得るために、他人に変化してもらう必要はない。
・内なる声は、人生の方向性を示し、必要なことを達成する手段を与えてくれる。


***************


【Part2 私はすべてのものを、こうあってほしいと思う姿で見ます】

人は自分が信じるものでつくられる
何を信じるかは、過去の経験に左右されている。
自分が誰なのか改めて見直すことにより、本来の自分をより深く感じられる。


いつでも自由を選べる
肉体的な感覚によって、制限されている「現実」の中に閉じこめられないこと。
怖れと愛を同時に経験することはできません。どちらを望むかは、常に私たちが選ぶのです。
愛を選びつづけることで、人との関わりの本質を変えることができます。


攻撃とは防御のこと
攻撃はつねに、「怖れ」と「罪悪感」から生じています。
多くの人は、他人の間違いを正そうとするが、建設的な批判をしているつもりでも、その実、
相手が間違っていて、自分が正しいと相手を攻撃しているのです

ものの見方、感じ方を決める権利は自分にあるのだと、自覚することが必要。
やすらぎとは、相手をありのままに受け入れることから生まれる。その時、人は決して「要求」も「期待」もしないもの。


ゆるしとは、過去を手放すこと
これは、誤ったものの見方を修正する手段にもなる。
自らの選択で「忘れる」プロセスを通して、過去を再現する必要はなくなり、現在を受け止めることができる。

「人はみなバラバラの存在」という考えがなくなれば、まわりに癒やしの愛を注ぐことができる
癒やしは、「私たちは一体だ」という思いから生まれるものなのです。


得ることと、与えること
私たちはよく「条件つきの愛」を取引する。この「何かを得る」という動機は「苦悩と葛藤」となる。
それは「過去・現在・未来」という直線的な時間の概念とだけ結びついている。
一方、「与える」というのは、何も期待せず、境界線を設けず、無条件に自分の愛を差し出すこと


ココロを再訓練する質問
Q:愛を見つける人、欠点を見つける人、私はどちらを選ぶのか?
Q:愛を与える人、愛を求める人、私はどちらを選ぶのか?

ココロのやすらぎを望むなら、相手との一体感をもたらす気持ちの伝え方が大切。
自分の思い、言葉、行動を一致させましょう(これがバラバラだったから、私は壊れたんだな


使ってはいけない言葉はゴミ袋へ
不可能
できない
とりあえず、やってみる
限界
~さえ~だったら
でも
そうはいっても
むずかしい
~すべきだ
~かどうか疑わしい

架空のゴミ袋を持ち歩き、これらの言葉を使ってしまったら、袋に放りこみ、地面に埋めるところを思い描きましょう。
どんな時も、自分に優しくするのを忘れないことが大切。
これらの言葉を使ってしまったら、「失敗しただけ。これから気をつければいい」と考えて、罪の意識を持たない選択をしましょう。


Part2のまとめ
・自身を含めたすべての人を、「非難されることなど何もない人」として見る。
・誤った目標を選んだら、「怖れに反応している」と考える。

・時間が存在する大きな意義の1つは、「私たちが何を体験したいのか」選べるということ。
・すべての人のココロはつながっていて、1つである。

・変えられるのは、自分が世界をどう見るか、他人をどう見るか、自分自身をどう見るか。
・「怖れ」は私たちの心がつくり出すもの。したがって「実在しない」もの。
・私たちが経験することは、外界に投影された自分のココロの状態である。


***************


【Part3 愛だけを教えなさい。なぜなら、あなたは愛そのものだからです】

本書の指針は、日々の生活の中で実践して初めて意義がある。

レッスンから最大限の効果を引き出すために
毎日、目覚めると同時にリラックスし、想像力を使いましょう
自分にとって居心地がよく、落ち着ける場所にいるところを想像してください

・眠りにつく前、その日のレッスン内容をおさらいしてください。そして、それを夢の中に取り入れたいかどうか、自分に質問しましょう


●レッスン1 私が与えるものはすべて、私自身に与えている

「与えることは、受け取ること」
愛の法則の土台になっているのは「あふれるほどの豊かさ」という概念です。
一方、外界の法則は「与えることは、失うこと」とされています。

世界の法則は「欠乏」という概念に基づいていて、私たちが満たされることはない、と考えます。
自分の望みを他人に満たしてもらおうと考え、相手がその期待に応えてくれない時、苦悩を感じる
その苦悩は、焦燥感、失望、怒り、抑うつ状態、病気などで表れる。

相手は自分を変える必要もなく、私たちに何かを与える必要もありません。

『A World Beyond』ルース・モンゴメリー著

葛藤を起こさせるような疑問はためになりません。
自分の身に起こっていることにうまく対処するには、自分が力になれる相手を見つけること。


マザー・テレサから学んだこと
マザーから放たれる、愛、気品、平静さのあふれるオーラの力強さは、言葉では説明できません。

私がマザーから学んだ教訓は、「やるべきことを知るために、自分の外に道案内を求める必要はない」ということです。
与える時は、「そのうち」ではなく、つねに「今」であり、
見返りを期待したり、限界を設けたりせずに与えれば、すぐに内なるやすらぎが訪れるということ。

今日、私は、自分が受け取りたいと思うものだけを人に贈ります。



●レッスン2 ゆるしは幸せにいたる鍵である
ゆるしは、ものの見方を変え、怖れや、人を裁くココロ、不平などを手放す手段です。
忘れるべきことは忘れ、怖れに満ちた過去を現在に重ねているサングラスを外せば、愛は永遠に存在するということが経験できます

ゆるしは上に立って行うことでもなく、気に入らない相手の行動をガマンしたり、大目に見たりすることではありません。
「相手が自分を傷つけた」という誤った解釈を正すことです。

ゆるさない心は、「自分が他者を見る解釈には間違いがない」と思っています。
自分の怒りは正当で、人を有罪にする判断は正しいと自信を持っています。
過去と未来は同じだとかたくなに考えて、変化に抵抗します。
なにもかもがバラバラに存在すると考えます。

すすんで他人をゆるせなければ、自分をゆるすことはできません。
過去に誰かから何をされたとか、自分が何をしたとかは問題ではありません。

過去、金銭に対する執着を手放し、ゆるしを実践し、相手との関係を癒やすのです。

責められるべき人と、そうでない人がいるという過去の思い込みを手放すこと。



●レッスン3 私の心の動揺は、私が考える理由によるものではない

私たちは自分が信じるものだけを見ている
ほとんどの人は、過去の経験、五感に基づいて、何を信じるかを判断しています。
すると、外界が「原因」で、自分は「結果」だとみなすようになります。

ここでもう一度、心は「映写機」のようだと考えてみましょう
私たちは苦しい時、世界と人々を、自分の心を乱す存在といて見ています。
一方、心が穏やかな時は、世界と人々を、穏やかな存在として見ます。

そうではなく、「心にどんな思いを持ちたいか」を選ぶことで、自分の内側の世界をコントロールできるのです。
動揺、怒り、嫉妬、恨み、落ちこみ、それらはすべて、私が感じている「怖れ」を表しています。


ゆるしで長年の腰痛が消えた
私は自分の心が穏やかでないのは、肉体的な痛み、その不安のせいだと思っていた。
ある日、たしかに腰の症状はあるけれど、痛みを引き起こしているのは自分自身だと分かった。
「心が体をコントロールしている」ことに気づかず「肉体が心をコントロールしている」と自分に思いこませようとしていた。

ゆるしを通して不満を手放すことを学んでから、腰の痛みは消えてしまった。

「あなたがが見るものが、あなたが手にするものである」(フリップ・ワトソン)


●レッスン4 私はものごとをちがった目で見ると心に決めている
私たちの目に映る納得できないことだらけの世界は、自分の考え方の結末なのかもしれない。
恐ろしい過去は、そのまま恐ろしい未来につながり、「過去と未来は1つ」だという考え方です。

私は、家族中がつねに「怖れ」を抱いて生活しているような家庭で育ちました。
家族全員が同じ前提で物事を見ていたので、予測はかならず現実になりました。

自分が過去から大事に抱えてきた前提、価値観を、1つ残らず見直さなければなりません。

私は人生を、まるでロボットのように振る舞い、他の人が言うこと、することに反応してきました。
でも、今は、自分自身を解放します。


与えることに集中すると怖れは消える
与えることで頭がいっぱいの時は「怖れ」は感じません。
どんな心の状態でいるかは、自分の責任です。私たちの見方次第。
ロボットのように振る舞い、愛と怖れ、どちらを体験するかの決定権を、他人に委ねるのは止めましょう。


内なる道案内に従う
ものの見方を変えれば、今とは正反対の考え方ができるようになります。
ほとんどの人は、「手段」を見つけるのにエネルギーを使い果たして、「目標」を見失ってしまいます。

私はロボットではありません。私は自由です。私は、今とは違うものの見方をすることを決心します。



●レッスン5 攻撃の思いを手ばなせば、私の見る世界から脱出することができる
世界についての自分の思いを変えることで、世界を変えるのです。(オノ・ヨーコさんの「イマジン・ピース」だな
思いを変えることで、「原因」を変えることができます。
自分の目に映る世界という「結果」も自動的に変わります。

この新しい概念は受け入れがたいものです。
未来を容易に予測できたこれまでの考え方を放棄し、自分の思い、感情、反応に対する責任を引き受けることに抵抗を感じるからです。

人から攻撃されていると感じる時、実は自分の心の中で生まれたものだということに、なんとか気づかないようにしています。
でもそれが分かると、自分が抱く攻撃的な思いは、自身を傷つけていると気づきます。
自分の怒りを正当化しても、自分を守ることにはなりません。

人を攻撃すれば何かが得られると思った時は、誰よりも自分を攻撃することになるのだと思いだしましょう。

今日、私は、自分をまた傷つけることは望みません。


怒りを手放すことの大切さ
「アティテューディナル・ヒーリング・センター」では、世界中の子どもたちが、互いに助け合うことで平和を見出しています。


●レッスン6 私は自分の目に映る世界の犠牲者ではない
内なるやすらぎを確実なものにするためには、誰もが罪のない存在である世界を見なければなりません。
今までに感じた愛以外の過去の出来事は、すべて意味がないと考えることから始めましょう。

私が外界に見るものは、その前に自身の心の内にあらかじめ見ていたものの反映です。
「自分が見たいもの」について考えを変えることで、世界に対する見方を変えられます。


セールスマンも顧客も幸せになる(急に金の話になった
私は、これまで、これから車を買おうという時、猜疑心のかたまりになって臨むのは世間の常識だと思っていました。
セールスマンなんて信頼できな人種です。
その頃、気づいていなかったのは、そういう心構えで臨むと、選択肢がなくなるということです。
自分の過去から特定の要素だけを選んで、現在の相手を判断する材料にしてしまったのです。



●レッスン7 今日、私は何が起こっても裁こうとはしない
ほんの短時間でも、誰かと一緒にいて、その人を批判しないでいることは滅多にありません。
すぐに完璧さを求めず、人を裁こうとしない努力を始めましょう。

ほとんどの人は、心理学で「トンネル・ビジョン」と呼ばれる「視野狭窄」の状態をつくり出します。
他人を全体像としてとらえることができず、一部だけを目にして「欠点」として解釈します。
批判の正体はたいてい「あら探し」なのです。

無条件の愛を経験するには「評価したがる自分」を捨て去ることが必要です。
大切なのは、自分を含めたすべての人に、今日のレッスンを応用することです。

他人を無条件に受け入れ、相手を変えようと臨まないことを学んだ時、同時に、自分自身を受け入れることを学ぶのです。
私たちが考えること、言うこと、することは、すべてブーメランのように自分にはねかえってきます。

会う人すべてを、愛を差し出している人、あるいは怖れに苛まれて助けを求めている、愛を求めている人だとみなしましょう。



●レッスン8 今という瞬間が、存在する唯一のときである
子どもは、世界を「バラバラのものでできている」とは見ていない気がします。
だから、真の純粋さ、愛、知恵、ゆるしといったものの象徴なのです。

けれど、歳を重ねるにつれて、大人の価値観を受け入れるようになります。
過去に学んだことをもとに現在を過ごし、未来を予測することが重要とされます。

過去の苦悩に固執していると「きっと未来もこんな風になるのだろう」と考えてしまいます。
すると、私たちの心は脆くなり、「過去はまた繰り返されるだろう」と予測します。

私たちは、自分が予測するものを見て、予測するものを招き寄せているのです。
すると、過去の罪悪感と怖れは絶えず繰り返されることになります。

「今、この瞬間が、存在する唯一のときである」と考えると、永遠のときが始まり
未来は途絶えることのない平和な現在の続きになるのです。

やすらぎは過去や未来ではなく、今、この瞬間にだけ見出されるものです。


著者の友人からの手紙の抜粋
その人は私自身であり、私はその人でした。私たちは一体となったことを喜び合いました。
ほんとうに愛すること、尊重すること、ゆるすことは、こういう気持ちなのだと分かりました。



●レッスン9 過去は過ぎ去ったことであり、私に触れることはできない
過去に傷つけられたという思いがある時、将来また傷つけられないために、私たちは「防御」をかためていきます。
こうして、怖れに満ちた過去から、怖れに満ちた未来が生まれて、過去と未来は1つになります。

私たちは、過去の経験を基準にして現在を判断することを「自然」ととらえています。
けれど、それは歪んだサングラスをかけて現在を見ることになります。

相手のほんとうの姿を見ようと思うなら、彼らの過去も、私たち自身の過去も、
現在には何の影響力もないことに気づかなければなりません。

罪の意識を生み出す、辛い過去の経験に縛り付けているのは、
過去や未来をコントロールし、予測したいという、自分自身の強い思いです。
「罪の意識」と「怖れ」は互いに結びついて、過去はそのまま未来へ続くのだと、私たちに信じさせようとします。

私は今、過去の歪んだ見方から解放され、現在の中で自由に生きる可能性をこの手に戻します。

例:
風船に「私は自分の誤ったものの見方をゆるします」と書いて、空に消えていくイメージをする。



●レッスン10 私は、これを見る代わりに、やすらぎを見ることができる
ほとんどの人は「幸せになるかどうかは、まわりで起こることと、他人が自分にどう反応するかで決まる」と思って人生を送ります。
「運の良さ・悪さ」で決まると感じたりもします。

怒り、落ちこみという反応は、外部からの刺激に対する私たちの「解釈」が原因です。
それは不完全なものの見方から生まれています。

私が日々体験する様々なことは、私が自分の内面に見ている混乱を反映しています。

今日、私は自分と世界に対する新しい見方を喜んで受け入れます。


母と自分の間に愛を見ること(出た!
私には88歳になる母がいます。54歳になった今でも、私は母を喜ばせたいと思い、悲しませたくないと思います。
でも、それを母が喜んでくれない時、動揺し、ワガママな人間だという見方をしそうになります。
そんな時、「私たちの前にある選択肢は、やすらぎか葛藤かだ」というレッスンを思い出させてくれます。
母を変えたいと思わず、受け入れることを選べるようになり、母はいつも大事なことを教えてくれる存在だと気づきます。
(黙って相手の要求を受け入れてばかりだと、先日の「アサーティヴトレーニング」と矛盾しないかなあ・・・


他者を助ければ、自分が幸せになる
人は病気になると、愚痴を言い、自分を憐れみ、肉体にばかり意識を集中させます。
センターで子どもを相手に活動していると、「他者を助ければ、自分が幸せになる」のだと気づきます。



●レッスン11 私は、傷つける思いのすべてを変えることを選択できる
「人の心は本来、自由な意思を持ち、自由に選択するようにできている」という事実を大抵の人は忘れてしまいます。

そんな時、想像力をはたらかせて、出口を見つけるのです。
過去の問題を解決しようとするあがきから解放された感覚とともに、現実に戻ってください。

ものごとを「問題」としてでなく「学びの機会」と見れば、1つ1つの教えを学んで、喜びと幸福を感じることができます。

私たちに学ぶ用意ができるまでは、学ぶべきことが現れることはありません。


相手も怖れていることを知る
ある日、精神科の隔離病棟で患者が突然暴れだしました。
身長190cm、体重130kgほどの男性が、釘が何本も出た木片を手に叫びながら部屋中を走り回っています

私は医師という立場で相手を操る作戦を選ばず、
「部屋に入って君の力になりたいが、怪我をさせられるのではないかと思うと怖いし、君が怪我をするのではと思うのも怖いんだ」と言うと、
彼は「オレも怖いんだ」と言い、話し続けるうちに怖れは消え、男性は私を部屋に招き入れてくれました。

この患者を敵ではなく、教師として見たからこそ、彼は私に気づかせてくれたのです。
私たちはみな、病んでいるという点では変わらず、違うのは、どんな形で病んでいるかだけではないか、と。



●レッスン12 私は私に何が見えるかに対して責任がある

私の身に起こるように見えるものはすべて、私が求め、求めたとおりの形で受け取るものである。


*********************************************

●おわりに
いくつもの目標を掲げて葛藤に陥るのではなく、「やすらぎ」という、ただ1つの目標を選びつづけましょう。
ゆるしを実践し、互い、そして自分を、非のない存在とみなしましょう。
「現在」というときを、愛情をこめて見つめましょう。
得ることではなく、与えることだけを考えましょう。
私たちはみな1つの自我としてつながっていることに気づきましょう。


●2004年版によせて
私(著者)は子どもの頃から「失読症」だったため、1943年、バークレー校を悪戦苦闘の末に英語のコースを終えて、成績はギリギリのD。
最後の授業で、担当教授はこう言いました。
「これからの進路は知らないが、何があっても本を書こうだなんてことだけは考えないでくれよ」

自分の能力の限界を判断する権利を、他人に譲り渡すのはもうやめよう。
ずっと他人から「お前にはできない」と言われてきたことをやろうと決めたのは50歳の時でした。
私は本を書き、このささやかな本が400万部以上売れ、29ヶ国語以上に翻訳されていることに、今も畏怖を感じています。

失読症
視覚または発声器官に異常がないのに、文字を理解することができない、または読むことのできない病的状態。


1979年の出版以来、本書は読むべき人のもとに、人生の中でまさに今、読むべきときに届けられています。
本は、そこに書かれているメッセージを受け取る準備ができた時、その人のもとにやってくるものです。しかも、信じられないような形で。

イランを訪れた時も、ペルシャ語に翻訳され、国内で広く流通していると知り、驚くと同時にとても嬉しく思いました。
明らかに海賊版でしたが、それには目をつぶることにしました
私たちにとっては、このメッセージが、それを必要とする人に届くことのほうが大切だったからです。

私が「アティテューディナル・ヒーリング・センター」の創設に関わったのは1975年のことでした。
「アティテューディナル・ヒーリング」は、「私たちに苦悩をもたらすものは、他人や状況ではない」という原則に基づいています。
苦悩の元は、私たち自身の考えや姿勢であり、その結果、私たちがとる行動が自分を傷つけるのです。
私たちが目指すのは、人生で困難に直面するたびに、自分を癒やすことなのです。

センターの最初の活動は、重病に苦しむ子どもたちと、その家族に対する支援でした。
センターが支援を必要とする方々に対して直接行う活動は無償です。
※一般向けに公開されているトレーニング、ワークショップは有料。

ゆるしとは、ひどい行いを大目に見たり、認めたりすることではありません。
「私はもう、自分を痛めつけることはしない」と決心することにほかなりません。

ゆるしとは、「苦しまない」という決意をすること。
幸せになるという決意、裁きの心を捨てる決意、他人と自分を傷つけるのをやめる決意、
怒りと怖れの循環を断ち切る決意をすることです。

「アティテューディナル・ヒーリング」は、世界中に広まり、5大陸、28カ国に130を超えるセンターとグループができています。


●解説/「アティテューディナル・ヒーリング・ジャパン」代表 水島広子(精神科医、前衆議院議員)
(こないだのクリニックで水島さんのことを話したら有名な方だそうな

「怖れ」をどうするかは、ずっと私のテーマでした。
「社会制度が整えば人の怖れはなくなるのではないか」と考えて、国会議員になったほどです。
しかし、ある時から「社会制度が整えば・・・」という考え方そのものが「怖れ」をつくり出しているのではないか、と考えるようになりました。
そして、ちょうどその頃に本書に出合ったのです。

「アティテューディナル・ヒーリング」のワークショップを訪れた方には、
「今日の午後から体験されるでしょう」とだけ申し上げて、そのままにします。

午後には、グループでお互いの話を聴くだけです。でも、聴き方が特別です。

いつも私たちが、人の話を聞く時は、同時に「自分の考え」も聞いています。
過去から自分がつくり上げたデータベースの雑音を聞いていることがほとんどです。
それを手放して、相手の話に集中するのです。
相手の話を[解決すべき問題」として聴くのもやめてもらいます。

このワークショップは、「聴き方のトレーニング」であり、話し手も「無条件の愛を感じる」という素晴らしい経験をされるようです。

愛とは、自分の中にある「ポカポカとした温かいもの」であり、怖れを手放すと自然に感じられます。
怖れを手放すためには、ただ現在に集中すればいのです。

「アティテューディナル・ヒーリング」が言う
「私たちの本質は愛であり、その上に怖れが垢のようにこびりついて見えなくなっていても、愛は変わらずそこにある」
ということが真実だと改めて感じさせられます。

「アティテューディナル・ヒーリング」の原則の1つである「与えることは、受け取ること」そのものです。

「アティテューディナル・ヒーリング・ジャパン」は、完全にボランティアで行われている活動ですが、
トレーニングを終えた「ファシリテーター」の方たちが、各地でサポートグループをはじめています。

ファシリテーター(facilitator)
1 物事を容易にできるようにする人や物。また、世話人。
2 集会・会議などで、テーマ・議題に沿って発言内容を整理し、発言者が偏らないよう、順調に進行するように口添えする役。議長と違い、決定権を持たない。

「人のため」と思うと、そこには、執着心、被害者意識、完璧主義などの「怖れ」が生じます。
でも、すべては「自分の心の平和のためにやっているのだ」と心の姿勢に責任を持つことが基本になっています。

差別、災害など「被害者意識」が起こりがちな場面でも大きな力を発揮しています。
アメリカで、唯一成功している人種差別対策と言えるかもしれません。

問題を解決しようとすると、私たちは「怖れの綱引き」状態になってしまいます。
「私のほうが正しい」「いや、私のほうが」という具合にです。

相手の怖れにエネルギーを供給するのは自分の怖れなので、お互いの怖れは強まるばかり。
まずは自分が怖れを手放すことで、相手も手放しやすい環境ができるのです。
社会はこうしてしか変わらないだろう、というのが私の現時点での考えです。

これを書いている現在、著者のジェリー(ジェラルド)は、83歳。
毎朝散歩をし、週3回はスポーツジムに通い、とても健康です。
毎朝、目を覚ますと「今日の唯一の目標は、心の平和。今日の唯一の役割は、ゆるすこと」と
自分が納得するまで布団から出ないそうです。

『怖れを手放す』(星和書店) (その2)

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『怖れを手放す』(星和書店)
水島広子/著

その1からのつづき。
内容的には、復習の意味で繰り返しも多い。

【内容抜粋メモ】

アティテューディナル・ヒーリングの原則~12の柱
原則なので、いちばん大切です。原則の定義は別に決まっていないからです。
ですから、皆さんにはこれから一生をかけてご自分なりの定義を考えていただきたいのです。

原則1:私たちの本質はあたたかいこころ(愛)

原則2:健康とは、こころの平和(やすらぎ)、癒やしとは、怖れを手放すこと。

原則3:与えることは、受け取ること
これを読んで「ギヴ&テイク」と思わないでほしい。
私たちは人に与えるこころの姿勢そのものを、自分でも受け取っているという意味です。
与えていることそのものが「気持ちいい」という感じです。

相手がお礼を言わないと頭にきたり、「こんなにやってあげたのに評価されない」とすごく気になります。
相手を攻撃している時は、自分も同時に攻撃しているので、こころが平和にならないのです。

そう考えると「燃え尽きる」という現象も、燃え尽きるような働き方をする時は、
「これを断ったらプロではない」「嫌われるのでは」、完璧主義の人は「自分がゆるせない」と思ってムリをします(したした
単に働いている仕事量以上にボロボロになります。

原則4:私たちは、過去も未来も手放すことができる
「手放すべき」ではなく、その気になればできると書いてあります。

原則5:存在する時間は「今」だけ。それぞれの瞬間は与えるためにある
私たちには「与えるモード」の時と、「受け取るモード」の時があります。
「ここで親切にすれば、この人は私を愛してくれる」みたいな。これは一見「与えている」ように見えて「受け取る」ほうに目がいっています。
一方、与えるのは「今」でないとできないので、与えるほうに意識を向けていれば「今」にいられます。

原則6:私たちは評価を下すのではなく、ゆることによって、自分や他人を愛することができるようになる。

四つの組み合わせ
自分をゆるすことで自分を愛せる
他人をゆることで他人を愛せる
自分をゆるすことで他人を愛せる
他人をゆることで自分を愛せる


原則7:私たちは、あら捜しをするのではなく、愛を見つける人になることができる

原則8:私たちは、外で何が起こっていようと、こころの平和を選ぶことができる。
外で起こっていることと、こころの平和が直接関わっているわけではない、ということを言っているので、
外で起こっていることを変える自由もあるということは忘れないでください。
変えたいことは変えればいいし、やりたいことはやればいい。
ただ、こころの平和は自動操縦的に決まるわけではないことです。

原則9:私たちは互いに生徒であり教師である

原則10:私たちは、自分たちを分断された存在ではなく1つの命としてとらえることができる
これは「私たちは、人生を断片ではなく、全体としてとらえることができる」と訳すこともできます。

原則11:愛は永遠のものなので、変化を怖れる必要はない

「死」への怖れ
アメリカ・サウサリートのセンターでは「死を怖れる必要はない」というバージョンを使っています。
死後の世界を信じていない人にも関係があります。
ジェリーがセンターをつくったきっかけの1つに、致命的な病をもった子どもたちの観察があります。

小児がんの子どもが一番知りたかったのは「人間って死ぬとどうなるんだろう?」ということでした。
でも、周りの大人たちは「かわいそうな質問」にしか聞こえず、聞くのが辛く、その子を避けるようになってしまった。
最終的には、掃除のおばさんに「天国があって、神さまがいるんだよ」という答えが得られました。

答えが得られない間、その子は本当に寂しい思いを続けました。
その子が学んだのは、人は本当の気持ちを話すと、離れていくということでした。
なぜかというと、まさに死への怖れ、大人たちの過去のデータベースなんです。
単なる質問として聴くことができなかった。
これは、「生」の質、死ぬ前の「人生の質」にも大きな影響を与えているということです。


原則12:どんな人も、愛を差し伸べているか、助けを求めているか、のどちらかととらえることができる
これは原則の中でも人気、実用度ナンバーワン。今日から使えるAHです


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「聴く」姿勢を身につけるためのトレーニング

全体のすすめかた
あくまでも「聴く」ほうがメイン。話す方は練習の場を提供する役割です。
自分の話、気持ちを中心に話すこと。

1人の持ち時間は5分間。状況説明をすると足りないので、細かい状況説明はしないでほしい。
自分を主語にする。「ウチの家族はこう思っていると思う」ではなく、「自分はこういう気持ちになる」という話し方。
気持ちが出るという意味では、悩みごとが話しやすいのでお勧めです。
カッコつけて話さず、自分に評価を下さずに話してください。
5分経つとタイマーが鳴り、カードを1枚引いて、声に出して読み、それについて感想を簡単にお話しください。

相手の「現在」にとどまる
過去や未来にさまよう頭を現在に引きも戻しながら聞くこと。
相手をちゃんと見て聴くことをお勧めします。見ないで聴くと、頭の中で自分の考えがまた回り始めるので。
目をつぶって聴く方もいますが、相手を見て聴いたほうがいいです。

「あ、私も同じことがあった」「この人って・・・」と出てきたら、「また過去のデータベースに入ってしまった」と思って、
「現在、現在」とただ戻る。自分を責める時間はありません。

「問題」として聴かない
話している方の本質は愛で、プロセスがあって、たまたま今の小道具として悩みがあるだけですから。
「問題」として聴くと、「問題さん」が主役で、その人はそれを持っているだけの人みたいになります。
そこはかとない安心感をもって聴くと聴きやすいかもしれません。

今日は、聴き終わった後のコメントは一切禁止します。どんなに賢いアドバイスを思いついても言えないので考えないでくださいw

話す順番は決めません。準備ができた方から順番に話してください。
心配性の方は早めに話したほうがいいですね。


例:Tさん
私は派遣社員で、自分の分野と全然違う翻訳をしています。もともとは料理人なんです。
私が離婚をしたりした時に、物質的なもの、金銭的なものをすべて失った。
まだやっぱり整理がつかない。すごくやりたいことがあるけど、その扉を開けるのがものすごく怖いなと思って1年ほどいる状態。

引いたカード:私は見ている世界の被害者ではない。私が見ているのは、私のこころの反映です・・・

(全員話し終えて

相手の現在が聴けた時、どんな感じだったか?
a:私は男だが、女性の病気の話にしても、やはり私なんですよね。

自分と相手の境い目がない、「自分」がなくなった感じがしませんでしたか?
日ごろいかに自分を感じて生きているかということかもしれませんが。

b:評価せず、つながっている気持ちを受けた。

状況説明より、気持ちを話している時につながりを感じませんでしたか?


愛をもって聴くと、愛を受け取る
常識だと辛い話を聴くと、辛くならなきゃいけないのに、なぜか温かい、いい気持ちになってしまう
「問題」として聴かずに、愛の姿勢で聴くことが、愛を与えていたということ。

「共感」と「共鳴」
「共鳴」
辛いと思った人は、相手の辛さに引っかかって、「自分もそうだった」と過去のデータベースに入ってしまった。
「問題」として聴いて、ずっと「共鳴」していると、すごく疲れる

「共感」
相手の現在にいながらできる。「人の話を聴くって案外いいな」と感じられる。

c:日ごろは意識しないが、今日は「全身が耳」という感じ。


「聴く」ためのトレーニング
d:過去の自分の経験にすぐ結びつけちゃう。

何度も過去に行ってしまったと意識できることが素晴らしい。

e:ニックネームだけで参加していることは安心感がある。

今日は実はすごく聴きやすい工夫が何重にもしてある。
まったく知らない人だから、相手についてのデータベースがない。
けれども、状況説明になると、どうしてもデータベースに入ってしまう。
5分に区切ったのも「この話いつまで続くんだろう」という恐怖感がない。
コメントがないから、聴きやすい。

でも、日常の場合、家族などはとくにデータベースがいっぱいあるから、脇に置かなければならないものもたくさんある。
だから、人の話をよく聴きたければ、まずはこういう雰囲気をつくって聴くと、相手が話しやすくなる、自分も聴きやすい。
「今から20分間、余計なことを言わずに、なんでも聴いてあげるから、気持ちを話して」と言って聴くだけでも、ずいぶん関係性が変わると思います。


アドバイスがないことによる安心感
例えばコメントがあると事前に分かっていたら、違う話をしただろう、話し方も変えただろうと思います。

f:構える姿勢で話して、うまく伝わらなかったんじゃないかと思いました。

「ちょっと危険だから少し防御しなきゃ」と、本当にさらけ出して自分のプロセスを進めることができなくなる。

g:自分は営業なので、話す時はプレゼンという形になる。ある程度のレジュメがあるけど、
  フリートークだと、質疑応答があるのが染み付いてしまっているので、難しかった。

人が喜んでくれてるか、場違いな話をしてないか、確認しながら話している=自分に下す評価
(仕事には必要な要素もあるから、プライベートと分けるってことなのかなぁ?

h:シーンとしているのが、「受け入れられている」という証明みたいな感じ。

i:ヘヴィな話だと、絶対に引かれるから、いつも自分のプライバシーは言わないけど、ここでは安心して言えた。

「共鳴」されると、話し手にとって辛い時がある。「申し訳ない」とか「私ってそんなにおかしいの?」とか。

j:あたたかい目で見られていたので、決して恥ずかしいことじゃない。逆にそれを自分が受け入れたので、リラックスできた。

後になってから、本当の素直な気持ちが出たりすることも多いですね。


「カード」による気づき

k:「これは私にくれたメッセージなのかな」とフシギな感覚が何度もあった。

あのカードをただペラペラ読んでいても、こんなにこころに沁みない。
さらけ出して話した後だから沁みる。ぜひまたカードを活用してみてください。


「ランプのかさ」ではなく光だけを見る
相手の話だけを聴けた時は、どんな顔で喋っていたとか、あまり覚えていない。
とてもいい雰囲気は覚えていて、細かいことはよく覚えていないと思う。

l:外見でその人のイメージが自分なりにできているが、話を聴くことで、その人のあたたかいこころが伝わった。


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入門ワークショップ後のステップアップ~頭で理解しないようにする

「サポートグループ」
今日、体験したグループの「コメント付き」の形になります。アドバイスは禁止です。
今日のグループのことを何度も繰り返していくのが「サポートグループ」です。大体いつも2時間です。

「ボランティア・トレーニング」
誰でも参加でき、これには宿題がある。
1.パトリシア・ロビンソンの「アティテューディナル・ヒーリングの原則のひとつの定義」を一度は読むこと。
2.今日使ったカードを毎日の生活の中で使ってみること。

実際には、これから毎日トレーニングしないと、こころの筋力はついていきません。
思い出す回数が多いほど訓練になる。

“こころの平和を求めるなら、他人とのコミュニケーションが、人とのつながりの感覚を増すものであることが重要。
 こころの平和を得るには、考えること、言うこと、することに一貫性があることが必要”

もう一度「入門ワークショップ」に参加も可能
くれぐれも注意してほしいのは、完璧主義的に何度も受けること。
仮に全部暗記しても、自分が人との間であたたかさを体験していかないと分からない。


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入門ワークショップの終わりに

Q:カードの使い方を教えてほしい

A:カードには、毎日使う「基本のカード」があって、、それを毎日読み、さらにもう1枚、その日の分を読む構造。
  皆さん、いろいろな形で使われています。1日に何枚も読みたくなるが、1枚をじっくり読む形がいいと思う。

Q:AHは宗教か?

A:これが宗教的に見えるという人はたしかにいる。でも、それは違う。
  ジェリーが創設した時の基礎になった本があるが、そこから宗教的なものをいっさい排除したものがAH。
  ここには、神というような言葉は出てこない。
  ジェリーの本の中に「神」という言葉が出てきたら、それは「自分の中のこころの平和」「自分のこころの声」と思ってほしい。


・参加の感想(省略)

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「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」パトリシア・ロビンソン

私たちは今日、非常に大きな問題に直面しています。
私たちは常に外部の刺激を浴びせられ、こころの平和を見つけるのは、健康のために欠かせません。

序文 ジェラルド・G・ジャンポルスキー
パッツィは、センターが1975年に初めてスタートした時からいました。共同創始者の一人です。
パッツィと私がイギリスにいた時、友人がエナトゥウィグという有名な超能力者とアポイントメントをとってくれた。
エナは「AHが世界中の人を助けるのが見える」と言ったが、私は全然信じなかった。
パッツィが昔書いたこの文章が読めることを幸せに思う。


[本文]
AHは、自分、他人、世界を裁くことなく見られるようになるためのスピリチュアルな道です。
目標は行動を変えるのではなく、変化のための最も強力な手段、つまり「こころのあり方」を変えることなのです。
AHは、私たちの人生における創造的な力になります。

私たちの本質は愛で、愛は永遠
愛は、経験することだけができるもの。愛はエネルギー、不変、永遠。
科学者が「生命力」と呼ぶもの。

大切なのは「負の感情」のために愛を感じられないと認識すること。
「怖れ」は「エゴ」の仕業です。愛は分かち合うためにある。

センターに9年も背中の痛みに苦しむ女性が来て、私たちは約10名のグループ参加者に
「30秒ほどこの女性に愛を送ってもらえないか」と頼み、
今度はその女性に「グループ参加者に同じことをしてくれないか」と頼んだ。
ミーティングの終わりに女性は「この1時間、背中の痛みがすっかり消えていた」と言った。

このミーティングで起こったことは、見たり測定したりはできない。
私の目標は彼女の痛みをとることではなかった。
ただその時に集中し、愛を送り、結果については心配しないということ。
人の気持ちはハッキリと送ることができる。他の人はそれを深いレベルで感じることができる。


健康とはこころの平和。癒やしとは怖れを手放すこと
こころの平和を得るには、まずそれをただ一つの目標とすること。
私たちにはいろいろな感情があり、すべて怖れに関連している。「怒り」「嫉妬」「罪悪感」「落ち込み」など。

こころは私たちが持っている最強の手段で、変化に向けての意識・意欲を持つことが必要。
真実を裁くことなく教えてくれる声。次のステップは「感情を体験する」こと。

怒りを感じた時、それを感じ、認め、優しくすること。
「怒り」は当然の気持ちで「悪い」というレッテルを貼って否定することはない。
本当に自分の怒りを知って初めて、変えられる。これは一瞬でできる。

センターに来た女性で、9歳の娘が重症の白血病を抱えていた。
彼女はジェリーと会ってものの受け止め方を理解し、ボランティアとして同じ体験をもつ大勢の親を助けた。
「あなたはこころの平和を選べる」という意味でなく、どんな状況でも「親たちのために彼女がいた」ということなのです。


与えることと、受け取ることは同じ
世の中には「与える人」はたくさんいるが、普通、受け取り方を学ぶのに苦労する。
「受け取る人」は、与え方をよく知らない。

「与える人」は、相手を「操作」しながら助けている。相手が期待に応えないと失望する。
「受け取る人」は、次々と要求を出して、満足できない。
どちらも、自分を満たすものを外側に探していて、自分の内側には空虚感を抱えている。

AHは、条件も、エゴもなく、期待もせず、境界線もない。
他人と一体化する感覚を持ち始めると、自分のことは忘れ、気にしなくなります。

グループでは「自意識」を忘れることができます。
助けられているほうの人はほぼ自動的に怖れや不安を手放し、他の人と一体化でき、癒やしが起こります。


私たちは過去も未来も手放すことができる
過去は学習のためにあります。経験には価値があり、成長の糧になります。私たちがそういう見方を選択すれば、ですが。
でも、過去に浸るのは私たちの為になりません。「こうならよかったのに」などは邪魔になるだけ。
つまり、こころがしっかりと目覚めて生き生きしているように訓練が必要。

もちろん「計画を立てる」のは大切。どう区別するかというと、意識が現在に留まっているか。
私たちは未来の予見はできません。何が起こるか、起こらないかに浸るのは生産的ではない。
未来に向けての自分の意思を決めておくこと、実現に向けてさらなるステップを踏むことだけなのです。

過去の考えで役に立たないもの、苦痛をもたらすものは、選んで変えられるということ。
そのためには、それに気づき、手放すための意識的な選択をすることが重要。


あるのは今このときだけ。すべての瞬間は与えるためにある
私たちはすぐに、過去のことを考えたり、将来への不安を膨らませてしまう。
私たちが現在に留まれば、すべての出来事に一番良い形で対応できる。

私たちは外で起こることをコントロールできない。それをすると平和な気持ちにはなれない。
でも、自分の考えをコントロールすることならできる。
「受け取ろうとする気持ち」から「与えようとする気持ち」に変えると、外で起こることに明らかな変化に気づくようになる。

ある青年がグループで「米ソの関係が良くならないのはどれほどアメリカに責任があるか」と演説した時のこと。
子どもたちに質問はないかと聞くと、彼らは一人ずつ「ロシア人がいかに親切だったか」を伝えた。
「今回の旅でロシア人から受けたもてなしの話をアメリカ人が聞いたら戦争はなくなるだろう」と言ったのです。
演説した青年は、明らかに柔らかい表情に変わり「来てくれて本当にありがとう」と言った。


私たちは評価を下すのではなくゆるすことで、自分や他人を愛することができるようになる
私たちは他人に評価を下す時は、いつも、自分自身にも評価を下している。
「ゆるし」は、誤ったものの受け止め方を明らかにするための手段です。
つまり、こころを乱す原因となる「信念へのしがみつきを止める」という選択です。

「攻撃」を例に挙げると、『奇跡についてのコース』(AHのもとになっている本。未翻訳)には、
その人は攻撃ではなく、助けを求めているか、愛を必要としているという見方をするというもの。
人間関係において、これは最も難しい原則の場合が多い。

受け止め方を変えれば、自分を「防御」する必要もなくなる。
「自分はこれでいいんだ」と思える時は、他人の振る舞いは問題にならなくなる。


私たちは、あら捜しをするのでなく、愛を見つけることができる
他人の欠点を見つけるのは簡単です。他人が変わってくれれば、自分はもっと幸せになれるのにというのも1つの幻想です。
私たちが幸せになるためには、誰も変わる必要はありません。自分の幸せを作り出すのは、自分の仕事なのです。

私たちが他人の欠点を捜すのは、自分の中に、同じ欠点や、欠点になる怖れのあるものを見たくないから。
他人を批判するのは、自分の内側の問題の表れということが多い。

曇った日は、「悪い」日ではなく、単なる曇った日になる。
自分の光を輝き出させるほど、他人の中に光を見ることができる。


私たちは、外で何が起ころうと、こころの平和を選ぶことができる
こころの平和を選びたければ、「世間」の言う通りに行動する必要がないということが分かるようになる。
私たちは、「世間」がどれほど「正当な怒り」を守り、しがみつきをサポートしているかを知っています。

私たちは、ロボットのように行動する必要はない。
本質的に、誰も私たちを「幸せにしたり」「悲しく・寂しくさせたり」「怒らせたり」できないのです。
他人の振る舞いを変えようとすることは、操作であり、長い目で見ると決してうまくいかないのです。


私たちは互いに生徒であり、教師である
学びには序列はなく、おそらく子どもたちが一番の教師だと分かります(うん、そうだと思う
自分を知ろうとするプロセスを分かち合うことで学ぶことができる。
そして、学び成長するための人間関係を築くことができるのです。

階層のある、垂直構造ではなく「水平」なのです。
生徒と教師の役割を入れ替えることが、全体によい結果をもたらすことにつながる。
「間違い」「愚か」などと判断されないことが保障されています。


私たちは自分たちを分断された存在ではなく、一つの命としてとらえることができる
「分断」の感覚は、自分が傷つかないよう守るために築いた障壁の一つです。
大きな全体に気づければ、他の人たちが苦しんでいる葛藤に巻き込まれる必要はない。
私たちがやるべきことは、それぞれの状況に対して、これまでとは違う見方をし、
意味のないパターンにはまらないよう集中しつづけることなのです。
状況が起こるたび、こころを再訓練することで、意識をより高度の気づきにもっていきます。
私たちの焦点は広がり、変化し、ものごとを違う形で見られるようになるのです。


愛は永遠なので、死を怖れる必要はない
ある愛は続き、新たな形に入るだけだと考えれば、死への怖れを消すことができます。


どんな人も、愛を差し伸べているか、助けを求めているかの、どちらかととらえることができる
この原則は、人間関係の中で利用できる並外れたツールです。
何らかの理由で自分が攻撃されていると感じる場合には、防御するか、逃げるか、攻撃し返すかをしがち。
これは、自分を傷つけずに守る「条件反射」です。

ストレスが起こる瞬間に私たちに起こる反応について他人のせいにしない、ということ。
私たちが「自己防衛」をしなくなると、エネルギーに変化が起こり、「攻撃者」はそれを感じます。
新たな力動の余裕ができ、切迫感は続かなくなる。

まず、自分の考えの「パターン」について完全な責任をとることを選びます。
しっかりとした意識を持って、「今」に生きることは肝心です。
私たちは何が起きても対処できます。それが感情的、身体的、スピリチュアルな痛みであっても。

難しい状況になったら、私たちはただちに問題の焦点を変えることができると認識すること。
AHは、「やる気」「自覚」「率直さ」「実践」を必要とします。それだけです。
私たちに起こることはすべて、学びのため。そこから学びが決して止まらないよう、改めて選ぶことができるのです。


AHセンター 誕生からの歴史
ジェリーはカリフォルニア州で開業している、いろんなよいところを取り入れるタイプの精神科医でした。
「バイオフィードバック」「催眠療法」「リラクゼーション」など。専門は、学習障害を持つ子どもたちでした。

私の息子が失読症で苦しんでいた時、ジェリーに紹介されました。
私は1950年代にバークレーで心理学を学んでいましたが、今度は自分についての気づきを深めるものとして見るようになった。
人間の成長には限界がないことに気づいていった。

ジェリーは『奇跡についてのコース』という本を紹介され、深く感動した。
そして、地元の私立学校の低学年の健康な子どもたちを対象にした実験に参加を依頼し、快く受けてもらえた。
大人が1対1で子どもに対応し、指に装置をつけ、想像を働かせることで手の温度を上げ下げできるようにした。
これが目の前で難なく実際にできるのを見てワクワクした。

野球をしているブラッド少年は、緊張して試合にならない問題を抱えていた。
私たちは、彼にボールを高く打っている姿をイメージするようにした。
翌週、ホームランを打ったと報告があった。

実験の追跡調査をしてみたら、その効果は長く続いていた。

その後「癌の子どもたちと一緒に実験する」誘いを受けた。ジェリーは当時、死をとても怖れていた。
6名の子どもが選ばれた。

私と、ジェリー、パット、グロリアは、最初の集まりをもち、夕食の後、1分間ほど手を握った。これは今でも行われている習慣
私たちは順番に自分が怖れていることを私した。私は緑内障で失明することを怖れていた。
死についても話した。互いに打ち明けはじめると、私たちには何の違いもないと気づいた。

子どもたちは、とても怖いテーマについて、私よりはるかに直接的なやりかたで物事に対処していた。
深く気持ちを打ち明け合うことの何かが、他のなによりも人々をつなぐのです。
私たちが合意したのは、皆に役に立っている限りは続けようということ。

次第に、子どもたちが紹介されてくるようになった。
自分たちが対処しなければならない問題(「注射」「化学療法」その結果髪を失うことの心理的な影響など)について
別の対処をするようになった。

7歳のブライアンは、耳の癌でした。病院に行くと必ず全体が混乱する騒ぎが起きた。
職員はブライアンをとても怖れるようになった。1日のスケジュールが遅れてしまうから
私たちは、自分の気持ちを知るため「サイコドラマ形式」を使って4人が参加した。
「医師」と「患者」あとの2人は、それぞれの後ろに立って、「医師」と「患者」がウソをつくたび、
意識を思い出させる役をする。例:「これは痛くないよ」など(ウソなんだ・・・

これは、私たちが自分の本当の気持ちを早く知ることができる効果的な方法だった。
子どもたちとやったことで、他にとても重要だったのは、自分の気持ちを「絵に描く」よう励ましたことだった。
これは期待した以上のものを与えてくれた。これらの絵が他の子どもたち、医師、家族の役に立つと分かった。

私たちの本が完成しようとしていた時、グレッグ少年が亡くなった。
グレッグは「死というのは、天国に行って、そこにいる魂と一緒になることだと思う」と言った。
「多くの魂がこの世に下りてきて、誰かの守護天使になる。自分もそうなりたいんだ」と決めたのです。

死にかかっている子どもを、他の子どもが見舞うのは先例のないことでした。
ばい菌が伝染ると怖れられていたからです。
しかし、職員は、この方針を無視し、グレッグは亡くなる瞬間まで勇気について私たちに教えてくれました。
彼は偉大な教師でした。

グレッグの父は出版の仕事をしていたので、『雲のむこうに虹がある』が完成。
その後、『フィル・ドナヒュー・ショー』(アメリカで大人気だったテレビ番組)に出演を依頼され、
ジェリー、パット、私たちはシカゴに行き、大変な成功を収めた。

パット・テイラーは「私たちはサービスを有料にしようとは思いません・・・でも、寄付は決してお断りしません」と言った。
これがきっかけで寄付が殺到した。
私たちはまったくのボランティア組織だったため、法的にNPOになった。

最初から緑内障をもつ大人のグループもあった。
今(1987年)、センターには18の大人のグループがある。
「乳がん」「慢性疾患」「エイズ」「摂食行動」「パーソン・トゥー・パーソン(人間関係でAHを実行したい人)」。
3つは致命的な病の人たちのもので、4つは高齢者のもの(老人ホームで行われている)。

米国内には71のセンターができ、世界中にも広がった。
私たちは、年に4回、40~50人を対象に広範なトレーニングをしている。

AHの概念、原則は大昔からあるが、現在では分かりにくくなっている。
私たちは、「社会の法律」ではなく「愛の法律」を教えようとしています。


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【あとがき 水島広子】
ワークショップの醍醐味は、自らのデリケートな部分をさらけ出すことによってつながりを感じる部分にある。
私の本職は精神科医です。社会基盤を整えれば人のこころがもっと健康になるのではないかと考えて国会議員になったこともある。
でも、それらを支える根底に、AHが根付けば、何をするにもつきものの「怖れ」を違った角度から見れ、
病気になろうと、社会的に困窮しようと、人生をまったく別からとらえる選択肢があると気づけた。
(水島広子さんは、衆議院銀としては「児童虐待防止法の抜本改正」などを実現した。


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【感想メモ】
これまで、「人が死後の世界に持っていけるのは、富や名声などじゃなく経験だけだ」「人生は経験だ」と信じてきたので、
知識を学ぶことと、データベースに戻らないことは矛盾しないか?と最初は疑問に思った。
経験して、学ぶこと=たくさんのデータベースになって、「過去に囚われる」ほうに入るのか?と。

例えば、医者と患者の関係とか。
患者の話を聞いて、医者は、これまでのデータベースに基づいて診断・治療してるわけだし。
シャーロック・ホームズなんて、顔相やら、着ている服などを見て、一瞬でその人を的確に判断してるよね。まあ、小説だけど

たとえば「名言」類は?
それに、そもそもこの本を読んだ知識は?

これらをいったん頭から離して、人の話を聴く時は、それらのデータベースにこだわらずに聴くことだけに集中するって意味かな?
たしかに、データベースは便利で、自分を守る鎧になるもんね。

私は、子どもの頃からずっと母の愚痴を繰り返し聴かされるのが苦痛だった。本当に疲れるし
プラス、自分の本音、とくに「負の感情(怒りなど)」を話すことが出来なかった。
話すより前に、怒りや不満を無意識に無意識化してた。

それを「人間の本質は愛。自分のココロが今、平穏かどうか」だけを考えて、
アドバイスも、評価もなし(相手へも、自分へも)に話を聴けたら、さぞかしラクだろう。

それには訓練が必要だな。それも人間同士の。
私は、人の話を理解するのに時間がかかるし、完璧主義者だから学んだことを全部メモりたくなるしw
これも「怖れ」かな。現在じゃなく「忘れてしまったらイヤだ」っていう過去&未来になってるから。
私は、人の話の先を読んで、次どう返そうかと考えていたり、アドバイスも多々してきたし。
でも、そんな自分への悪い評価も要らないってことか。ひとつのプロセスなんだと。

集中して、意識しつつ、評価しないって難しいぞ。
「共感」はできるけど、「共鳴」(相手の感情や、周囲の状況に引っ張られること。同情も含む)は辛いの区別も、話を聴きながらだと難しい。

「聴く」ときは「今に集中して共感」し、「話す」ときは、相手のコメント、評価を気にしない+自分にも評価しない。
→傷つかずにすむ+穏やかなココロでいることを選ぶことができる

これまでの私と比べると、
「聴く」ときは、共鳴して相手の感情に引っ張られ、過去&未来のデータベースと照らし合わせて、アドバイスや評価をしていたから、疲れて、自己嫌悪のループになる
「話す」ときは、さらけ出しているつもりでも、否定されないよう+分かって欲しいと願って、防御して、結局理解してもらえないと絶望していた

人の話をそのまま聴く×評価せずに話すだけで、ぽかぽかと温かい感覚が持てる=愛ってことか?


その瞬間ごとに選ぶ=過去のイヤなことを忘れること?
そこから何か学んで成長してるのでは? 自分が辛くならなきゃ、それは成長になるのか。
何度も思い出しては不快になってループすることを手放せば、たしかにラクになる。生産的じゃないし。
それは相手のプロセスで、自分のものではないと切り離してとらえる。

身近で起こる困った状況に心身ごと巻き込まれないことが私の課題か。
→自分のことと結びつけてループしつづける+体調を崩している状態だから。

『怖れを手放す』(星和書店) (その1)

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『怖れを手放す』(星和書店)
水島広子/著

『愛とは、怖れを手ばなすこと』(サンマーク文庫)を読んで、そこに書いてあった
「アティテューディナル・ヒーリング・ジャパン」に興味を持ち、本書に基づいてやるということなので、読んでみた。

実際の「入門ワークショップ」を行っている、その記録ということで会話形式の本になっている。
数人の参加者が本書のために協力して、プライベートなことも話されていて、自分も一緒に参加している気持ちになって読んでみた。
進行しているのは著者であり、「アティテューディナル・ヒーリング・ジャパン」を立ち上げた水島広子さん。


【内容抜粋メモ】

入門ワークショップの位置づけ
「アティテューディナル・ヒーリング(以下AH)」において最も大切な「聴く」トレーニングに入ります。
基本的な考え方は、少なくとも自分の快適さには、自分で責任を持つということです。

ワークショップには、他にも「ボランティア・トレーニング」「ファシリテーター・トレーニング」、
「サポートグループ」に参加することもできます。

これは皆さまのためではなく、自分のためにやっています。
「人のため」という気持ちになると、AHと違うものに変わったときです。


チェックイン(自己紹介)
名前は本名でも、なんでもいい。話すのは「たった今の気持ち」を手短かに。


ジョイニング(つながりの儀式)
これは手をつなぐ儀式で、集まりの最初と最後に必ずやることだが、日本人には抵抗がある方が多いため、
ジェリー(AHの創始者ジェラルド・G・ジャンポルスキー)が「文化によって選択肢があっていいじゃないか」ということでやめた。


輪の真ん中にティッシュを置く
個人的な話をしているうちに泣く方も多いが、他の方にティッシュを渡さないでほしい。
一般社会では善意の行為で、それはそれでいいが、AHでは「それぞれのプロセスをとても大切にする」ところ。
ティッシュを渡すと、人によっては「早く泣き止んでほしい」ととられる場合もあるから。
同様に、体をさすってあげたりするのもやらないで欲しい。あまり触れず、そのままにしておいてほしい。


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AHのガイドライン(指針)
ガイドラインはグループが機能するための枠組みとして考えられた。「ルール」ではないことに注目してほしい
そして、「完璧にやろう」とは絶対に思わないでほしい。「完璧主義」も怖れの代表選手の1つだから。


ガイドライン1:グループの目的はすごく簡単。こころの平和の選択を実践すること。

「世界平和のため」とか「社会貢献のため」とかとは書いてない。
結果として世界平和につながると思いますが、自分が責任をとるということが、こころの平和につながるというのを感じてほしい。

「こころの平和の実践」か「こころの平和の選択の実践」か
「こころの平和を実践する」と言うと、結果への執着が生まれて、視点が未来にいってしまう。「実践」を「練習」と訳してもいい。

完璧な理解を目指さない
今日の目標は6割程度の理解です。


ガイドライン2:グループの中では「聴くこと」に集中し、評価を下さず、自分の話をすることを実践します。

私たちは人の話を毎日聴いていますが、相手の話だけを聴いていることはまずなくて、必ず同時に自分の考えを聴いている。
他人と同じようにできる自分と、できない自分に評価を下しながらとか。

過去のデータベースや、未来を通して現在を見ない
未来と過去は実は同じものを意味する。「あの仕事やらなきゃ」は未来。
「これはこうすべきだ」「また同じ話か」は、頭が過去のデータベースを通して現在を見ている。

相手が変わらなくても、自分の聴く姿勢は変えることができる。
思いがよぎった時、「あ、またデータベースに行っちゃった。現在、現在」と戻ってくればいい。
開かれたこころで人の話を聴くというのは、雑音を静めて聴く、現在の音だけを聴くこと。

自分に対する評価を手放す
AHのもう1つポイントは「人」という時は、必ずセットで「自分」が出てきます。
「すべての人が」と書いてある時も、必ず「自分」がそこに入っていることを忘れないでほしい。

AHは正しく理解して実践している限り、辛くなることはあり得ない構造になっている。
辛くなったら、AHが合わないとか、自分がダメだではなく、単にどこか読み違えたり、読み落としたりしているということ。
私たちは想像以上に自分に評価を下して生きている。


ガイドライン3:グループに参加するのは自分を癒やすためで、人にアドバイスしたり、人の信念や行動を変えるためではない。

AHの環境では、アドバイスはしないでください。
悩みを話してアドバイスが返ってくることで傷つく。批判されているように感じたりすることがあります。
アドバイスって「現状が良くないから変える」という行為。だから「現状否定」が前提になる。
すると「そんなの言われなくても分かっている」というのもけっこう多い(私もよくやるな


ガイドライン4:自分自身の体験に基づいて話します。自分の感情を思いきってさらけ出すことで、互いに共通の体験を見出し、人とのつながりを感じやすくなります。

ぜひご自分の気持ちを話してほしい。さらけ出せとは書いてありません。それは自分で選んでください。
いっぱいさら出せば、たぶんいっぱいつながりを感じて帰れます。
その違いは、見ているほかの方にも分かってもらえると思います。


ガイドライン5:自分を含めてグループの一人ひとりをかけえのない存在として尊重します。
大切なのは、そのプロセスで、自分がどう評価するかではないと認めます。

これは実践するのが一番難しい。辛い話を聴いた時、「可哀想だから早くラクになってほしい」というのも
実は自分が相手のプロセスに対して下している評価だと気づいてください。

人のプロセスを評価するのを止めるのは、そのうちできますが、もっと難しいのは自分のプロセスに評価を下すのを手放すこと。
自分はまだここで何度もぐずぐずしている必要があるかもしれない、それが自分のプロセスだから、
早い&遅い、しつこいなど評価を下さないこと。


ガイドライン6:それぞれの人が自分のこころの声に耳を澄ませるよう、互いに支え合います。
「こんなことをしたら嫌われる」など「頭の声」は毎日、何種類も聞こえるけれど、
こころの声は、その頭の声がすべて静かになった時に聞こえてくる本当の声だから何種類もあったりしない。
そんなの聴いたことがないとしてもフシギじゃない。
アドバイスをしないで、雑音を消せる環境を協力してつくることで、自分のこころの声を聴けるようにしていく。


ガイドライン7:年齢、経験に関係なく生徒と教師の役割は入れ替わる。
「年長者だからと威張ってないで、若者の意見も聞きなさい」と読む人が多いかもしれない。
これを読んで、あまり気分がよくないと思ったら読み違えていると思ってください。

「怖れの綱引き」から手を離す
先生が先生であり続けると辛くなる時がある。失敗した時などは「隠蔽する」「相手のせいにする」など。
そういうのも、「自分は正しくなければいけない」という反応パターン。
これは「先生役が辛くなったら生徒になろう」という簡単なこと。

自分はこれから何を学べるのかと考えれば、見え方がだいぶ変わる。
「困っています。助けてください」「教えてください」と表現するのです。
言われたほうは嫌な気はしないですよね。

子どもは、親からの「助けて」などのメッセージにすごく優しい。ここまでかと思うくらい助けてくれたりする
ジェリーは「ファシリテーター」としての能力は高くない。自分でアドバイスをしてしまうし、AHが乱れたりする
すると「私のこころが全然平和でなくなった。みんな1分間目をつぶって静寂の時をもってくれないか」とお願いするんです。

「生徒役」が辛い時
「先生が頼りない」とか。なぜそうなるかというと、「自分がちゃんとしないと攻撃される」と思っているから。
「あんた先生なんだからちゃんとしてよ」ではなく、自分もそこに主体的に参加している気持ちになるとすごくラクになれる。

こうして役を変えるだけでも随分見え方が変わる。


ガイドライン8:「ランプのかさではなく、光だけを見る」よう、相手に自分のこころを完全に向けるよう実践します。
それぞれの人を全体で見て、外見、気分、行動など、その時の状況で判断しないようにします。

「あの人の洋服シワシワ」とか、人はランプのかさみたいなところばかり見がち。
その人の本質のほうを見ましょう。


ガイドライン9:平和と葛藤のどちらを選ぶか、怖れにとらわれるか手放すかは、常に自分で選択できる。
これは「選択してくれ」と言ってはいません。


ガイドライン10:グループで話したことはすべて秘密厳守です。



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AHの中心となる考え方

アティテューディナル・ヒーリングとは、「こころの姿勢(アティテュード)」を自ら選ぶことによる「癒やし(ヒーリング)」のこと。
健康は「こころの平和」と定義され、そのために「怖れ」を手放すプロセスがアティテューディナル・ヒーリングである。

自分が攻撃された場合
「あなたは、どうしてなんでもネガティブにとらえるんだ」と言われて生きてきた人もいると思います。

では、例えば私が「どうぞなんでも話してください」と言ったのに「えー!全然違いますよ」と怒ったら、どう感じますか?
a:また自分が間違えていたんだと、自分を責める。
b:変なところに来ちゃったと思う。
c:仮病をつかって帰るかも。

生き物というのは攻撃されたら、「反撃」するか「逃げる」かなんです。
「質問する」という形の反撃もあるし、「壁を作る」ことで逃げる人もいる。
どちらも、“自分のこころが平和ではなかった”ということです。


怒っている人は、困っている人
どうして私が怒ってしまったと思いますか?

a:自分が心地よくないから。→思った通りに進めないから
b:思い入れが強すぎて。→期待に応えられない
c:予定通りいかなくて、軌道修正しようという焦り
d:何かあって不機嫌だった

今度は自分の過去を思い出してください。
人を感情的に怒ってしまった、批判的なことを言ってしまった時。
親子の場合は典型的ですね。「せっかくやってあげてるのに」とか。
上司の場合「君、報告がないじゃないか」→報告があれば、ちゃんと対処できたのに


・相手が困っていると分かると・・・
次に、怒っている私の胸に「私は今困っています。助けてください」と本心が出ていていたとしたらどうですか?

a:なにか協力してあげなきゃと思う。
b:矛盾があって当然。人間的だと思う。

ここで気づくのは「自分のこころがとても平和で無傷な状態だ」ということです。
反撃して勝っている時でも、自分は傷ついているんです。自分の問題になっている。

これがAHの「とらえ方の違い」です。
最初は攻撃されて反撃か逃げるか、次は攻撃そのものがなく、ただ困った人が騒いでいただけの話。だから自分は傷つかない。

これは、いわゆる「前向き思考」とは違います。
「前向き思考」は、攻撃として認めていて「痛いけど、私は大丈夫」てちょっとムリがある。


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「アティテューディナル・ヒーリング」という言葉の意味
いちばん正確に日本語に訳すと「こころの姿勢をみずから選ぶことによる癒やし」になる。


中心となる考え方1:こころの姿勢は「ポカポカとした温かいこころ(愛)」と「怖れ」の2つしかない。私たちの本質は愛である。
「怖れ」にはいろんなものがあります。「怒り」「自責」「罪悪感」「べき思考」

こころのあり方を決めるのはなにか
「怖れ」というのは、「自分のこころのあり方は、外側の世界で決められている」と信じていること。
つまり、自分が幸せになるために人が優しくしてくれなければいけない、外側が平和でなければいけない。
「温かいこころ」のほうは、自分そのものが完全なので、外から何かしてもらわなくても自分はポカポカとしていられる

本質はみな愛なのだけど、生まれてから「怖れ」が積み重ねられて、垢のようにどんどんこびりついていく。
例えば「勉強ができない子はダメだ」「人を出し抜かなければ生きられない」など。

でも、例えば、極限の状況では怖れがふき飛ぶ。目の前に死にそうな人がいて、人命救助している時などは
「あの仕事、締め切りが・・・」より、「この人に助かってほしい!」と愛がむき出しになる。


ものごとの見え方は、自分の頭の中を映し出す鏡
逆に、どう見えるかによって、自分の頭の中がどっちになっているかも分かる。鏡として使える。
「攻撃」に見えたら「怖れ」になってる、「困ってるな」と思ったら「愛」になってると気づける。


中心となる考え方2:私たちは選択することができるvs自動操縦
私たちが「選択」という時、選択肢がいろいろあって、うまく選べるかなと思うが、
AHでは「自動操縦」ではないという意味。

私たちは実際には自動操縦になってしまう。酷いことをされたら「一生許さない」と思いながら生きる自動操縦状態。
「ゆるす」ことはAHの中核的テーマですが、難しい。
許せないでいると、例えば体の具合が悪くなったり、こころの病気になったり、人間関係が歪んだり、自分にあまりよくないことが起こります。
「許せば相手がいい気になって、続けるのでは?」「お仕置きにならないのでは?」などいろんなことがあって許せない。
これをジェリーいわく「相手の死を願いながら、自分も毒を飲み続けている現象」。


ゆるすということ
AHでいう「ゆるし」は過去をすべて水に流すことではない。
自分が不適切なことをされた、辛かったと全部そのまま覚えていていい。
でも、それとともに思い出される、ドロドロした、自分を傷つける嫌な感情は手放せる。
「ゆるしましょう」「大目にみましょう」とは違います。
繰り返し「ゆるさない」と思うことで、自分を傷つけるのはもうやめましょうということ。
どちらでもいいけど、自分で選んでいると意識するだけでも見え方がまったく変わります。


中心となる考え方3:自分のこころの声を聴く。
既出。

中心となる考え方4:完全に「今」に生きる。
AHでは「人の話を聴く」=「自分が現在にいる手段」。「聴いてあげる」ではなく「自分のために聴く」。
自分が人の話を聴くことが「自分への贈り物」となる


中心となる考え方5:自分の選択に自覚と責任を持つ。
「あなたが辛いのはあなたの責任でしょ」と言われて嫌な感じがしませんか。
でも、それは読み間違えだと私も気づいたんです。これこそ「自分のプロセスの尊重」に関係している。

「今こんな選び方しかできない自分」を責めたら、自分に評価を下すことだから。
「人からされたのに」とまだ思っている、という自分をただ尊重すればよくて、それに辛さを感じる必要はない。
「また評価している」と気づけばいい。


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アティテューディナル・ヒーリングのサポートモデル(スター)


スター1:現在への集中
「現在」に集中することが、こころの平和を選ぶ第一歩。

スター2:受容
「受容」とは、現実をあるがまま受け入れること。
こころの平和を選びたければ、受容を選ぶということになる。

スター3:人間性と全体性の認識
ゆるせないと思うのは「人間的なことと認識すること」「人として当然の反応として認めること」。
AHは「怒り」や「ゆるせない気持ち」を手放すプロセスだが、その前には、まずちゃんと認めることが必要。
ゆるせない感情にしがみついている自分を意識して手放す。

これをしないと、「ゆるせない自分をゆるせない」「そんな自分は変だ」と「怖れ」をさらに複雑にし、手放しにくくなる。
AHは、怒らない人をつくるのではなく、怒っていることに気づいて、それが自分のこころの平和になるんだろうか?
と意識して考えられるようにするためのもの。


全体性の認識
簡単に言えば「視野を広げる」、スピリチュアルに言えばもっと広くとれます。
酷いことをされたばかりで、今は一生許せないと思っているが、時間が経てば自分も変わってくるだろうと
全体を見渡すと、「ゆるせない自分をゆるせない」とはならない。
だから、人間性と全体性どちらの認識も、現実をゆるしやすくするといえる。


スター4:自分に対して正直
単純に、自分に対してウソをついているか、本当かということ。
「理解していないけど、分かったフリをしておこう」とかしていると、こころが平和にならないのは分かりますよね。
みんなに合わせて「いい人」を演じていてもこころは平和になりません。
納得していないガイドラインを無理矢理守ってもこころは平和になりません。


スター5:選択
選択するという姿勢を選ぶことです。


スター6:つながり
AHでとても重要な概念の1つです。つながるコミュニケーションにしようと考えています。

内的つながり
自分とのつながりという意味。自分とのコミュニケーションを見直す機会にもなる。
私たちは人とのコミュニケーションはちゃんとやっても、「私なんていいんです」などと、自分とつながらないコミュニケーションをすることが多い。
本質的には、こころの声を聴くという意味になります。

外的つながり
今日、ここにいる皆さんとのつながりをその1と考えると、その2もあります。
「大きな何か」を人によっては、運命、宿命、必然、自然、あるいは神さまととらえる人もいます。
「ジタバタするのをやめて流れに身を任せてみたら気が楽になった」というのはそれを選んだということになる。
「自分はこういうことを学ぶために病になったんだ」と分かるととても楽になる。
AHは、スピリチュアル度を自分の好きなように選べるので、「そんなもの絶対ない」という人は、その1だけでも十分です。

つながりの意味
ここで言っているのは、いわゆる「ニコニコ喋る」みたいなつながりではなく、要は相手の本質とつながるという意味です。


その2につづく・・・

『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』 9月 星野道夫

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『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』
日本放送出版協会/編集

8月は植村直己さん、9月は星野道夫さんを特集している。

【内容抜粋メモ】

【9月 星野道夫 生命(いのち)へのまさざし】
著者:今森光彦、湯川豊、星野直子、池澤夏樹

 


16歳でブラジル移民船「あるぜんちな丸」に乗ってロサンゼルスへ。約2ヶ月のヒッチハイク旅行だった


●「生きていることの不思議」今森光彦(同じ写真家で、友人、よきライバルでもあった)


動物写真家と昆虫写真家
星野さんは2つ年上のほぼ同世代、写真家デビューも同じ頃。
撮影対象は、僕は昆虫で、彼はアラスカの野生動物。
当時「ネイチャーフォト」というジャンルが確立しておらず、
動物写真、植物写真、風景写真などとカテゴリーごとに分けられていた。

自然雑誌『アニマ』は、2人とも大変お世話になった。
動物写真にとても貢献していて、質の高い作品を世に広め、数多くの写真家を輩出した。
1973年に創刊、1993年に休刊、この20年は「動物写真の黄金時代」と呼べる。

創刊当時「動物行動学の母」コンラート・ローレンツが1973年、ノーベル生理学・医学賞を受賞。
「動物行動学」という学問も確立された。

『アニマ』は、写真家と学者を組ませて、動物の生態を観察するという編集方針を確立し、二人三脚の現場が増えた。
これは生き物の真実の姿を探るにはいいかもしれないが、写真の芸術性が希薄になる。

海外ではすでにマクロな視点で動物も風景も同じように撮ることが許されていた。
しかし当時僕たちが要求された写真は、動物単独の写真。
そこに住んでいる人、植物、大地に生きるすべての命と関わりを持っていることなどには、あまり関心が寄せられなかった。
僕も昆虫を撮りながら、すでに「里山」というフィールドをテーマに据えていたから、やはり違和感を覚えていた。

「里山」
自然破壊や、農村の過疎化により荒廃している。


独特な被写体との距離
よく「処女作に作家のすべてがある」と言うが、『グリズリー』には星野さんのエッセンスがすべて入っている。
撮影対象との距離の取り方がその1つ。

写真家は、被写体をとらえると近づきたくなる。
被写体と離れるほど、カメラと被写体との間には空気の層があるから迫力がなくなる。望遠レンズがあっても同じ。
けれども、星野さんは、ある一定の距離以上は被写体に近づかない。近づこうとしない。
おそらくゆっくり時間をかけて被写体をとらえて撮ったのでしょう。こういう背景の入れ方は当時あまりなかった。
その魔法を言葉に表するのは難しいが「優しさ」「謙虚さ」が加味された写真。


動物から人の営みへ
翌年出した『Alaska 風のような物語』は衝撃的だった。
写真は技術ではなく、自分が何を考えているかを表現するための手段にすぎない。
これは前2作と違い、星野さんが作りたいように作らせてもらえた。

最後の転換点になったのは『森と氷河と鯨』
ネイチャーフォトで人物を入れるのはとても難しい。ヒトは存在感が強いから、途端にドキュメンタリー風になることが多い。
しかし、この中の人々は見事に自然写真になっている。




自然への憧れ
星野さんと話していて「この人は、いわゆるカメラ小僧ではないな。僕と同じ根っから自然が好きな人だ」と感じた。

自然を知るということ
僕と星野さんは、日本とアラスカという、まったく正反対の場所を拠点にしているが、
「環境」に視点を置いているのは共通項。その思いの底にあるのは「生態系としての自然」。

しかし、自然を撮るには、旅行者にはない、定住者の眼、低い視線が必要。
そこで彼は、アラスカに住む決心をする。
自然に潜り込むことは、自分が生態系の網の目の点になること。

写真家は図々しいもので、被写体に向かってズカズカと入り「もう二度と来るな!」と怒鳴られることもある。
でも彼は違う。いつも現地の人に迎えられて、愛される、そして、運命共同体の一員になる。

客観視できる位置に自分を置いておかないと写真が撮れない。それは写真の宿命。
彼にもすでにそういう葛藤があったのではないか。

「ムース」

世界最大のシカ。インディアンの言葉で「木を食うもの」の意味。一般家庭では、1頭で4~5人の1年分の肉がまかなえる。


●「循環する生命」湯川豊(エッセイスト)


魅力的な文章の世界
星野さんは、写真展を開けば1日に1万人以上動員するほど。
けれども彼には『星野道夫著作集』という、文筆家という2つの面を持っていた。
彼の文章は極めて魅力に富み、読む人を動かす力がある。
これは日本文学の世界でもなかった種類のもので、非常に独特な場所を占めるもの。


読書家だった星野の愛読書
星野さんは、州立大学に入った時すでにアラスカのあらゆる所に行きたいという希望があり、
そのためには小型飛行機をハイヤーのように使うためのお金が必要で、
大学が休みになると帰国して、僕が勤めていた文藝春秋で1~2ヶ月ほどバイトをしてアラスカに帰っていた。

いつも彼は「なにか面白い本はありませんか?」と尋ねるので、
池澤夏樹さんの『夏の朝の成層圏』など、いかにも好きそうだと薦めた覚えがある。
彼は、アラスカでキャンプをする時、必ず本をリュックに入れる習慣があった。

『エンデュアランス号漂流』の英語原本を読んだことは『アラスカ 光と風』にも書かれている。

『デルスウ・ウザーラ~沿海州探検行』も記憶に残っている。
彼はゴリド人のデルスウに100%の共感を持っていた。
ゴリド人は、文明から最も遠いところに生きている狩猟採集民。
これは『イニュニック』以後のエスキモーや極北インディアンへの共感と非常に近い。

金関寿夫の『魔法としての言葉』は、何度も話した。

そして『雪原の足あと』を書いた北海道の絵描きで開拓者の坂本直行さんに対する尊敬は、本当に大きかった。
彼の家族に会うエッセイが『旅をする木』にあります。

 


アラスカ定住を決めてから深まった思想
すごい文章力だと衝撃を受けたのは『イニュニック』。
アラスカの先住狩猟民の世界観と、星野自身の感受性が実に鮮やかに重なっている。
つまり星野が先住民の思想、死生観を理解し、血肉化していた。
インディアンやエスキモーへの共感、アメリカの他州から来て、新しい生き方を求めた白人への共感の2つがある。

『イニュニック』以降の特徴を1つ挙げると、星野は同じ話題を繰り返し何度も書くようになっている。
一般的に言えば、文学の世界では「自己模倣」と呼ばれて避けるべきことだと言われている。
しかし、読み比べると、同じ話題ながら、同じ文章ではない。
少しずつ、1つの体験が文章の中で深まっているのが分かった。

「ポトラッチ」
人類学では「贈与の応酬の儀式」として有名。

星野にとって書くことは、体験の報告ではなく、体験を頭に留めておいて、いつでも引き出せるようにして、
その意味にふと思い当たったり、別の体験時に前の体験が共鳴することで、体験の真の意味を知る。
話題が重なっていると非難するのは簡単だが、これはとても新しいことだと思う。


生命の循環の中で個の生命をとらえる
人間が生きていくということは、他の生きものを殺して、その肉や血を自分の体内に入れること。
「僕はムースになる」とは、ムースという生命体に等しくなると言っている。
1つの生命は独立しているのではなく、動物とヒトには「相互交換性」が存在しているという思想。
これは星野が到達したとても大事な考え方です。

ひとりのヒトの生命は、大きな生命の循環の中では、ほんの数十年というわずかなもの。
それを受け入れることによって、生命の流れに自分の命も参入していると考える。
すると奇妙な安心に似た境地が見えてくる。

医学の発達で平均寿命が延びたけれど、われわれ文明人は常に死を恐れ、脅え続けています。
死の受容より、健康維持、寿命を延ばすことだけ考えている。
しかし、インディアンは、死は必ず来るもので、大きな生命の循環の1つと受け入れている。

『イニュニック』にはこうある。

「自分の分身が一列に並んだら、2000年前の弥生時代の分身はわずか70~80人先。
 振り返って、少し目をこらせばその顔をかすかに読み取ることもできる。
 僕たち人間の歴史とは、それほどついこの間の出来事なのだ」

そうかと僕は虚をつかれた。

われわれの歴史認識では、人類の2000年は、原始時代~高度文明社会に発展した軌跡としてとらえる。
いわゆる近代の文明社会がいちばん偉いということになる。
しかし、親、その親と考えると、1つの教室におさまるくらいの時間感覚にしかならない。
人間の生命はそんなものなのだと、勇気づけられるような感じをもった。


先住狩猟民の思想を日本語で伝えてくれる
『旅をする木』は、僕が編集者としてつくった本。
もとは生物学者ビル・プルーイット著『極北の動物誌』の章タイトルで、1本のトウヒの果てしない物語。
朽ち果てたように見えても、それは次の生命を維持するために一定の役割をしているのだと、
自然科学的な根拠と、想像力を駆使して書いている。

滅びゆくアラスカ先住狩猟民の感受性、生き方、死生観を、今の日本語で伝えてくれるのは一種の奇跡。
文明が発達し、現在の社会を作り上げるために切り落としてきたことがそこに多くある。


星野はまとめて原稿を書くことができなかったので、手紙好きの星野に書簡形式で原稿を書くことを提案した
(なるほど、だからこんなに親しみやすく、季節の移り変わりから始まって、身近にいるような感覚だったんだ

 
星野が愛したアラスカ


モンゴロイドの北上
紀元前1万8000年頃にはアメリカ・インディアン、紀元前8000年頃にはエスキモーの先祖となるモンゴロイドが
かつては地続きだったベーリング海峡を渡ってシベリアから北米大陸にやって来た。
一方、ハイダ族など海洋インディアンの祖先は、海から渡来したのではないかと星野は考えていた



●「もうひとつの時間」星野直子(夫人。今は長男とともに日本とアラスカを行き来して、事務所にて作品の管理を務める)


少年のような目をした夫との出会い
出会いは、夫の姉の紹介。17歳年上だとは聞いていたが、第一印象は、とても目がきれいな人だということ。
夫は毎年12月~2月にかけて、日本でまとめて仕事をするため帰国していた。

初めて会って2、3度目に「あなたの夢は何ですか?」と聞かれ、
「フラワーアレンジメントに興味があるけど、踏み出せないでいる」と言うと、
「本当に好きならできるから大丈夫だよ」と言われ、2ヶ月後には退職し、フラワーデザインの学校に入学した。

プロポーズに返事をしたのは1992年。
「いろんなことは考えないでいいから、一度遊びに来てごらん」と言われ、
姉の家族、私の母とともにアラスカに行き、帰ってきてからのことだった。
フェアバンクスの空港に降り立った時、初めて来たのに懐かしい感じがして、とても安心した。


撮影から始まった新婚生活
1993年5月に結婚、6月には日本を離れた。アラスカに着く前に、カナダ領クイーン・シャーロット諸島へトーテムポールの撮影に行った。

「クイーン・シャーロット諸島」
19Cにヨーロッパ人が天然痘を持ち込み、大勢が亡くなって、先住民のハイダ族は村を捨てて、島の反対側に集落をつくった。


一度、フィールドでクマと遭遇したことがある。「ベアスプレー(クマ撃退用)」(そんなのがあるんだ/驚)も近くになく、
私が驚いて「あっ」と声をあげたら、その声にびっくりして行ってしまった。

クマに出会ったらどうしたらいいか夫からとくに言われたことはない。
私たちはここにいるんだよと知らせるために大声で話しながら森を歩くとか、
食料はテントに持ち込まないよう気をつける、ことぐらい。


フィールドにいる時間そのものを楽しむ
夫はまず、撮影の時、目的地に着いたらベースキャンプを作ってから移動した。
移動中にカリブーがいたら撮影することもあった。
いろいろ考えながら歩いているようで、気になったっ場所では立ち止まってファインダーをのぞいたりしていた。



中でも記憶に残っている光景は、カリブーを撮影しに行った秋の北極圏。
北極圏の360度ツンドラが広がっている光景に圧倒された。

フィールドでの光景は、年月が経っても心の中にしっかり残っている。
そして迷ったり、悩んでいる時に、その光景を思い出すと励まされる。


アラスカの寒さと広さが人を温め、近づける
夫は手紙のやりとりを大切にしていた。撮影から戻ると、お風呂に入って、たまった手紙を読むのを楽しみにしていた。
持ち歩くザックにはたいてい手紙が入っていて、ちょっとした時間を見つけては読み、
返事を書けるよう便せん、封筒、切手も入っていた。

夫はおしゃべりではないが、無口でもなかった。
誰に対しても分け隔てなく、同じ態度で接する人だった。

アラスカの友人たちの温かさは、「こうしてあげる」「ああしてあげる」と言葉で言うのではなく、
普段は見守ってくれて、いざという困った時には本当に親身になってくれる、という温かさ。

フェアバンクスの家の土地を買った時、家の周りは土地が痩せていて岩がゴロゴロした粘土質なので、
トラックでいい土を運び、ワイルドフラワーの花の種を蒔いたそうです。
でも蒔きすぎて、近所の人が見に来るくらいたくさんの花が咲いた


息子の誕生、そして星野道夫の遺したもの
今は春と夏にアラスカに行っています。気持ちはフェアバンクスに住みたいのですが、
日本での仕事があり、息子は日本の学校に通っているので、そうもいかない。

“息子には日本の心や、日本的なものを理解できる人になってほしい、過ごした環境で人間は形成されるから、
 息子が小さい時期に日本で過ごす時間を持てるようにしたい”という気持ちが夫に強くありました。

家にいる時は毎晩お風呂に入れたり、離乳食をあげたり、オムツを替えてくれたり、息子が生まれてからは長期の撮影が少なくなった気がする。
子どもを背負えるザックを買って、デナリ国立公園にも行ったし、歩けるようになったら、一緒にフィールドに行きたいという思いが強くあったと思う。

アラスカで事故の知らせを聞いても、それまでも留守番が多かったので、また撮影からひょっこり戻ってくるのでは、
という気がしている時期がずいぶん長く続いた。

夫は声高に「自然保護」や「開発反対」を叫ぶ人ではなかったが、自分の写真や文章から、いろんなことを感じてほしいという思いはあったと思う。

 
撮影日誌をこまめにつけていた/2人の写真



●「長い旅の途上」池澤夏樹(作家)


死をどう受け入れるか
星野は「テレビ番組を一緒に作りませんか」と僕に言った。
1年がかりで、僕がアラスカに何度も通って、アラスカの1年間をドキュメンタリーで構成する話。

彼の死で僕は奮い立った。彼の仕事は凄いものだったけれど、まだ広く世間に認知されていない。
残された我々にできるのは、彼の仕事の真価を世間に知らしめることだと。
彼にはもう新作はない。残ったものを見せていくしかない。

彼はなんといってもクマが好きだった。
それらを含めて、みんな迷いながら、彼の死をどう受け入れるか考えた。ある意味では、まだ解決していないのです。

自分が文筆生活をしている途中で、彼の足跡とクロスすることが何度かあった。


星野をなぞる
たとえばビル・リード(ハイダ族の血をひく母をもつ。カナダの20ドル紙幣にも作品が印刷されている)の彫刻。
ワシントンのカナダ大使館にある彫刻は観る機会はまずないのに、ヴァンクーヴァーで空港のターミナルを歩いていたら、目の前にあった。

大英博物館の所蔵品から好きなものを見つけて、それが作られた場所へ行く『パレオマニア』という仕事では、
1階から3階まで貫いているトーテムポールがあって、それがクイーン・シャーロット諸島のものだった。
「しめた」と思って諸島に行き、星野が書いているニンスティンツのトーテムポールを見た。

気まぐれで行ったフィンランドで太陽が3つに見える「幻日」も星野に報告したかった。

札幌にいた時、すでに星野は「温暖化」に絡むことを書いていたことを思い出した。
「気温が高くなるとカリブーが飢える」雪の表面がカチカチに凍り、餌が食べられなくなる。
北海道の然別湖で1997年、星野の写真展を開き、地元の人たちが氷でブロックを作った。
零度を超えなければ、氷はとてもいい建材なのです。エスキモーのイグルーと同じ原理。


僕はフランスのフォンテーヌブローという町に住んでいる。近くに絵画で有名なバルビゾンという小さな村がある。
カフェがあって、その主がネイチャーフォトの写真家だった。
「君は日本人か? ホシノを知ってるか?」「友だちだった」というと仰天して「神さまのように思っている」と言う。
そういう思いを抱いている人は、たぶん世界中にいる。あれだけの写真は誰にも撮れるものじゃないし、
あんな風にネイチャーの中に入って行く足取りも真似できない、そういう思いが重なった崇拝なのです。


自然とのつながりで自分の命をとらえる
誰にとっても死ぬのは一大事で恐ろしく、なんとか回避しようとして生きている。
命の原理には2つある。自分を生かしめる。それから子孫を残す。動物の場合ははっきり分かりやすい。
できる限り長生きして、できる限りたくさんの子孫を残そうとして、最後には死ぬ。それは大抵、老衰ではない。

ヒトは増えすぎたものだから、世界中のあちこちでストレスがたまって、相互に衝突している
「人は人に対してオオカミである(ホモ・ホミニ・ルプス)」という諺がある。
ひどくはびこって、なにかひどく歪んでしまった。死なないことが、生きていることだと信じてムキになっている。

動物は1頭の犠牲によって他の仲間は生き逃れられる。
オオカミも捕まえやすい弱そうなのを狙うから、ある意味、淘汰にもなる。
全体として見れば、その1頭の死はムダでもなく、悪でもない。
星野の写真や文章から、死んでもいいんだ、固体が死ぬこと自体悪ではない。
死は生とセットになっていると気がついた。


アラスカの死生観に学ぶ
星野がいちばんそれをうまく伝えたのは『旅をする木』。
彼はアラスカの雪原の中にたった一人でいても、仲間の一人であり、日本人の一人であり、
一人の人間だと深く意識しているから、まったく孤独ではない。

死を含めて自然は放っておけばうまくいくもの。よくないことをするのは大体人間。
自然を傷つけると、その結果は人間に返ってくる。

生と死について星野が考えていたのは、精神の安寧のため、静かに生きて満ち足りて、貪らないで生きるための大事な知恵だったのではないか。
自然の前でいかに自分が小さな存在かという認識。
インディアンやエスキモーの暮らした跡が何も残らない悠久の時間を前にすると、比べるのがバカバカしくなる。


北極星をめざして
彼は自然に入っていって、その意味を読み解いて、生命とは何かという重大なメッセージを得て、非常に劇的な死に方で逝ってまった。
残った者は一所懸命解釈する。まるでキリストと使徒たちの関係のように。

直子さんも星野の死後は散々苦労したし、みんなが泣いた。
けれども彼は、ああいう形において成就した。あれで完成したんだと、僕は敢えて言ってしまう。
いつでも死は中断だけれども、同時に、完成であるような死に方をしたいと思う。

リアリティのない代替物に取り巻かれた我々の暮らし方。どんどん変なほうに進んでいく時に、
彼は羅針盤であり、北極星なんですよ

僕が生まれて間もないカリブーの子で、オオカミに食われた時、
そこに人間の尊厳を持ち出すよりは、自然一般における生命の尊厳を前提にするほうが僕は好きなんです。


自然の中に戻る
星野は、人がいない場所にすごく魅かれていた。
食べることと、子を育てること、歳をとったら死ぬこと、ほかのことは全部二次的なことだ。

生命がいつも互いに重なり合っている。「トーテミズム」というのは、ある意味そうでしょう。
ヒトはやはり生きることに意味づけしたい。
けれど、自然と切り離された別の存在だから自分たちは値打ちがあるんだ、ではなく、
どうすれば自然の中にもういっぺん自分を組み込むことができるか、なのです。


「トーテームポール」は各家系の物語を刻んだもの。


 


『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』 8月 植村直己

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『NHKテレビテキスト 知楽遊学シリーズ 植村直己』
日本放送出版協会/編集
著者:野口健

8月は植村直己さん、9月は星野道夫さんを特集している。

【ブログ内関連記事】
『植村直己 エベレストから極点までをかけぬけた冒険家』(小学館)
植村冒険館「メモリアル展示~山頂に残された旗」


いろんな山の名前にそれぞれ由来があるのが面白い。先住民族がつけたのかなぁ?
エベレスト:インド測量局の初代長官の意。チベットでは「チョモランマ(大地の母神)」、ネパールでは「サガルマータ(世界の頂上)」と呼ぶ。
モンブラン:「白い山」の意。
キリマンジャロ:「白く輝く山」の意。
アコンカグア:「岩の番人」の意。
マッキンリー:アメリカ第25代大統領の名にちなむ。
チョー・オユー:「トルコ玉の神」の意。



【内容抜粋メモ】

【8月 植村直己 笑顔の冒険家~野口健(アルピニスト)】


 
北極点到達/このパスポートから世界への冒険の扉が開いた

植村直己の足跡
 

 




僕の人生を変えてくれた一冊の本~『青春を山に賭けて』植村直己著
今思うのは、厳しいようだが、夢をもって挑戦したことで、得るものもあれば、失うものもある、ということ。
夢をもったがゆえに苦しむことがある。トータルで考えて、得るもののほうが大きいと思っているから僕は挑戦している。


第1回 “どんぐり”からの脱却

停学中に出会った『青春を山に賭けて』
当時の僕はとにかく「劣等感」の塊だった。日本人の父と、エジプト人の母を持ち、
幼少の頃は「ガイジン」と言われてイジメられたし、勉強はまるでダメ。
両親の離婚、優秀な兄への引け目から自信が持てず、悶々としていたある日、先輩を殴って1カ月の停学処分になった

父の勧めもあって一人旅に出た。その度の途中の本屋でふと手にとったのが『青春を山に賭けて』。
その後、映画『植村直己物語』を観たり、『マッキンリーに死す』などを読んで、
深く知れば知るほど「この人は僕とどこか似た部分がある」と確信した。


僕にもできるかもしれない
劣等感を抱えた若者が、いきなり4万円だけ持って海外に飛び出して、ついには夢を実現してしまう。
「僕も特別な才能なんてないけど、こつこつ地道に努力しさえすれば、なにかを成し遂げることができるんじゃないか」と思い始めた。

これは今でも植村さんの反則技だと思っているんですが、あの本は大変なことをさらっと書いている。
世界五大陸の最高峰を登ったんだから、本当は生きるか死ぬかのギリギリの選択を迫られたりしたはずなのに、
けろっとしたタッチで書いているので、辛さがそれほど深刻には伝わってこない。

その後、何年かして僕も実際にエベレストに登った時「植村さん、もっと本当のことを書いておいてくれよ!」と思った

 
明治大学山岳部の合宿。右端が植村さん


モンブランに登りたい!
高校には山岳部がないから、片っ端から電話をかけて、入会させてくれる登山会を探したが、
僕が高校一年だと告げると「責任が持てないから」と断られた。
なんとか入会できた登山会で、最初に出かけたのは、真冬の富士山。
初めて登った山が、富士山8合目の雪上訓練で、強烈な体験になった。

その後、その主催者から「来年はモンブランに登る」という話を聞き、お願いしたら当然「ノー」。
「それなら一人で登ります!」など無茶なことを言って、結局、参加させてもらった。
モンブランはヨーロッパ大陸の最高峰だから、落ちこぼれの僕が制覇すれば、学校の連中が少しは認めてくれるのではないか。

モンブランに登り、翌年はキリマンジャロにも成功して、帰ると、学校のみんなの態度がガラリと変わった。
「野口といえば山登り」というカラーができたことで理解を示してくれた。
ますます山の魅力にハマって、最年少で世界最高峰を全制覇する目標を抱いた。


劣等感がすべての冒険の始まりだった
植村さんと僕が似ていると感じたのは「劣等感が強かった」という部分だが、
それこそが、植村さんの登山や冒険の原動力になっていた。

1960年代は学生運動が盛んで、若者の間では登山ブームが起こっていた。
植村さんはつねに「兄弟の中で自分だけ大学に行って申し訳ない」という気持ちを抱いていた。
もちろん功名心もあっただろうが、劣等感と訣別し、自分の人生を肯定するために、どうしても旅に出ずにはいられなかったのではないか。

「私を外国の山へ駆り立ててくれたのは、同僚の小林正尚だった。
 彼は夏山行の後、アラスカで氷河の山を楽しんだという話す様子は羨ましく、ライバル意識を燃え立たせた
 就職なんてどうでもいい。せめて一度でも外国の山に登りたかった。それがもっとも幸せな道だと思った」

小林さんに対する対抗意識、なにより、そんな風に思ってしまう自分の劣等感から解放されたいと考えたんだと思う。


粘り強さが冒険を成功に導いた
1964年、「海外渡航自由化」となったが、英語も苦手で、資金もなく、渡米の際は一番運賃の安い(約10万円)
移民船「あるぜんちな丸」に乗って(星野さんと同じだ/驚)所持金は4万円

植村さんはいい意味で本当にしつこい。どんな苦難に直面しても絶対に諦めない強さを持っていた。
そうして前進しなければ自分を失いかねないギリギリの状態だったと思う。


カリフォルニアのぶどう畑で資金を稼ぐが、不法就労で連行される。23歳


地道な努力が運を引き寄せた
山岳部でも、毎朝9kmの山道をひたすら駆け回った。
「こんなに努力したんだから認めてくれ」じゃなく、見返りを求めず、自分が納得するまで黙々と努力する。


ゴジュンバ・カン初登頂。1965年。24歳


植村直己がみんなに愛される理由
登山家や冒険家は本来、「俺が、俺が」という我の強い性格が多い。そうでなければ務まらない。
植村さんには「俺が」という気持ちはあっても、オブラートに包むのがうまかった。
人に見せるべきではないという気持ちがあったと思う。
こうした控えめで謙虚な人柄だったから、みんなに愛され、信頼され、ひいてはさらなる運を引き寄せたと思う。


第2回 エベレスト日本人初登頂

郷に入れば郷に従え
植村さんは、冒険前には必ず、現地に長期滞在し、住民たちの生活に深く入り込み、異文化を丸ごと吸収していた。
南極横断の際もグリーンランドのイヌイットの集落で過ごした。
『極北に駆ける』には、ママットという生肉を必死に食べたことが書かれている。

「現地の人と同じものを食べること=相手の文化を受け入れること」

僕も19歳で初めてヒマラヤのシェルパの村を訪ねた時「チベッタンティー」というお茶を出してくれて
紅茶に独特の臭いがあるチーズとバターと塩水を入れたもので、胃液と紅茶が混ざったような味

「チベッタンティー」にもちゃんと理由がある。
ヒマラヤのアップダウンの激しい地形を歩くと汗をかき、体力も消耗する。失われた塩分やカロリー補給のためにある。
標高が高いとおしっこをいっぱいしなくちゃいけないが、お茶を飲めばたくさん出る。

生肉は、野菜など手に入りにくい極寒地では、ビタミン不足による壊血病を予防できる。
厳しい自然の中で暮らす人々が長い時間をかけて得た知恵の重要性を植村さんは分かっていた。

「食事と排泄は現地の人と同じにやる」ということも書いてある。
極北では、排泄は大変な行為。当時イヌイットの家では、トイレは部屋の中のバケツだった
冒険中は、マイナス50度の中でお尻を出せば、針に刺されるような痛みがして、ズボンをあげる時は硬直して動けない。


ナオミは俺たちと一緒だった
今でもヒマラヤ周辺に行くと、現地の人から「おまえは日本人か? ナオミを知ってるか?」と声をかけられる。
「どんな人でしたか?」と聞くと「ナオミは俺たちと一緒だった」と話してくれた。
植村さんはシェルパと生活を共にし、使用人としてではなく、仲間の一人として接していたという。

2009年、僕の知り合いのシェルパが、ヨーロッパ隊とエベレストに登っている途中の事故で亡くなった。
その時、カトマンズの旅行代理店にこんな電話があった
「一人死んじゃったから、新しいシェルパをすぐ送れ」
ひどい話です。シェルパの家族は一家の大黒柱を失って、こんな無念なことはない。
今でさえこうだから、植村さんの時代はもっと酷かったはず。


人間、植村直己の魅力
ある時、民家に泊めてもらった時、そこのおじいさんの手の指が一本もないことに気づいた。
「1981年の冬のエベレストで失った」。植村隊だとすぐに分かった。彼は微笑みながら嬉しそうに話してくれた。

「俺は指を失ったけど、ナオミはとても優しかった。何回もネパールに来て医者に連れていってくれた。
 他の連中は我々を単なる移動の道具として使ったが、ナオミだけは人間として扱ってくれた。
 指は失ったが、これを見るとナオミを思いだすんだ」

世の中には、8000m級の山を無酸素で登ったラインホルト・メスナーなど植村さんより難しい山に登っている登山家はたくさんいる。
記録は時代とともにどんどん塗り替えられていくが、いまだあれだけ地元の人に愛されている登山家は植村さんしかいない。


1970年のエベレスト日本人初登頂
植村さんは単独での冒険が特徴だが、この世には単独では登れない山が存在する。
「私にとって良い山とは、ひとつの極限を意味している」


アイスフォールにハシゴを渡す

エベレストは想像以上に難しい山です。
まず「アイスフォール」という氷の巨大な柱がそそり立つ難所があり、ハシゴを渡して越えなきゃならない。
植村さんが登った時も、氷が崩壊して、他のスキー隊のシェルパが6人亡くなっている。
植村さんが内心、ライバルと思っていた成田潔思隊員も亡くなった。
植村さんは、松浦隊員と第一次アタック隊に選ばれる。

当時の山岳部では後輩が先を行き、いざという時は先輩が後ろから支える習わしがあったが、
頂上まであと10mというところで、植村さんは「先輩、お先にどうぞ」と先を譲った。
結局、2人で肩を組むように頂上に立った。
植村さんはザックいっぱいに石を拾い、「みなさんのおかげで登頂できました」と持ち帰った。

植村さんの明大山岳部時代の仲間で交通事故で亡くなった小林正尚さんの写真をエベレストの頂上に埋めた話も美談として伝わっている。
エベレストの山頂はまさに極限状態。そんな中で石を持ち帰ろうという発想自体、僕には浮かびません。
下りは登りよりラクだと思われるでしょうが、実は山は下りのほうが肉体的・精神的にも圧倒的に苦しい。
実際、エベレストでの死亡事故も下山中に多い。


史上6番目、日本人初のエベレスト登頂。1970年。29歳


2度のエベレスト登頂失敗
2度、チームでのエベレスト登山を経験して、登山隊にいると、どうしても人に気を遣う自分に疲れることに気づき、
植村さんは、これ以降、単独で南極点を目指すという水平の冒険へとシフトしていくことになる。
しかし、9年後の1980年、またエベレストに帰ってくる。
3度目は自らが隊を率いた、未踏の厳冬期登頂。

「山では絶対に死んではならない」というのが口癖だった植村さん。この登山で、隊員の竹中昇さんが不慮の事故で亡くなってしまう。
息を引き取ったのは植村さんの腕の中。植村さんは何十回も人工呼吸をしたが帰らぬ人となってしまった。

極限状態では、人は淡々としてしまう。そうしないと自分に疲れてしまうんです。
僕も山で人が死ぬのを見ましたが、正直、その時は「あ、死んでしまった」という気持ちしか湧かなかった。
それはたぶん人が生きるための防衛反応が働くから。感情的になると、エネルギーを消耗して、自分も死の危険に曝されてしまう。
植村さんもおそらくベースキャンプに戻ってから、慙愧の念などが一挙に押し寄せたのではないかと思う。


新たなる夢、南極へ
 
マイナス40度の中、北極点を目指す/北極点にて

 
グリーンランドではイヌイットのイヌートソア夫妻の養子に/1984年、厳冬期マッキンリー単独登頂成功後に発見されたフィルムを現像した写真

「冒険家に必要なのは、臆病者であること。
 大きな目標に向かうには何年もかけて周到に準備をし、装備にも工夫を凝らした。
 極地での冒険には、まずその土地の人の生活になじみ、知恵を学ぶことから始めた」(植村

「山といえばエベレスト」と考えていた植村さんにとって、エベレストはとても魅力的である、
と同時に「地球上第三の極点」と位置づける厳しい山だった。
「山は自分のために登るものだと思う。誰からも左右されない単独行であれば、すべてが自分にかえってくる。喜びも、危険も」

登山家、冒険家には逃れられない業のようなものがある。大変な思いをして頂上に着いても、その時点でもう次のことを考えているんです。
次の目標がないと生きている実感がない。やっかいですが、それが登山家、冒険家という生き物なんです。


第3回 北極 単独行

水平の冒険へと向かった理由
植村さんが冒険を垂直から水平に移行したのには、いくつかの理由が考えられる。
1つは自分は困難な「岩壁登攀(がんぺきとうはん)」に向いていないと気づいたこと。

植村さんは、南極への準備に入る前にグランド・ジョラス北壁(アイガー、マッターホルンとともにアルプス三大北壁)、エベレスト南西壁に挑んでいる。
グランド・ジョラス北壁は、岩壁登攀のエキスパート小西政継さんに本格的なクライミングテクニックを教わった。
なんとか登って生還したが、小西さんは凍傷で両足指10本、左手小指を失った(両足指10本って・・・


妻の公子さんの存在
もう1つの理由として考えられるのは、結婚して家庭をもったこと。
1973年、当時住んでいた東京・板橋区の下宿の近くにあるトンカツ屋で、野崎公子さんと知り合い、翌年、結婚。
プロポーズは「山はもうやらないから結婚してください」w
妻にも気を遣った植村さんですが、妻の前では本心を隠せず、子どもっぽい面も見せていたようです。


夫妻の食卓。雑誌の企画で。1983年。42歳


極地での暮らし方を学ぶ
まずは、南極大陸横断と同じ距離3000kmを体感するため、北海道稚内~鹿児島までを歩く日本列島横断の旅。
途中で泥棒と間違われて警察に連れて行かれたり、実家に寄って母親から「なにしとるんじゃ」と呆れられたり(w
52日間かけて1971年10月20日にゴールした。


日本横断歩行。1971年。31歳

1972年。グリーンランド最北端のシオラパルクという村に行き、10ヶ月滞在して、
イヌイットから犬ぞりの扱い方、釣り、狩りなど極寒地での暮らし方を学ぶ。『極北に駆ける』
おそらく植村さんは、日本のような近代化された社会より、狩りや農業などを生業にする大自然のほうが肌に合っているんでしょうね。
植村さんは、世話になった夫婦の養子に迎えられた。

極北において犬ぞりは重要な交通手段の1つで、犬はペットではなく労働犬です。
甘く接すれば自分の命が危うくなる。言い聞かせるためには本気でムチで殴り、弱い犬は殺して毛皮にするのが当然だが
「頭で理解しても自分は最後まで同じように犬を扱えなかった」と講演で述懐している。

腕試しに無人地帯も含むグリーンランド西海岸3000km犬ぞり単独往復行に臨んだ。
無事戻った植村さんは「ジャパニ・エスキモー」と呼び名をもらって賞賛された。


北極圏1万2000キロの旅

自ら設計した極地用テントの中で。1978年。37歳

1974年、北極圏1万2000km犬ぞり単独行に挑戦。ゴールには公子さんの姿もあった。
後の講演で「私にとって本当に苦労、満足を感じたのは最初の無銭旅行の旅であります」と語っているように、
海外放浪時代が原点だった。


北極点到達への道のり
1978年、世界初の犬ぞり単独行での北極点到達という偉業を成し遂げ、
さらに前人未到のグリーンランド内陸氷床3000kmを犬ぞりで走破。世界の評価は不動となる。

しかし、これまでの自己完結的なスタイルと違い、この冒険は「社会的責任」が生じていた。
北極点到達には大金が必要。途中で飛行機による食糧補給も必要。それで世間に募金による資金集めをした。

「自分の夢のために人様からお金を集めて、私は泥棒のような人間です。本当に申し訳ありません、申し訳ありません・・・」(後援会や壮行会での挨拶

今では、スポンサーから資金を集めて冒険に出るのは当然だが、植村さんの時代はそうではなかった。
スポーツなどに純粋なアマチュア精神を重んじる当時の日本人は「プロの冒険家」を認めたがらなかったんだと思う。
それゆえ、植村さんに対する世間の風当たりも非常に強かった。

「私のことを探検家、冒険家、登山家と言う方がいらっしゃいますが、自分で何々家と思ってやったことは一度もございません。
 敢えて言えば、放浪家と言ってもらったほうがもっとぴったりしております」(1979年講演


プロとアマの二面性

北極の乱氷帯を進む。1978年。37歳

植村さんのやっていることはプロなのに、心は純粋なアマチュア精神を残していた。
だからこそ批判や中傷をすべて受け止めて、一人で苦悩を背負ってしまった。
プロは、冒険を商品だと割り切るくらいでないとやっていけない。
冒険家とスポンサーはお互いのメリットを考慮して成立しているから、これをズルい、と思ってはいけないんです。

私は今はウェアにスポンサーのワッペンが付けば付くだけ「死ぬ自由がなくなる」と考えています。
悪天候で、進もうと思えば一か八か行っちまおうと思う気持ちが出る。こういう時、死ぬ確率は高い。
その時、ワッペンが多いほどブレーキになる。

でも植村さんはプロにはなりきれなかった。
北極点到達の時も単独行と言いながら、人々の期待や重圧を背負って、がんじがらめの状態だったはず。

偶然、同時期に日本からもう1つの犬ぞり隊が北極点に向かっていた。
隊員のほか、イヌイット11人、訓練された犬150頭を抱える大所帯の日本大学の遠征隊。
単独で寄せ集めの犬を15頭だけの植村さんは、わずかの差で先を越されて
ゴール後の無銭基地で「くやしいな~」とつぶやいた声が残っているそうです。


第4回 成功も失敗も越えて

見果てぬ夢、南極大陸単独横断
1982年2月、南極に向かい、アルゼンチンからの支援をようやく得た矢先「フォークランド紛争」が勃発
1年待ったが、1983年に帰国。
結局、南極大陸犬ぞり単独横断と、南極最高峰のビンソン・マシフ登頂の夢は果されなかった。

当時40代といえば「そろそろ年齢的に限界だろう」と考えられた時代だった。
これらをひと言で言えば「失敗」「断念」となるが、その背景いにはいろんな事情があったでしょう。

僕の場合は、2度続けてエベレスト登頂に失敗した時。
その時、無理をしていった隊員は凍傷で指の大半を失ったが、僕は無傷で生還したから、自分ではそれほど大きな失敗とは思っていなかった。
しかし、帰国した途端「野口、2度目のエベレスト登頂にも失敗」と一斉に叩かれた。
「ついに7大陸最高峰の最年少登頂記録樹立なるか」と期待されていたから、その変わり様に驚かされた。


夢を追う者が背負うもの
僕は小中学校での講演に呼ばれて「夢を持って生きていくことの素晴らしさを、子どもたちに伝えてください」と頼まれる。
たしかにそれは素晴らしいが、でも、夢を持ち続けた人が100%幸せかと言われると、そうでもない気がする。

オリンピックを見ても分かるはず。皆の期待を背負って大会に出場するのは誇らしいが、同時にプレッシャーもかかる。
勝てばいいけど、負けて帰ればボロくそに言われるわけです。
「夢を持ってしまったがゆえの苦しみ」は、たしかに存在する。

北極点到達後の植村さんさんは、イギリスのスポーツ団体から「バラー・イン・スポーツ賞」を贈られたり(こういうのは必ず絡むねイギリスw
「ナショナル・ジオグラフィック」誌の表紙を飾ったりしたが、南極大陸単独横断を断念して帰国した植村さんはかなり落ち込んでいた。


野外学校設立を夢見て渡米
植村さんは、もう1つの夢に向けて歩みはじめる。1983年に訪れた帯広で野外学校を開きたいと語るも、
「戸塚ヨットスクール事件」が起き、「一方的に生徒を強制するのでなく、自主性を引き出すやり方はないか」と教育分野にも興味を抱く。

2ヶ月後、アメリカのミネソタにある「アウトワード・バウンド・スクール」(1989年、長野県子谷村にも開校/驚)という野外学校を目指して渡米。
そこでアシスタント・インストラクターとして犬ぞりの指導をした。

「僕らが子どもの頃、目に映る世界はみな新鮮ですべてが新しかった。しかし、大人になると疲れて夢を諦めてしまう。
 美しいものを見るためには子どもの頃の純粋なココロを持ち続けることが大切なんだ。
 いいかい、君たちはやろうと思えば何でもできるんだ。僕と別れた後もそのことを思い出してほしい」(植村


雪洞に残された最後の日記
1984年1月、植村さんは最後の〔誰もやったことがない冒険」となった厳冬期マッキンリー登山に向かう。
植村さんはテントを持たずに「雪洞」を掘りながら登るスタイルをとった。
単独登山で、風の強い山ではテントより雪洞のほうが、かえって安全な場合も多い。

標高5200mの最上部の雪洞には、植村さんが愛用していた装備が残されており、捜索隊によって発見されている。
その下の雪洞には、記録魔だった植村さんの登山日記も残されていた。
僕はそれを読んで、植村さんらしくない違和感を覚えた。

植村さんは自分のことを「私は人一倍、臆病者です」と語っていた。
僕が一番気になったのは、日記の最後に書かれた「何が何でもマッキンレー登るぞ」という言葉。
登山では体力、気力のほかに、判断力が求められる。
突っ込むか、突っ込まないかの判断は非常に難しい。微妙なケースに直面するほうが多いんです。

「何が何でもマッキンレー登るぞ」の下に、ピンッと跳ね上がるような線が書かれている。
そこには登頂への意気込みと同時に「俺はまだ南極を諦めないぞ」という植村さん流のしつこさを感じます。


日記


マッキンリーへ追悼の旅
僕にとってマッキンリーは「植村さんの山」。自分も登った際、途中で植村さんと山登りをやってきた小西政継さんに出会った。
小西さんは、植村さんに会いに訪れていて「会いに来たよ。植ちゃん」て山に語りかけるように登っている。
その時、小西さんから「65歳までに8000m峰14座を、すべて登るつもりだ」と聞いて、
「僕もエベレストには登るつもりなので、ぜひご一緒させてください」とお願いした。

1996年。僕がネパールのチョー・オユーに登っている時、小西さんがマナスルに登ると聞き、
「山を下りたらお互いカトマンズで合流して、打ち合わせをしてから翌年エベレストに登りましょう」と話した。
下山した私は、カトマンズで小西さんがマナスル登頂に成功したと聞き、待っていたが、なかなか下りてこないので仕方なく帰国。
帰国した晩のニュースで、小西さんがマナスルで遭難したと知った。


なぜ冒険家は危険に向かうのか?

「なぜ自分がこんな冒険をやらなければならないのか、よくわからない。
 しかし、直感的にわかるのは、もし冒険をやらなければ、おれという人間は無になる。
 もともと社会人として一人前になれない自分が、正真正銘の、無意味な存在になってしまう。
 だから、やるしかない、前進するしかない」(『文藝春秋デラックス』1979年10月号


植村さんに教わった「諦めずに続けること」を胸に刻んで、ここまでやってこられたことに感謝し、
それを次の世代へ伝えていきたいと思っています。

topics~外国人に人気の日本ツアーランキングに地獄谷 ほか

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最近の気になるトピックス。

●原田美枝子さん出演のCM
いつ見てもステキだなあ!

 

 


英米で大人気の2人芝居『RED(レッド)』に哲さん!
待望の日本初演が実現!!
2015年8月下旬~10月初旬(新国立劇場小劇場 THE PIT)
出演:小栗旬 田中哲司
一般前売開始:2015年7月頃を予定


ミグノンプラン
“2/8(日)12:00-16:00 いぬねこうさぎ譲渡会&フリマです。”
もう過ぎちゃったけど、譲渡会&フリマはときどきやってるのかなあ?


外国人に人気の日本ツアーランキング、3位はニホンザル
“第3位は長野県の「スノーモンキー日帰りツアー(東京発)」だった。
 猿が温泉に入っている姿を見ることができる世界唯一の場所として有名な「地獄谷野猿公苑」”


やったね♪♪♪


運転免許自主返納が大幅増…代替「経歴証明書」の魅力アップ
「運転経歴証明書」っていうのを初めて知った。写真付き身分証明書が必要なら「住基カード」でいいのでは?
長野もクルマがないと生活できない。私の父は返納したが、母の運転に頼らざるを得ないのが現状。
マイカーに代わる便利な足が必要だなあ。


松岡修造熱血語録 分娩室の妻に「勝負だ、勝負に出ろ!」
“松岡修造(47才)の超ポジティブなそんな言葉が並ぶ日めくりカレンダー『まいにち、修造!』(PHP研究所)が、
 1月28日発表のオリコン本ランキングで累計21万部を突破し、カレンダーとして史上最高の売り上げ記録を更新した。”て爆×5000
相変わらず面白いなあ!




追。
最近、私は乳製品で生きている。牛乳、チーズ、ヨーグルト、などなど
冬は牛乳を温めて、スティックに入った粉タイプのを混ぜて飲むのにハマっている

ブレンディ
圧倒的な種類。値段もお手頃。最近コーヒーは飲まないから、「紅茶オレ」「抹茶オレ」あたりかな。

マキシム
「キャラメルマキアート」「クリーミーバニラ・ラテ」が好き。
コーヒーと比べて、ラテのカフェインってどれくらいなんだろう???

スティッククラブ
・「スペキュロスココア」5種のスパイス
う~ん・・・チョコレート好きはココアも好きだが、いろんな味を入れすぎてカカオ味がどっかいっちゃってる。底にだいぶ溜まるし。

・「ダッブルリッチミルクティー」
この会社のは大体濃い系なのね。疲れた時の一杯にはいいかも。

・お濃い茶とミルクの京ラテ
抹茶系も増えて、凝ってきてる。これもまたよし。

トワイニング
「チャイミルクティー」
ローソンにあったスティックのチャイが好きだったんだけど、最近置いてない・・・
これと同じだっけ?思い出せないなあ。コンビニのは2本入りだから。

スティッククラブ チャイ(これか?
スティッククラブ マサラ チャイ(こっちか?

大河ドラマ『花燃ゆ』第6回「女囚の秘密」

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大河ドラマ『花燃ゆ』
脚本:大島里美、宮村優子
出演:井上真央、伊勢谷友介、大沢たかお、長塚京三、檀ふみ、原田泰造、優香、井川遥、北大路欣也、内藤剛志、奥田瑛二、
東出昌大、瀬戸康史、高良健吾、劇団ひとり、佐藤隆太、要潤 ほか


第6回「女囚の秘密」あらすじ(ネタバレあり
久子から祖父の遺品をもらってきて欲しいと頼まれた文は、高須家に何度も頼むが門前払い。
(囚人とは直接会ってゆっくり話せるのか。てか、もう文は特別扱いなのか

文は兄に亡き金子が持っていたボタンを渡す。
文に渡される書物のリストの中に富永有隣の書もあったので、新しい筆をあげると喜び、みな「書を教えてくれ!」と迫る。
久子にはお手玉を作って渡す。

高須家で久子の娘・糸に出会い、母のことを告げると「母ではない」とつき返される。
司獄(牢の番人)福川は「ここにいるのは厄介者ばかり。生涯家には戻れぬ者ばかりじゃ」と文に教える。


萩城に伊之助が戻り、明倫館で教えるよう命じられる。
伊之助「萩はもっと洋学を学ぶべき!」
椋梨藤太「まずはお家であろう!」と、また対立

 

伊之助は寅次郎を訪ね「お前をここから出す!」と誓うが、
寅「文に証しを見せろと言われた。金子の分も生きねばならん」
伊「獄の中に生きるのが償いか!?」

寅「だが、今はここで己を尽くさねばならん。オレを頼るな、伊之助」
伊「心は急いているのに、1人ではなにも出来ぬ・・・」


糸が久子に会いに来た。
糸「これ以上、使いをよこすのは止めてください。夫を亡くした淋しさから、身分の低い三味線屋と密通した」

帰ろうとする糸に
文「母上様は、あなたを怒らせたかったんです。嫌われてもあなたに会いたかったから」

久子「これから嫁いで、子をなしても、二度と会いには行きません。帰りなさい、糸」
糸「二度とここには参りません。私はあなたを憎みます。憎んだ人のことは忘れないでしょうから」
と手を握る。



寅「なぜお手玉を捨てたのですか? 私にも捨てられない大事なものがある。お聞かせ下さい!」

久子「獄につながれた時、美しいものも、楽しいものも、すべて求めてはいけないと思いました。
   憎いと聞いた時、生きて傷つくことも償いではないかと」


寅は孟子の言葉を引用する

寅「すべての感情は元々ヒトに備わっているもの。一生獄にあろうと誠を尽くせば、善を尽くすことができる。
  心に感じたのであれば、それは幻ではない。人は変われるのです!」
(釈迦の説法みたいだな

この言葉に、獄での最年長47年間もいる獄囚・大深が感銘を受ける。


大深「お主の話をもっと聞きたい。47年間の中で、今日はまことに愉快である」



寅は獄で囚人に学問を教えはじめる。
寅「逆境こそが人を育てるのです」

それを見た伊之助は
「オレにはオレのやることがある。胸を張ってそう言えるまで、あいつとは会わん」と誓う。

文「どうしてこんなことになったのでしょう?」
福川「強いて言えば、お前の筆のせいじゃ」


 

 

 

 



テープ&MD音源のデジタル化シリーズ~Justa Record Presents ほか

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渋谷TSUTAYAメモ:
10枚1週間レンタル 2000円+税ってセットは若干安くなるが、
ポスト返却にすると、1袋あたり6枚までだから2袋になって300円ほど追加されるので要注意

Justa Record Presents Jamaicangoodgood Oldies Series Jamaican Lounge Music
ジャスタシリーズのつづき。これらって、私が昔、新宿TSUTAYAで借りて、テープにダビングした時のディスクそのままじゃないかと思う/感慨
1枚30分程度でさっくり聴けるのもイイ。流しっぱなしで洗濯とかしてるなら長くてもいいかもだけど、
1枚70分とか、1曲が長いだけでも、疲れてしまう

ライナーは川上さん自身が書いたものと、お馴染み山口'Gucci'佳宏さんが書いたものと2種類あるのも贅沢v
いろいろ歴史が分かりやすく書いてくれてて有り難い。でも、まあ音楽が楽しければイイよね

【ライナー抜粋メモ~川上つよし】
ミュート・ビートがスカタライツのサックス奏者で半身不随を患ったローランド・アルフォンソをゲストに迎えて
渋谷クアトロでライヴをやった時、思わず熱いものがこみ上げるのを抑えられなかった。
後日談で、このライヴの日、ローランドは入国手続きが遅れ、会場入りが本番直前、ろくにリハもできず、ほぼぶっつけ本番だったという。
こんな世界の反対側の国で、30年も前に忘れ去られた音楽を楽しむ若者がこんなにいることが信じられない、とでも言いたげな表情だった。

ジャマイカにおいてわずか数年で過去のものとなってしまったスカ。
膨大な数のトラックを録音したのだから、休む暇もなくレコーディングしたことになる。
シングルのA面のトラックを使ってB面を作る「ヴァージョン(ダブ)」は、その直後くらいの時代。

スカはその後、十数年を経て、突如イギリスでリバイバルし、今や1ジャンルとなった。
ローランドほか、ジャッキー・ミットー、トミー・マクックももう既にこの世を去り、スカ時代を体現した人たちも数えるほどとなった。
だが僕は悲嘆にくれることはない。音楽は残るのだから


JUSTA RECORD Presents~Skinhead Reggae
【ライナー抜粋メモ~川上つよし】
再結成し、2度目に来日したスカタライツを日比谷野音で見た時、「これはジャマイカのジャズだ!」と確信を得た。
当時、彼らがアメリカのジャズに憧れていたことは、ミドルネーム「Dizzy」「Cannonball」からも明白だ。
テーマからソロ回し、テーマに戻るスカのインスト構成は、ジャズ~ビ・バップのフォーマットそのまま。

それまで最もモダンでヒップで輝いていたジャズは、60年代以降、ロックの爆発的流行に押されてか、
内向的で難解なフリージャズ、ポップスに迎合したフュージョン系に大きく別れてしまう。
70年代には、ジャマイカ音楽からも、ルーツを探究しようという「ラスタファリズム思想」が生まれる。
迷いなく、音楽そのものをエンジョイするという、健気なまでのひたむきさは、
現代失われてしまったもの、取り返しのつかないもの、かけがえのないものに感じられる。

【ライナー抜粋メモ~2000.10.3 山名昇】
1960年代半ば、イギリスに「モッズ」と呼ばれた集団がいた。
1966年頃から、彼らは髪を伸ばし、いわゆるヒッピー時代がスタート。
モッズのコアな連中は髪を切った。スキンヘッズのはじまりである。

そのスキンヘッズが愛好したジャマイカ音楽の総称がスキンヘッド・レゲエ。
モッズがR&B、スカをサポートしたのに対し、スキンヘッズはソウル、ロックステディ、初期のレゲエへと変化する。
そもそもジャマイカは四国より小さな国。
この感覚は「モッド・ジャズ」という言い方に近い。メインの楽器はオルガン。

このCDは、選曲および曲順が僕の責任下にある。
1曲目は、何が何でもローレル・エイトキンから始める。しかし、こんなアホな曲を選んでいいんだろうか
6曲目。このマガマガしさ、おバカな世界こそスキンヘッズのもの。モッズよりもディープなドラッグをやっていたのではないだろうか。
「ルーディ」とはルード・ボーイのこと。スキンズはすべてルーディだが、連中たちが自ら名乗ること、言葉上もほぼないのでお間違えなきよう。


Justa Record Presents Jamaicangoodgood Oldies Series Wicked Ska Vocal
【ライナー抜粋メモ~川上つよし】
「管楽器奏者がたくさんいる本格的スカバンド、東京スカパラダイスオーケストラに参加しないか?」
当時スカ~ダブ系バンド「ザ・コパセティックス」をやっていた僕らに願ってもない話だった。
話をもってきたバンマスのAsa-Changの誘いに応じ、青木、沖、武内らと参加したのが1987年。
ところが、実際はメンバも揃わず、管楽器をまともに吹ける人もほとんどいない状況(爆

オーセンティック・スカを演奏する際、最も大変なのは管楽器よりドラムだろう。
後にレゲエの「ワン・ドロップ」と呼ばれるスタイルは、とくに8ビート系のドラマーたちにはかなり戸惑う。
スカタライツ来日の際、オリジナル・メンバーのドラマー、ロイド・ニブのプレイを間近で見れ、幸運にも楽屋で直接話せたが、
聞けたのは「カールトン・バレットは俺の弟子で、スライ・ダンバーはボーヤだった!」などだった

【ライナー抜粋メモ~2000 山口'Gucci'佳宏(下北沢RAKSTONE Records店主)】
ジャマイカにおける音楽は、貧困生活の中、そこから這い上がるための1つの手段で、また国の重要な産業の1つだった。
1960年代、国自体が発展途上で、音楽産業が急成長を遂げ、レコードレーベル、プロデューサーが次々現れ、
スタジオ設立、プレス工場ができ、多くの有能なアーティストが出現する。

「Wicked」とは「カッコいい」の意(変な、かと思ってたw
主にマイアミ辺りからラジオに乗って流れてくる曲、「サウンド・システム・マン」が渡米して仕入れたレコードを楽しんでいたが、
需要が高まり、サウンド・システムのオーナーらがプロデューサーに転じ、自国のジャズミュージシャンを集めて制作を始めた。
カリプソやメントなどを取り込んだのが「スカ」。初のジャマイカン・オリジナル音楽なのだ。1960年代初頭。

当時のジャマイカのシンガーたちの流れには何通りかある。
カリプソ系シンガー:ロード・クリエイター、ロード・タナモら。
R&B系シンガー:JBやインプレッションズのカーティス・メイフィールドらを真似した。
ゴスペル系シンガー:ジャマイカでは幼少期にゴスペルを歌っていたシンガーも多い。
ポップス系シンガー:女性シンガーが多い。

本アルバムには、そんな60年代のスカ期を代表するトップヴォーカリストの名曲が収録されている。
1曲目。バイロン・リーはジャマイカの2大ディストリビューター(中間業者・卸問屋?)の1つ「ダイナミック・サウンズ」の創設者。
6曲目。ケン・ブースは「Mr.Rock Steady」の称号をもつベテラン。
12曲目。存在が神格化され、レゲエ界の奇才として知られるリー・ペリー。


Justa Record Presents Jamaicangoodgood Oldies Killer Ska Instrumental
【ライナー抜粋メモ~川上つよし】
僕がスカという言葉を初めて知ったのは80年代初め、スペシャルズというバンドだった。
ポークパイハット、サングラス、細いスーツというモッズスタイルの彼らはスカを大胆にパンクロックに導入して一大ブームを起こした。
70年代の様式化し、コマーシャリズムに毒されたロックを否定する強い意志があった。
クラッシュ、ポリスらも取り入れて、愛情と敬意を打ち出していた。

「オーセンティック・スカ」を初めて聴いたのは「CLUB SKA'67」というコンピ。
やけに大きなバランスで被さる「チキッチキッ」というパーカッシヴな擬声や(私も最初チキってなんだ?て思ったw
「Fire!」と突拍子もなく入ってくる変な声?が印象的。
僕らはザ・ルーラーズの曲名から名をとって「ザ・コパセティックス」を結成した!

【ライナー抜粋メモ~2000 山口'Gucci'佳宏】
「カッコいい」という意味のレゲエ特有の言い方は「Wicked」のほかにも「Big Shot」「Gem」などがある。
「Killer」は早いテンポが多い。縦ノリのアップビート。派手なアレンジ、ホーンセクションが派手に吹き、みんなが踊りまくる。
最初はジャズミュージシャンから始めただけに、シャッフル、ジャンプ&ジャイブ系が多かった。
アメリカでもハード・バップに移行するように、スカも激しい「キラー・スカ」が誕生する。

しかし、行き着いてしまったものが飽きられるのは世の常で、60年代半ばはゆっくりとしたロックステディに取って代わる。
スカはその後も愛され続け、2トーンスカ、ネオスカ、スカコア、スカパンクなどと変化してゆく。

4曲目。西部劇好きのジャマイカンは、西部劇を題材にした楽曲が多い。
5曲目。「口チュキ(チュク)」が印象的(チキのこと?
7曲目。「Collie」とはジャマイカン音楽にいい意味でつきもののマリファナのこと。大麻の芽。
11曲目。「Dumplin」はジャマイカの朝食とかに出される水煮の粉まんじゅう。けっこうウマい。
12曲目。タイトルは台湾の英雄「蒋介石」のことだが、なぜかこうなった(いいなあ!全然違っちゃったけど/爆


Justa Record Presents Jamaicangoodgood Oldies Nice & Easy Rock Steady
【ライナー抜粋メモ~川上つよし】
カリプソやメントなど土着のカリブ海音楽に、60年代のR&B、ジャズが混ざったのがスカと言われる。
だが隣りのキューバと共通項を見出すのは困難だ。キューバがスペイン語圏という問題、政治的にアメリカと対立していたこと。
奇しくもキューバ危機と同じ62年に、イギリス植民地支配から独立し、英語圏のジャマイカは、中南米諸国とは異なった道を歩んだ。

65年頃まではシャッフル系のリズムが多く、スカはブギウギ系の裏拍を強調したのではと思う。
当時流行った「サウンド・システム」がわざわざアメリカに買い付けに行く代わりに、自前でレコードを作ろう!というのがきっかけ。
スカは最初から人々を踊らせる使命を持っていた。

独特の「ハネ感(スウィング感)」はダンス音楽において古来から重要な1要素。
当時はこのハネ感がかなり微妙だと気づく。この曖昧なハネ感こそ、体から出る本能的な、横ノリ、うねるビート感なのだ。

【ライナー抜粋メモ~2000 山口'Gucci'佳宏】
Rock Steadyは初期の形態の1つで60-70年代に流行ったスタイル。
アップテンポのスカから移行した理由の1つは、ジャマイカを襲った熱波で、
激しいビートについていけず、のんびりした音楽が求められた説もある

特色としては女性シンガーが活躍したこと、アメリカのヴォーカルグループ、インプレッションズ、
テンプテーションズ、ドリフターズ(大好き)らをこぞって真似したこと。
また、スカでは前面に打ちだされていたホーンセクションが、ギター、キーボードに取って代わった。

2曲目。「Mr.Soul of Jamaica」の称号をもつ大シンガー、アルトン・エリスの名作ロックステディ讃歌。
8曲目。なぜかジャマイカの女性シンガーは短命が多いが、このルディ・ミルスもその1人。


デカダンス・ピエロ/勝手にしやがれ
 
まず、このジャケ写真に惚れる。これもずっとテープで聴いてた。

 


ORANGE/フィッシュマンズ
 
これは初聴きだけど、知ってる曲もありv


倉持の魂/倉持陽一
YO-KINGじゃなくて本名名義なんだ。記念すべき1枚目からヨーキンさんそのものw
あけっぴろげで、毒を吐きつつも、愛に溢れてる ピアノソロなんて書いてある/驚
この時からすでにMB’sと一緒に演ってたんだね!

モノクロ写真に略歴が書いてあるんだけど、本人が書いたのか、本人の略歴かどうかも分からないw

  

おばあちゃんみたいな人をGFってゆってたり、背後に映りこんでるものを「持って生まれた非凡な力に気づき、
たびたびUFOを呼んでしまう」ってゆったりw(おじいちゃんっ子だったらしいw

 
26歳、1993年。真心結成して東京ドーム10日間連続講演大成功して天狗に?! 最後はハゲヅラだしw


think twice /AOEQ

プラの板みたいなところにディスクがハマってるデザインが斬新/驚


SAKE ROCK/慰安旅行


サケのライナーノーツもいつも面白い。今回は小説形式。『銀河鉄道の夜』みたいな『阿房列車』のような(まだ読んでないけど
手でドラムを叩くのを「hand drums」って呼ぶのね。

【ライナー抜粋メモ~2004.3.5 松永リョウヘイ(リズム&ペンシル)】
「ままかり」はうるう年に1回だけ、予告もなく走る特別列車だ。その都度行き先も違うらしい。
あれ?おかしいな。ヘンな疲れが出てるのかな。連れの顔が、もう十何年も会っていない小学生の頃の友だちになった。

やたらと笑い皺の深いチビが日本語とは思えない言葉をファット・リップから早口でまくしたてている。
鼻の大きな美少年がブレイクビーツを叩き始めた。
めがねをかけた坊主頭の弾くマンドリンと共に夜風が車内に吹き込んだ。
ヒョロリとした、でかいベースを抱えたイケメンと目が合った。恥ずかしそうに会釈する。

「次はグリーンランドです!」(星野さんとのリンクか!?

「テキカス!」「テキカス!」
きみたち、それはテキカスじゃなくて、テキサスなんだよ・・・。

ノアルイズ・マーロン・タイツのみなさんが演奏に加わる。

カウントと共に、物凄い勢いで4人が走り出していた。
その形相はばかばかしいくらい必死で、みっともなくて、うれしそうじゃないか。
ああ、おれはサケックにさらわれた。そう気が付いたときは、もう遅かった。

これは4人編成となって初めてのミニアルバム。
「テキカス!」は、サケと交遊の深い劇団「ペンギンプルペイルパイルズ」に提供したサントラを発展させたもの。

 

ブラサキラジオ2015.2.10 OA

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「ブラッデストサキソフォンのスイングサーキット」@FM Mot.Com 77.7MHz (インターネットFM)

詳細はFacebookにて

今週も始まりましたよブラサキラジオ。
11日は甲田さんの誕生日。おめでとうございます~

2014年11月12日発売された新譜『ROLLER COASTER BOOGIE』(Bloodest Saxophone feat.Jewel Brown)から

♪TWILIGHT TIME/Bloodest Saxophone feat.Jewel Brown

【2月のテーマはラーメンvol.2
遊びに来ていたTHE MINNESOTA VOODOO MENのユウスケさんは「中華料理店のフツーのラーメンが好き」
同じく、シュガースペクターさんは「黄色い麺で、ナルトが入っていればいい」
甲田さん「それならオレ、作るよ」

甲田さん「レバニラが美味い中華屋を見つけて、レバニララーメンとライスのほうが安い」話に拍車がかかってたけど、
タケオさんはあくまで「(肯定もしないが)否定もしないよ」

【飲み屋コーナー】
ユキさんレポによる浅草「ニュー呑呑」さん。立ち飲みスタイル。沖縄料理もある。柿ピーがフリー。

【Cohさん&修二さんの音楽コーナー】
今月はビバップ特集。

修「チュニジアの夜は、それほど好んでない」
C「初期のビバップ、野蛮な感じがイイ」
修「前のめり感。ガレスピーの飛び出しはイイ」

♪A Night in Tunisia/Boyd Raeburn and His Orchestra
スカパラも演ってる曲。アレンジ次第で変わるもんだなあ!


ラーメン話。
甲田さん「冬限定のモツ煮ラーメンも美味しい。ゴロゴロモツが入ってる。ネギもたっぷりボーーーーン
修造度180度くらいの熱さで、舌が回ってた甲田さんでした


♪Corn's A'Poppin' /Bloodest Saxophone


四大陸選手権2015 試合前の特番

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四大陸選手権2015 試合前の特番
大会を迎える前に、新星を中心にしたそれぞれの選手を紹介した1時間番組。

町田樹くんが無良くんにバトンを渡すシーンは感慨深かった。
みんなジュニアから切磋琢磨してきた仲間たち。日本人のフィギュア選手の結束はとくに強い気がする。
ライバルでもあり、友人でもあり。憧れる先輩でもあり、いつか追い抜くぞって後輩でもあり。


 



 


●宇野昌磨
 
「やっぱり4分半は辛いなってちょっと思いました」

 
「なんといっても一番良いのは、ミスが少ない」という山田コーチは「宇野くん大好き!」ってw

 

 
ロッカールームは男女一緒なの!?驚


●無良祟人
 

 

 

 

 


●村上大介
 

 

 
一時は引退もよぎったが、町田くんがポーンと飛び出したことで勇気が出た


●宮原知子
 

 

 

 
戦略はジャンプ、構成を直前に変えた

 
「努力に即効性はない」


●本郷理華
 

 

 

「ミスに引きずられないっていうのがすごい大事。最後で人の心が掴めるか掴めないか」
(鈴木選手とのマンツーマンは心強い!

ホット・スポット 最後の楽園 season2 第4回 天空の秘境 パンダの王国

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ホット・スポット 最後の楽園 season2

第4回 天空の秘境 パンダの王国 ~中国 南西山岳地帯~

 

 


 

 

標高5000mの「チベット高原」は、つねに強風が吹いているため、木も生えない。
氷点下40度まで下がる過酷な環境。
まさに聖域。こういう所にはニンゲンは入っちゃいけないんだ。


・チャカ湖

ミネラルと塩分を多く含む。塩が結晶化している。「かなりしょっぱいですね」ってw


●ウンナンシシバナザル(絶滅危惧種
 

 
必死に食べているのは主食の「サルオガセ(地衣類)」/福山さんも味見して「草ですね」w



●ヤク(絶滅危惧種
大型哺乳類。長い毛が体を守っている。

 

祖先は「ケサイ」では? 氷河期が過ぎて絶滅した。ヤクは高原に逃れて生き延びた。
標高が高いため、酸素は平地の1/3。


心臓は普通の牛の1.5倍、肺は2倍、それを支える肋骨の数も多い。



●クチグロナキウサギ
 
寿命はわずか1年。でも繁殖力が強い。



●サイガ(絶滅危惧種。カモシカの仲間
 
冬は冷たい空気を温め、夏は冷却する鼻のシステム



●チルー(絶滅危惧種。チベットカモシカ
 
300kmを1カ月かけて数千頭で移動する/夏なのに急に雹が降ってきた/驚 冬の寒さで命を失う子どもも多い



●ヒマラヤハゲワシ(準絶滅危惧種
 
はぐれたチルーの子どもを狙うが親に追い払われてしまった



●キンシコウ(絶滅危惧種

冬は木の皮を食べる



インドなどがユーラシア大陸に衝突してできたのが「ヒマラヤ山脈」、隆起した台地が「チベット高原」。
インドはそのまま圧迫しつづけて山岳地帯が作られた。
5000年前。共通の祖先だったサルたちは谷を隔ててそれぞれ進化したと考えられる。


●レッサーパンダ(絶滅危惧種
 


●パンダ(絶滅危惧種
現在確認されている野生のパンダは1600頭のみ。野生のパンダを見るのは研究者でも難しい。
大人は体重150kg。オスもメスもテリトリーを持つため、母子以外は1頭で行動する。
1日20kgの竹を食べ続ける。

・最近クマの部類と分かった(え・・・? 完全に熊っぽいけど?
 
「前足に秘密がある。パンダは竹を食べるために特別な骨が親指の横にできました」


 


 
固い竹をムシャムシャ食べれるのは、頭頂部まで発達した筋肉があるから。だから顔が丸い(CGコワイ・・・


 
氷河期の頃は雑食性。体も今よりずっと小さかった。寒くて、栄養が少なくても育つ竹を主食にして生き延びた




パンダの主食は竹99%。パンダが竹の栄養をどう吸収しているのか糞の微生物について調べたら、シロクマと2つの遺伝子が違っていた。
腸に特別な微生物がいること+肉を美味しく感じない性質がある(肉に旨味を感じる遺伝子に突然変異が生じた)


 

1990年からの約10年間で、生息地は、半分に激減。6箇所ほどの狭い地域に分断されている。
理由はニンゲンの農地の開墾で、竹林が畑にかえられたから。


 
一時は1000頭ほどになったが、保護活動が本格化。
1988年、森林伐採を禁止+植林がスタート。森の復活プロジェクトが進められている。


・人工繁殖
 


 
生後2週間の赤ちゃん/生後1カ月の子ども


 
1歳半まではミルクを与え、徐々に竹を食べさせる

センターでは毎年10匹ほどが誕生。最終目的は野生に放すことで、訓練している。
しかし、人工繁殖がはじまって30年。野生復帰の試みから8年。生き残ったのはたったの3頭!
自然を壊すのは一瞬。戻すのは至難の技。このパンダたちは人間の保護の下で生きている。





血が足りない!? どうなる?どうする?献血@ニュース深読み

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血が足りない!? どうなる?どうする?献血@ニュース深読み
 

「血が足りない」って吸血鬼みたいなタイトルだね

羽生結弦、CMで歌唱シーンも披露 「はたちの献血」キャンペーンキャラクターに
羽生くんのCMが真っ先に紹介されてた

団塊の世代

「団塊の世代」ってコトバは、よく出てくるけど、これを読むと、いちばんイイ時期を過ごした人たちに思えるなぁ。
と同時に、今の環境破壊、少子高齢化などを生み出した人たちにも思えてくる
私と親との間にある大きな壁ともダブってくるんだ。


【内容抜粋メモ】
 
スカイツリー、秋葉原でカフェのような献血ルームが作られて注目されている

献血対象
16~69歳なら誰でも受け付けている。


輸血は事故などの怪我よりも病気の輸血に使われている

今や日本人の2人に1人ががんになる時代。病気の患者さんへの毎日の輸血に必要。


献血輸血までのシステム

検査→製剤→保管→輸送→輸血
※血液は保存がきかない、冷凍できないため、最短4日間で常に病院に運んで使っている。


輸血は献血で100%まかなわれている


・売血
昔はあったが、お金に困って血を売り続けてフラフラになって電車に轢かれる事件があったり、
病気を隠している人がいて安全性に問題が生じるということで禁止された
例:1964年、輸血された人がC型肝炎に感染してしまったケースなど。

・輸入
基本的に「自国でまかなう」という原則がある。

 
「人のために」という善意で成り立っている

けっこう「報酬があればいいのでは?」という疑問を引っ張っていたが、
有償で行うのは「臓器売買」と同じとみなされ、WHOでも善意の献血を提唱している。
ポイント制も×。でも、献血するとお菓子や洗剤、ジュースなどもらえるのも報酬では?とかetc.


少子高齢化の影響などで血液が不足
 

とくに若い人の献血率が下がっている。輸血を受けているのは大体50歳以上。
赤十字社はメール、電話などでも呼びかけているがなかなか集まらない。


「2027年というのは高齢者のピークと言われていて、それ以降は止まると考えられている」(そうなの???


献血に行かない・行けない理由
 

 
・ピアス:あけて半年、状態が良好なら1ヶ月後でも大丈夫(ばい菌が入るという理由
・成分不足:鉄分が足りなくて「貧血」と診断されている人

その他
・BSE問題があった時は、ヨーロッパへの渡航者は6ヶ月後2ヶ月後に改定
・体重制限:女性は40kg以上(50kgのほうがいいのではと議論中)
・クスリを飲んでいる人(抗生物質を服用して3日間後)

※問診であらかじめ聞かれるので、まずは足を運んでもらうのが先決。


献血を支えているのは超リピーター!
 
高齢者のリピーターはいずれ枯渇する新規者を増やすのが緊急課題/若者の善意は増えている


2005年「献血構造改革」
 
それでも減っている


海外での成功例~イタリアも少子高齢化で献血が足りなかった

この有休は年に4回とれる日本は普段からとりづらい雰囲気がある+義務化は主旨に合わない


日本での取り組み~女子学生のアイデア「Thank you レター」
 






輸血を受けた患者さんが書いた感謝のメッセージを病院内などに貼ったら、それを読んだ人が献血に協力してくれた。


その他の対策例
 


10代からの教育が必要。学ぶ機会がないのが問題。
「10代で学び20代で実践し30代で子どもたちに教えるのが理想」

・地道なキャンペーンでボランティア参加率が高くなっている例もある。
・共同募金など=経済のゆとり、心のゆとりと連携している
・SNSでの呼びかけもしている。

・献血者と輸血者をつなぐ活動が必要。
・会社に献血車が来て、正社員・派遣社員ともに献血できる。

・法整備よりも、もっと身近で知識を共有すること。
・医療機関での適正使用。
・赤血球を集中してとるなど、採血法を変える。



ドラマ『復讐法廷』

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ドラマ『復讐法廷』
監督:藤田明二
出演:
中原誠司(元・大学の美術科教授):田村正和
中原由紀子(誠司の娘):柳生みゆ
中原明子(誠司の妻):市毛良枝
中原遼(誠司の息子。宣教師):渡辺大

宇田栄子(誠司の妹):手塚理美
仲春一(誠司の知人で、誠司に猟銃の扱いを教えた):森本レオ
原田龍一(誠司の元助手):高橋光臣

緒方信子(弁護士。元・東京地検検事):竹内結子
安田陽一(緒方信子の婚約者):長谷川朝晴

岩崎健二(由紀子を強姦殺害したと思われる被疑者):中尾明慶

湯浅警部補(由紀子が殺害された事件で捜査を担当した刑事):水橋研二
岡田純紀(東京地検検事):田中哲司
篠崎昭(東京地検検事正。緒方信子のかつての上司):小野武彦
小田豪一(岩崎に無罪判決を下した裁判官のひとり。判事の職を辞して弁護士に転身):平泉成
吉岡勇(東京地方裁判所判事。信子の父とは親友で事件担当を信子に依頼):岸部一徳


▼あらすじ(ネタバレ注意
中原由紀子が松が原の森でレイプされ、殺された。
遺体を確認した父・誠司は「犯人はお父さんが必ず殺してやる!」と叫ぶ。
裁判では「被疑者・岩崎の自白は警官の強制によるもの」として認められず無罪放免。

その後、妻・明子は心労から心臓病で入院し、1年後に亡くなった。
誠司は、知人の仲から猟銃の扱いを教えてもらい、バーで働いていた岩崎を呼び出し、
ナイフで抵抗しようとしたところを猟銃で射殺。すぐに出頭し、自白した。



岡田検事に対しても冷静に答える誠司。
「岩崎を死刑にしなかった日本国の代わりに死刑にした。私は警察、裁判所を徹底的に弾劾します」
岡田「極刑になりたいのか? 反省しろ!」

ペルーで宣教師をしている長男・遼も
「よくやったね父さん。これでユキコも、母さんもきっと喜んでいると思います」(宣教師の言葉とは思えないが
誠司「私にはまだ仕事がある。弁護士はいない。一人で戦う」

元検事、現弁護士の信子は、父の親友で判事の吉岡に事件を担当しないかと言われる。
「君の父ならやると思ってね。誠司は自分の刑を軽くするつもりはないと言って、すでに弁護士が3人辞めている」

ノブコは、事件を捜査した木村刑事、湯浅警部補とともにレイプ事件を再検証することから始める。
木村「私たちも有罪に出来ずに悔しくて泣きました。詳細は全部頭の中に入ってます」と協力的。
事件当夜、白いワゴン車から出てきた男と話してから、自分から車に乗ったのを目撃した人がいたという。
岩崎は、これまでも強かん未遂の前科があるため、別件で逮捕し、荒っぽい取調べではあったが岩崎は自白した。

岩崎は本屋に行くというユキコに「送ってあげる」というと車に乗ったと供述したが、
誠司「そんな娘じゃない


しかし、死体解剖の際、ユキコが処女ではなかったことが分かり疑問に思うノブコ。誰に聞いても「恋人はいなかった」という。
誠司「2人のいないあの家には戻らない。私には殺意があった」
ノブコ「同情の余地があります」
誠司「私は無罪を望んでいません。・・・困ったな。あなたはちょっと娘に似ている」

この裁判以来、無罪判決を下した裁判官・平泉は判事を辞めて弁護士に転身していた。


誠司「殺意とはちょっと違う。怒りです。真面目に生きてきたのに、この国は犯人を殺すことができない。
   私は極刑を望みます。でも日本中に問いたい。岩崎は本当に無罪なのか」


岡田「私がこの事件を担当させてくれと頼んだのは、重要な法律上の問題があるのではないかと思ったから。人には人を裁く権利があるのか」


誠司「私を有罪にすれば、人を殺せば罰せられるという教訓になるでしょう」
ノブコ「私はあなたにあの家に帰ってもらいたいんです。やりたい事とかあるでしょ?」
誠司「そうだな。ドビュッシーを聴こうかな。娘とよく聴きました」


【検察庁での打ち合わせ】

(判決が下された事件を、もう一度裁くことはできないってゆってた???

ノブコ「この国の裁判制度と戦いたいんです」
「絶対ムリです。1人で司法と戦うんですか!?」と呆れられるノブコ。


今回の裁判員は6人。
教員、不動産屋の妻、小説家、スーパーのマネージャー、化粧品経営者、洋服店のオーナー。
裁判が始まる前の意見は皆、「人を殺したんだから当然、極刑だろう」というものだった。


【第1回公判】
 
(誠司とノブコはここでもガラス越しなのね

検事側は「殺人罪」だという文書を読み上げる。
誠司「文書の内容を認めます」
吉岡判事「つまり、被告人が無罪か有罪かを聞いているんですよ?」

 
どよめく検事側

誠司「裁判できちんと裁いていたら、岩崎は死刑になっていたはずです。私は起訴状の内容については異論があります」

吉岡判事「被告人は無罪を主張した。中原の犯行の動機に触れないでどうやって審理を進めようというのかね?
     単なる“逆恨み殺人”にもちこめと私に強要するのですか?」


【証人質問】
 

仲「必ず深いワケがあるはずです!」
木村刑事「中原は“殺してやる!”と言っていた。いつかやると思った」(急に態度を変えて、刑事の保身か? 圧力がかかったか?

ノブコは、裁判の傍聴に来ていた、ユキコの中学からの親友に会って、恋人がいなかったか?と聞く。
「いたかもしれない! 両親が旅行中に男を家に入れたことを強く叱って、別れさせられたっていってた」
ユキコ「私、父の呪縛から逃れるの」

その男は、父の助手をしていた原田龍一。ユキコは好きだったが奥手で言い出せず、原田は教授に遠慮していた。
原田「ユキコさんとこれ以上お付き合いできません。好きな人がいるんです」
誠司「ユキコとは二度と会わないようにしてくれ」
誠司は、ユキコを傷つけたくなくて原田に好きな人がいることは伏せた。「今でも後悔しています」

このままだと、ノブコの予想では誠司は求刑15年。しかし、もし真犯人が分かれば執行猶予がつけられる。
婚約者安田「岩崎に前科があったなら、所沢で一人暮らしを始めた時にすでにレイプされて、川崎に引っ越したのでは?」



【第2回公判】
誠司の妹・栄子「兄は虫一匹殺せない。そんな兄が鬼になったのは岩崎のせいです」

和田に証言してくれと頼むが「何も喋りません。裁判所には恩義がありますから」

 

ノブコは原田と会って、ユキコから来た手紙を渡される。それはこの裁判の判決を決定付ける物証だった。


【第3回公判】
(裁判員も聞きたいことがあれば発言していいんだね


ノブコ「判事を退職した理由は?」
和田「病気です」
ノブコ「ストレスでは?」
誠司「辞表を出したんでしょ!」

とうとうノブコは証拠品として手紙を出すが、誠司「私は有罪です。だからその手紙を読まないでください」
ノブコ「これはあなたに読んでもらいたい」
小説家「内容が知りたい」


手紙を証拠品として提出するかどうかでも問題になる

誠司「旅行中、原田が家に来た。ユキコの気持ちを知っていたが、原田には好きな人がいると言えなかった。
   ユキコは怒った、あの時初めて。アパートにも行った。駅で会って“キライです”と言われた。それが最後です」
ノブコ「父なら読まなくてはいけません」

誠司によって手紙が読まれる。

「原田さんは先生の信用を失いたくないと言った。私はレイプされました。
 男は身分証を見て、“警察に言ったら何をするか分からない。これからも時々会おうぜ。オレは岩崎っていうんだ。”
 警察に行ったら“告訴するなら詳しいことをいろいろ聞かれる。どういう体位だったかとか、それでもいいのか?”とニヤニヤ笑って言われた。」

誠司「この手紙でユキコの不名誉が晴れました。ユキコは知らない男のクルマに乗るような子ではありません。
   事件後“だらしない女だ”と散々言われた。私たちは娘を厳しく育てました。名誉が回復したのが一番嬉しいことです。
   私は死刑を望みます。死刑を覚悟しなければ岩崎を殺せなかった。
   人間が人間の命を奪う権利など、絶対ないのですから」(死刑制度を助長しないかな

ノブコ「まだ裁判員の評議が残ってます」


【裁判員の評議】
「私は泣きました」「私もです」「しかし情と法律は違うと思う」
「復讐殺人を認めたら、日本の法律が成り立ちません」「殺したら罰せられるのは当然」
「でも岩崎を有罪にしなかったのは司法のミス。これがなかったら、この事件は起きなかった。中原は日本の司法を撃ったんです」


【判決】

 


*********************************

家族を失った男性が1人で生きていくのは女性より心理的に重いのでは?
本当に何が正義か、何が幸せか分からない。
フィクションとは思えない、深くリアルな物語で何度も泣いた。

田村さんの深みのある物静かな演技が終始ドラマを引っ張り、
対照的に竹内結子さんのエネルギッシュな演技が救いと希望を与えてくれた。

人が人を裁く厳しさ。
司法の判断ですら誤ることがある。やはりヒトがやることだから。
ドラマだけえも胃が痛むのに、4回にわたる公判まで一体何日かかったのか分からないけど、
誰にも相談できず、その後も守秘義務で話しちゃいけないなんて、一緒に同じ罪と痛みを背負った気分だ

一番解せないのは、レイプされ、勇気を振り絞って警察に行ったのに、ニヤニヤしながら対応した警官ってどうゆうことだ
今は裁判中、パーテーションで被害者女性を囲ったりして守っているみたいだけど、
事件のことをまた根掘り葉掘り聞かれること自体、被害者に二重三重のPTSD(外傷後ストレス障害)となるに違いない。

そこにマスコミのスキャンダラスな煽り、被害者の顔写真が載ったり、家族にむりやり感想を聞いたり、もっと被害者を守らないと。
本人はもちろん、家族のカウンセリングや支援が必要だ。
心身に受けた深い傷は一生つきまとうのだから。

性犯罪は再発率が高いというデータもある。性癖は変わらないから。
家族からですら「恥になるから」「お前がもっと気をつけていれば」と責められて敵になるケースもあるから、
結局、届け出もせず、誰にも言えないまま泣き寝入りする女性も無数にいるだろう。
一体、世界中でこれからもどれほど同じ犯罪が続くのか・・・


インドで日本人女性がまたレイプ被害 “旅行ガイド”装った容疑者は逃走中
レイプされた女性はいつも、心身ボロボロになった上に、自分の軽率さを家族からも責められて、メディアには煽られるんだな。

裁判員裁判の死刑判決「破棄」が確定――裁判に「市民参加」の意味はあるのか?
死刑も同じ人殺し。そう思うと判決を下す荷が重すぎる。
本当の極刑は、自ら犯した罪を背負って生き長らえるほうではないかと私は思う。


AH入門ワークショップ

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最近読んだ『怖れを手放す』に載ってた入門ワークショップに行ってみた。
当然、他人のプライベートな話は守秘義務があるから書かないけど、
ワークがどんな感じだったか、自分の感想メモとして書いておこうと思う。
進行の順序やらは本に書いてあった通り。

『怖れを手放す』(星和書店) (その1)
『怖れを手放す』(星和書店) (その2)
『愛とは、怖れを手ばなすこと』(サンマーク文庫)

普段、用事のない麻布十番。
「駅から8分」とはいえ、こういう表記って短く書いてあることが多いから、
時間が余ったらランチの場所を探したりして時間を潰せばいっかと思っていたら、
けっこう早く着いてしまった←すでに完璧主義を発揮

コーヒーショップでちょっと腹ごしらえをして、会場となるビルに行ったら、
けっこう狭くて、急な階段を上がったところの3階。


【午前の部】
部屋の中は、ちょっとした植木が置いてあるベランダがあったり、窓が多くて、
円形に並べられたイスがあり、奥はいろいろな飲み物が自由に飲める

スタッフさん(ファシリテーター)は2人。
1人はお茶の番をしてるけど、やっぱり何か学んだり、様子を見たりしてるのかなあ?
もう1人は、円の中に加わって、10時~16時まで、説明をして、進行係を務める。

今回集まったのは全員女性。意外と珍しいことだという。首からニックネームの札をさげて座る。
午前中は、『怖れを手放す』の本に書いてある原則を読んだりして、質問もできるし、より理解を深める時間。
午後からは、早速、AHの本題である「話を聴く」レッスン。

途中、11時20分くらいで1回休憩(10分ほど)が入って、ランチは12時30分から1時間。
その間、守秘義務を守り+評価やアドバイスをしないっていう原則にのっとって、話した内容に触れないって約束事を守るんだけど、
なんだか裁判員制度みたいで、何を喋っていいのか、喋っちゃいけないのか分からなくて、皆苦笑

あらかじめ目をつけてた和食屋さんの話をしたら、皆そこにしようってことになって、みんなでランチになった。
こうして、女性グループで食事するのってどれだけぶり???
いろんな和洋惣菜を選べて、混ぜご飯、鶏のスープがついたランチセットは美味しかったv


【午後の部】
話したくなった人から、1人5分ずつ自由に話していく。
自分で話す時は泣いてしまい、5分て長いのでは?と思っていたのに、実際は「え、もう?!」てほど短く感じた/驚

話した後に1枚カードを引いて、そこに書かれているAHの言葉を読んで思ったことを言う。
私は「世界をバラバラなものとして見ない~」だっけ?
みんな1つだと普段は思っているのに意外だった。逆説的ななにか???

みんな1回ずつ話して1周終わり。

今回は、キャンセルされた方が3人いて、いつも10人でやるから、2回話す人が3人必要とのこと。
「2回目のほうが正直に話せたという方が多いので、ぜひ」と言うので、2回話してみた。

今度引いたカードは「怖れるものは何もない」だったっけ? じゃあ、まだ怖れを抱いて生活してるってことか?
みんなリンク度が高かったようだけど、私はピンと来なかったなあ。
理解度が低いのか?と思ったが、それも自分への評価だとすると・・・考えるほど頭が混乱してくる


でも、今日は「聴く」ほうがメインの練習。
相手の話を聴きながら、アドバイスもせず、評価もコメントもしない。
頭の中で「こうすればいいのに」「自分と同じだ」とかも考えずに人の話を聴くって難しい。

「アドバイス」っていうのは傷つくこともある。
本にもある通り「こうすればいい」は、「現状否定」が前提のため。
悩んですでに十分傷ついているのに、相談したらさらに否定された感じがして余計悲しくなる
それは自分でも経験があるから分かる。

だけど、私は正直、他の人の悩み事を聴くのが辛くて、苦しくなって、発作が出るかと思った
いろんな立場の人が集まって、共通の部分もあるからつい共感したり同情してしまうのは人の自然な感情。
でも、「この人は大丈夫っていう“そこはかとない安心感で聴く”」っていうのが出来ない。

どれも映画みたいに映像が浮かんできて、たて続けに悲しい映画を観ている感じで、
手に汗をかいて、何度かクスリを飲もうか、いったん退室しようかと思いながら、なんとか最後まで聴いた。
AHは、実践するのはかなり難しいなあ。いや、これが今の自分のプロセスってことなのか。

「まあ、今日は60%の実感を目指して、くれぐれも完璧主義にならないでください」とは言われたものの、
「こんなんでいいんだろうか?」て自分にも何度も評価を下していることにも気づいたし、
周囲や自分の中のたくさんの「怖れ」にも気づいた。

自分の中の「怖れ」に気づくこと自体が、もう十分に怖いじゃないか?!
それを「自分は内外の刺激によって傷つかない」と思い込もうとしても、
思いっきり話に引きずられている自分がいる。これが私の課題なのかなあ・・・


でも、皆それぞれ得たものがあったようで、穏やかな雰囲気のままワークは終了

なんと、この日はジェリーさん(AH創設者。今年で90歳)のお誕生日ということで、
みんなで写真を撮って、送ろうってことになって、お祝いした。Happy Birthday!!!


そのまま残っている人もいたり、早く帰る人もいて、私も外に出たら、
いつもなら重い話をした後は、ぐったり疲れるのに、体感的な疲れはない感じ。
でも、最近、人と話すこと自体少ないから、疲れてるだろうと思って、
家に帰ってゆっくり半身浴をして、早めに寝た

AHの目指す「ぽかぽかした温かい気持ち」になれたかどうかも、まだよく分からない。
これから、何度も実践して、時間が経てば、それなりに実感するものなのかなぁ?



『臨場 劇場版』(2012)

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『臨場 劇場版』(2012)
原作:横山秀夫 監督:橋本一 脚本:尾西兼一
出演:
【警視庁刑事部鑑識課】
倉石義男(検視官):内野聖陽
倉石雪絵(倉石の亡妻):京野ことみ(写真)
小坂留美(検視官心得):松下由樹
永嶋武文(検視補助官):平山浩行

【警視庁刑事部】
立原真澄(捜査一課 管理官):高嶋政伸

【神奈川県警察】
仲根達郎(刑事部捜査一課 管理官):段田安則

浦部翔太(浦部の息子):外波山流太
浦部謙作(地域課 駐在所勤務):平田満

【通り魔事件の関係者】
関本好美(被害者):前田希美
関本直子(好美の母親):若村麻由美

波多野進(通り魔事件の犯人):柄本佑

安永泰三(横浜医大法医学教室教授・倉石の恩師):長塚京三
高村則夫(波多野の弁護人):菅原大吉
加古川有三(波多野の精神鑑定を行った精神科医):デビット伊東
ほか

trailer

ドラマ版を観てないけど、劇場版がテレビでOAされたので観てみた。
内野聖陽さんと言えば、ドラマ『JIN~仁』の坂本龍馬役のイメージしかなくて、
その後、現代劇を観た時に違和感を感じたまま
このシリーズでも熱い男を演じているのね。セリフ回しに若干、昭和な雰囲気を感じたのは私だけ?w

ドラマ『JIN~仁』全11話(2009)
内野聖陽さんがゲスト@あさイチ

 

検視官は、変死体の状況捜査をする鑑識課の警官。
哲さんが『ATARU』で演ってた鑑識課・科捜研とどう違うのか、なんで同じ警察官なのに捜査に加わっちゃいけないのか、
組織ってフシギなことがたくさんあるんだ。

▼story(ネタバレ注意
平和な街中にバスが突っ込み、中から血まみれの男・ハタノが出てきて無差別殺人を起こす。
バス内で2名、外で2名が死亡。
しかし、刑法39条によって無罪となり、警察内の病院に送られた。
被害者ヨシミの母ナオコは「人を殺して、なぜ無罪なんですか? おかしいじゃないですか?」とハタノを激しく憎む。




2年後。
精神科医・加古川の変死体を見た検視官・倉石は、弁護士・高村の遺体検死結果との共通点を見つける。
(コンパスを使って傷の確認とかしても、現場検証はしちゃいけないの?

2人とも刃物による出血多量死。推定時刻は昨夜6~8時と出たが、肝臓の温度(!)からは8~10時と推定。
動脈を狙って刺していて、素人の犯行とは思えない。

この2人が2年前の事件に関わっていたことが分かり、東京と神奈川の合同捜査となるが、なかなか足並みが揃わない。
被害者の3回忌合同法要に倉石も出席すると、ナオコが追ってくる。

「2年経ってもまだ分からないんです。娘があすこに行く理由がない。
 みんな事件のことをなかったかのように忘れている。
 私の育て方が間違っていたのか、と思うと生きるのが辛い。そんなことの繰り返し。

 それもみんなアイツのせい。アイツは今も生きている。責任能力って何ですか?
 なぜアイツは保護されて生きてるんですか? 病気なら人を殺してもいいんですか?
 結局、みんな分かってくれないんです。教えて下さいヨシミの最期の声を。
 私が生きていけるような言葉をちょうだい

ナオコら被害者家族の復讐殺人では?と疑う神奈川県警察・仲根達郎刑事に
倉石「死体を細工するような人間が遺族にいるワケないだろ? 2人に恨みを持つ人間が他にいるのでは?」

8年前、女性が殺され、浦部翔太という容疑者が逮捕され、仲根の執拗な取調べで自白し、
公判中に拘置所で首吊り自殺した。その後、真犯人が逮捕され、翔太は無実と分かった。
彼の父・謙作は警官で、事件後も辞めずに、町の交番勤務を続けていた。倉石が訪ねると、

謙作「警官を続けているのは、息子の精神鑑定を許した自分への罰だ」と言う。


ハタノがヨシミの墓参りをしたいと申し出て、それを受諾した夫にもあたるナオコ。夫婦仲も最悪に。

倉石は、恩師で、横浜医大法医学教室教授・安永泰三を訪ねる。
彼は外科医だった頃、忙しかったため、妻がこころの病に罹っていたのを知りながら助けられなかった。
妻は手首を切って自死。妊娠していたことが後で分かった。
「私は死にたくない!」という叫びを聞いてあげられなかった後悔に今も苛まれている。



倉石が倒れて緊急入院し、かけつけた小坂(倉石の部下)らは、
以前から気になっていた被害者のスーツのシミがお茶ではないと気づく。


行動を監視していた浦部が消えた。
「これから(墓参りに外出する)ハタノを殺す。40年間沈黙してきた私の復讐だ」

 

倉石も病院を飛び出し、浦部に撃たれて負傷したハタノが逃げ込んだ教会に向かう。
そこには安永もいた。

安永は末期がんで余命半年と告げられていた。倉石も同じ病。

安永「私は残りの人生をどうするか、この歳になっても分からない。
   あの裁判の時、ハタノが笑ったのを見た。アイツは正気だったんじゃないか。「詐病」=病気のふりをすること。
   加古川に聞きに行くと“精神鑑定などは十人十色だと思っています”、弁護士も同様に軽い態度。
  (加古川は有名事件をスクラップして集めていて)2人は自分の利益、権威、金銭を優先していたんだ」

倉石「オレのとは違うなあ。もの言わぬ死者の声に静かに耳を傾けると教えてくれたのはあんたのお陰だ。
   だが今は死ぬのが怖くてあがいてるくだらねえ男にしか見えねえ。
   オレはあの世からお迎えが来るまで精一杯生き続ける。罵られようが関係ねえ。
   ユキエ(亡くなった妻)とまた会えたら、お前の分まで生きたぞ、どうだ!って言う」


倉石はナオコに会う。
「オレは人を救うことなんてできるワケがねえ。ただ、この町のどこかに娘さんの最期の言葉が残されているのかもしれねえなあ」




************************************

小坂「人はそんなにカンタンに人殺しができるものじゃありません」てセリフがあった。

以前、母と一緒にこういった悲惨なニュースを見ていた時、
母が「もし自分の子どもがこんな目に遭ったら、絶対、犯人を殺してやる」って断言してて、背筋が寒くなった

私には子どもがいないから実際の気持ちは想像できない。
でも、子どもを産んだ母親の気持ち、一生懸命育てた父親の気持ちってそんなに強い憎しみに変わるものか?

私は、たとえなにかの犠牲者側になっても復讐してくれなんて絶対望まない。
体はなくなっても、魂は生き続けて、命は巡り、死後の世界も、現世に負けず劣らず素晴らしいと信じているから。

死への恐怖は人それぞれ。
その時になってみなきゃ自分にも分からない。
残された側の喪失感は想像を絶するけれども、
唯一分かるのは、復讐心は誰もハッピーになれないってことだな。


『地底旅行』(1864) ジュール・ヴェルヌ著(偕成社)

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『地底旅行』(1864) ジュール・ヴェルヌ著(偕成社)
石川湧/訳 エドゥアール・リウー/挿絵
原題『地球の中心への旅』1864年初版、1993年第1刷、1997年第11刷


またまた大スケール、ミステリアス、大興奮の驚異の旅
無限に駆け巡るヴェルヌの驚くべき想像力の豊かさ、思わず納得させられる豊富な知識、
そして怒涛の如く一挙に読み手を引き込んで放さない文章力。

今作は、空、海底、無人島の旅にも劣らぬ地底の世界。地球の中心への旅。
今でも地核とマグマ、高熱の世界という説が常識とされているけれども、
以前、極から偶然、地底の別世界を見たという人も現れて、まんざら虚構だとも決めつけられないところがヴェルヌの魅力。
ちなみに、その話では、本書と違って、地底世界には巨人がいて、地上よりも高度な文明社会を築いていたそうな。

まるで地質学者のパラダイス。どんどん世紀、地球の生命の歴史を遡っていく様子は『ジェラシックパーク』。
目前で恐竜たちの大迫力ある戦いを見たり、漆黒の闇に迷ってしまったり、
旅に疑問を抱き続け、戸惑う甥の心境も、ついに火山噴火から押し出される。

クライマックスまでハラハラドキドキの連続。一気に2日で読みきってしまった。
地底世界はあるか? ないか? 本気で考えたくなるロマンあふれる傑作。



▼あらすじ(ネタバレ注意
風変わりで、いつも生徒に口たらずを笑われているマッドドクターそのままのリデンブロック教授は、
幾何学的文字、ルーン文字で書かれた掘り出し物の本に大興奮する。
そこから暗号の記された古い羊皮紙が落ち、食事も忘れて解読にかかる。

両親を早くに亡くして教授の助手をしている甥アクセルは、偶然裏から読むと

「大胆な旅行者よ。7月1日以前にスカルタリスの影がかすめるスネフェルスのヨクルの噴火口に下りよ。
 しからば汝は地球の中心に到達すべし。余はそれをなせり」アルネ・サクヌッセンム

甥の悪い予感通り、即、地底への大冒険旅行に出かけると言い出す教授。
元孤児の養女で、婚約者のグラウベン嬢までが勧める。
「学者の甥にふさわし旅行よ。男はなにか立派な仕事をして人に優れるのがいいんだわ」

悪夢にうなされながら、とうとう船でアイスランドに向かい、途中、尖塔にのぼって高所訓練まで受ける。
アイスランドで泊めてくれた主人にアルネのことを聞くと、異端者だと迫害され、著作をすべて焼かれたという
秘密厳守と言いつつ、興奮して自ら喋ってしまう教授が可笑しい。

後々、命の恩人にまでなる最高の案内人で、力強く、無口で、頼りになる男ハンスに連れられて、
馬でアイスランドを渡り、貧しい宿屋を転々として、とうとうスネッフェルス死火山に登る。

火口にはアルネの石刻み文字が
3人は火口の底へロープで下り、翌日から地底への旅を開始する。



水中でも引火しやすい気体中でも安全に光を放つルームコルフ装置で照らしながら行くと、二手に分かれていて、運を天に任せて右へ行く。
途中から登りとなり、水が欠乏。その道は行き止まり。朦朧とするアクセルに教授は最後の水を飲ませる。

「分かるかね? 最後の水だ。私はそれを飲みたい欲望に20回も100回も抵抗したのだ。
 いや、お前のためにとっておいたのだよ、アクセル」

分かれ道まで戻り、左を行き、アクセルは歩けなくなり万事休すが、ハンスは岩の奥に流れる激流を探し当て、
岩を削って鉄分を含んだ熱湯を飲み、「ハンス川」と名付けて、道しるべとする。

1mごとに数度上昇する「地熱説」はくだかれ、32度で、もう3000mもの深淵。
大気は濃いため、酸素は十分、音伝導がよく、遠くの音もよく聞こえる。
気圧も地表が最大で、地球の中心は無重力だという。ゆっくり下るので体を徐々に慣れてゆく。


外界の刺激が少ないため、言葉少なくなり、アクセルは小川道を外れて迷ってしまう
ライトも壊れ、極限状態でパニックを起こす。
4日間もそんな状態で、とうとう教授の声が聞こえ、声の届く時間で距離を計算し、同じ広間にたどり着いて再会する。

着いたのは海!
「リデンブロック海」と名付け、植物の化石で筏を作り、翌日出発。
巨大化したキノコの森、堆積岩のつらなるだけの不気味な岸壁、
天井も岩だろうが白い光を帯びた空に雲がかかったニセモノの空。

港は「グラウベン港」と名付けて航海を開始。
地底の深さは計り知れない。しかも位置は大西洋の真下。
化石でしか見られない原始の魚が釣れたり、半分朦朧と熱くなった頭でどんどん進む。


恐竜時代から植物時代、海に包まれた時代から、地球になるまでのガス星雲にまで遡るアクセルの想像に飲みこまれていく。
魚竜と首長竜との戦い
巨大ワニとネッシーみたいな絵が互いに首を咬んでいる様子が凄い。




潮を吹く巨大クジラに見えたのは、実は間欠泉を上げる島で「アクセル島」と名付ける。
次は嵐。天地創造シーンに居合わせたような大波、大轟音、電気の放出、磁気を帯びた青い玉は何だったのか!?
暗礁に乗り上げ、北の岸に着いたと思って羅針盤を見たら南。絶望的にも出発点に戻っていた!

「自然は私に陰謀を企んでいる。負けんぞ。人間が勝つか、自然が勝つか、今に分かる!」

筏に乗る前あたりを探検したお陰で、300年前の人骨を発見!
白人で大きさも形も現代人と同じ。思わず架空の生徒に演説をうつ教授。

その奥では巨大象マストドンの群れと戦う巨人族を見て、逃げる2人。
ローマ神話の引用が印象的。

「恐ろしき獣の群れの番人にして、みずからはなお恐ろしき姿なり!」

その上、錆びた短剣と、トンネルの入り口にアルネのサインを発見!
が、その前は巨大岩でふさがれ、興奮したアクセルは、火薬で吹き飛ばす計画を思いつく
爆発が大きすぎて海水が流れ込み、筏ごと急降下!

食糧も1日分を残してすべて流されて絶体絶命。
唯一のチャンスは噴火口を通り、筏ごと登り、一緒に押し出されること。
どこでも、どんな状況でも、先を読み、冷静で学者根性を失わない教授の決心で、最後の食事をとり、炉の中のような暑さを抜け、
ついに出たのは、なんと地中海に浮かぶ諸島の活火山の火口だった。


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早く、他の作品にも触れてみたい。
映画と原作がかなりかけ離れているケースも十分考えられるから、原作を読めば新たな発見と感動があるかも。
タイトルの中では、月旅行や、砂漠のが面白そう。

やっぱり旅シリーズが一番だと思うけど、それ以外のヴェルヌの小説も面白いのかな?
彼ほどミステリアスな旅を実現させてくれる人はいないからね。


ジュール・ヴェルヌ

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ヴェルヌを知ったのはいつだったか。
ヴェルヌのお陰で冒険ものにハマったのか、それとも『ロビンソン・クルーソー』などの名作シリーズから知ったのか?

1冊ごとにとてもぶ厚いけれども、いったん読み始めたら止まらない
嵐の中を気球で飛び立つシーン、ノーチラス号の謎の多いネモ艦長、無人島での暮らし、、、
何冊かはネモ艦長つながりだから、全部読みたくなる。

昔、ディズニーランドのアトラクションにも、ヴェルヌがもチラっと出てきて、
タイムマシンで未来を見たから、その後のSF小説に影響しているという件があった。

それほど、ヴェルヌ作品の中には、本当に未来を見て来たのでは?と思えるような、
現代科学の産物がいろいろと出てくるのもフシギ。

ヴェルヌの本は、エドゥアール・リウーほかの挿絵も大好き。
リアルなモノクロ線画で、作品の大冒険を読みながら、ちょっと分かりにくい時代背景や、雰囲気が挿絵で分かるし、
同時にそこから、自分の中で想像も膨らんで、一緒に冒険してハラハラドキドキさせてくれる。

だから、ヴェルヌを読んだ感想メモには、真似て描いたつたないイラストが入っていることが多いw
以下は、読んだ当時の感想メモの転記(読んだ時期は出版順ではないので前後しています


『地底旅行』(1864)

『海底二万里』(1870)

『八十日間世界一周』(1873)

『神秘の島』(1875)

『十五少年漂流記』(『二年間の休暇』)(1888)

図書館で借りたCDシリーズ~泰安洋行/細野晴臣ほか

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泰安洋行/細野晴臣
ついに細野さんの世界に突入。
参加ミュージシャンの顔ぶれもハンパない。大滝詠一さん、矢野顕子さん、山下達郎さん、大貫妙子さん、小坂忠さんなどなど。
♪Pom Pom 蒸気 はこないだ聴いたサケロックカバーver.と比べるとかなり近い/驚


日本の人/HIS
  

まず、この面子の集まり方がスゴイ。それに、なぜ学生服でスケート? なぜだか甘酸っぱいw
タイトル曲は、源くんがカバーしてて、原曲への想い入れが伝わってくる。

  

細野晴臣トリビュート(サケロックオールスターズ+寺尾沙穂)-「日本の人」
人と仲良くできない人
自分だけが特別な人
人となじめず苦しむ人
ストレスに悩まされる人

目を開けてごらん
顔をあげてごらん
春が来ているよ

また今日も思い悩む人
自分だけが淋しい季節

 


Strange Days/The Doors
カセットテープの時は、ドアーズがB面、A面はT-REXだった。
ドアーズのアルバムは、ラストの曲がいつも強烈。♪When the Music's Over もかなりドラッギー。

♪People Are Strange も好きな1曲。
お前が普通でない時は
(彼らの)顔が雨の中から現れる

お前が普通でない時は
誰もお前の名前を覚えていない


●LOUIS ARMSTRONG GOLDEN GREATS 16/Louis Armstrong


これもずーーーーーっとテープで聴いてた。大体、ベストものから知るパターン。
いろんなゲストを呼んだライヴ録音もあり、歌詞をアレンジして女性シンガーにちゃちを入れたりして、
爆笑する観客の声もあって、意味は全部分からなくても、何度聴いても笑顔になっちゃう大好きな1枚。

1.WHEN THE SAINTS GO MARCHING IN
2.I USED TO LOVE YOU
3.LA VIE EN ROSE
4.LOVER
5.I LOVE THE GUY
6.THAT'S MY DESIRE
7.ROYAL GARDEN BLUES
8.AIN'T MISBEHAVIN'
9.HEEBIE JEEBIES
10.MAME
11.ROCKIN' CHAIR
12.WHERE DID YOU STAY LAST NIGHT?
13.BABY, IT'S COLD OUTSIDE
14.C JAM BLUES
15.STOMPING AT THE SAVOY(サヴォイは、NYのハーレムにあった有名なボールルーム:舞踏場~ライナー参照
16.JEEPERS CREEPERS


World Gone Wrong/Bob Dylan


ディランもまだテープが数本残っている。後半になるにつれ、あまり聴きこまなくなっってしまった。
ライナーにある通り「今作はアーティストの強い意向により、歌詞・対訳を掲載しておりません」ということで、
日本人にとっては、メロディと、部分的な意味しか分からないのが残念だけど、
「久しぶりにディラン自身が書いたライナーが添付されて」いるのが貴重。

【ライナー抜粋メモ~1993.10.6 菅野ヘッケル】
ディランの最近の作品は、世界の終末観と関わるものが多い。
かつてブルースシンガーたちは嘆きを歌った。歌によって嘆きが多くの人々に伝わっていった。
歌がパワーを持っていたのかもしれない。しかし、最近は歌のパワーが薄れているようだ。ディランはそのことを嘆いている。

破滅に向かう世界と、歌のパワーが薄れていることと、人々に歌い継がれていく歌が消え去りつつあることを嘆いている。
だからこそディランは、1988年以来、1年間に約100回にも及ぶコンサートを毎年続け、
多くの人たちに直接歌いかけているのだろう。

インタヴュアーが、年間100回ものコンサート・ツアーを続けている理由は何か、
ツアーを止めようと思ったことはないか、と質問したのに対して、ディランはこう答えている。

「どうしてツアーを続けるのかと質問されることが多いが、どうしてそんなことを質問するのか、僕には分からない。
 井戸掘りを仕事としている人に、どうして井戸を掘るのかと質問するのと同じで、
 歌い続けることが僕の生活だ。ツアーを止めようなどと考えたことは一度もない」



【ライナー抜粋メモ~B.ディラン 翻訳:菅野ヘッケル】
♪壊れた機関車
ブラインド・ウィリー・マクテルの傑作。
ビジネスや、政治に関わる愚か者たちが、線路上でぶつかり合っていることを歌っている。

♪奇妙な世界に
ミシシッピ・シークスの歌。これは文化政策に反対している。
「奇妙なことが、かつてなかったほどに起きている」

♪ジャッカ・ロウ
トム・ペイリーが歌っていたバラッド。
自分のやっていることは、本当に自分が得意とすることなのだろうか? 自分の人格を水に沈めろ。

♪二人の兵士
非常によくできた戦いの歌。財力に左右される戦争(利息のために金を貸すなんてムカムカしてゾッとする)が歌われている。
愛は担保ではない。弱い者(不完全な状態にある人間)いじめを歌っている。
時計を逆回りさせることが前進だと習うこと。時間単位で考えるのをやめること。

♪孤独な巡礼
人がある時点で自分を誤魔化すという馬鹿げたことをどうやって捨てられるのか、というところにボクは興味を惹かれた。

確かに「ネヴァー・エンディング・ツアー」は存在したが、ギタリストのG.E.スミスが抜けた1991年に終わっている。
それ以降も多くのツアーをやっている。
「金は尽きないツアー」「南部支持者ツアー」「哀れみのひと叫びツアー」「行動主義ツアー」「意識の噴出ツアー」
「約束を破るなツアー」など、多すぎて掲げられない。それぞれが独特の性格をもった企画のツアーだ。


今年で73歳か。永遠に生きて現役で歌い続けて欲しい。

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私はモノを極力持ちたくない性格のため、コレクターの気持ちは分からないけれども、
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これまでのカードをファイリングしたついでに写メを撮ったので、ブログにも随時アップしていこうと思う。
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